第5話 崩れゆく心の支え






 目を開けると、冷たい空気が頬を刺した。布団の中で縮こまっていた健一は、ふと周囲の静けさに気づいた。吐く息が白く、薄暗い部屋には自分の呼吸音だけが響いている。

 

 布団を払いのけると、体がひどく冷たく感じた。薄手のパジャマが肌に張りつき、まだ幼い体には少し大きめの服がぶかぶかだ。かれはしばらくじっと天井を見上げ、胸の中にこみ上げてくる不安を押し殺そうとした。だが、空腹がそれを許さなかった。


「……ママ…?」


 かすれた声で母親を呼ぶが、返事はない。健一はゆっくりと体を起こし、薄暗い部屋の中を見渡した。母の姿はどこにもない。寒さに身を震わせながら、恐る恐るふすまを開けると、薄汚れた居間が広がっていた。


 空っぽの部屋。机の上には何もない。ただ、冷たくかたい空気だけが充満していた。


「ママ…」


 もう一度読んでみるが、やはり返事はない。幼い心が不安と孤独に押しつぶされそうになる。いつもなら怒鳴り声や足音が聞こえるはずなのに、それすらもない。静寂は、無慈悲なまでに重い。


 小さな足で居間のテーブルに近づくと、そこには一枚のメモと数枚の硬貨が無造作に置かれていた。健一は震える手でその紙を手に取る。




≫≫   


    好きなものを買って食べなさい。

  

             ママ




 たったそれだけの文字だった。雑に書かれた文字が、ひどく遠い存在に感じられた。目の前のメモをぼんやりと見つめる健一は、手の中の冷たい硬貨に目を落とした。300円。小さな手には、その硬貨がまるで重りのように感じられた。


「……お腹……すいたよ」


 声はかすれ、誰にも届かない。母親に向けられた言葉はむなしく部屋に吸い込まれ、何も変わらない現実だけがそこに残っていた。


 泣きたくても、もう涙は出ない。涙は、もう何度も流し尽くしていたからだ。冷たい硬貨を握りしめ、健一は俯いたまましばらくその場に立ち尽くしていた。胃の中が空っぽで、何も入っていないのに、胸の奥から何かが押し上げてきそうだった。寒さだけが体に絡みつき、胸の中の寂しさが、さらに凍えさせる。



「ママ……」


 もう誰もいないと分かっていても、その言葉が口から繰り返し漏れた。健一はかすかな希望を抱いて、部屋の中を歩き回ったが、どこにも温もりは見つからなかった。母が残していったのは、小銭と、冷えた空気だけだった。







………



……








「ウォロロロ…」


 気色悪い声とともに目が覚める。朝方の光が微かに窓から差し込んでいる。どうやら俺はベッドから転げ落ちたみたいだ。

 随分と昔の夢を見た……。健一は頭を押さえながら息を吐く。昔の記憶を思い出すなんて最悪の目覚めだ、頭も痛い、再度深い息を吐いた。

 雑然とした和泉のリビングは、昨夜の宴の名残をそのままにしていた。テーブルの上には、空になった酒瓶やスナックの袋が散らかっている。ソファには、二日酔いで頭を抱えている和泉がぐったりともたれかかっていた。ちなみにパンツ一枚だけの姿だ。なんというか情けない。


「ああ、頭が痛え……もう酒は飲まねえって誓ったはずなのに……」


 こいつは何を言っているんだろう。和泉はぐったりとつぶやき、乱れた髪をかき上げた。健一は二日酔いの友人を気遣う様子もなく、彼の心は別のことでいっぱいだった。しばらくの沈黙の後、健一は重苦しい空気を破るように口を開いた。


「おはよう…」


 健一は頭を押さえながら床で胡坐をかく。ベッドの端に背をもたれさせた。昨日の飲み会の後、美咲のこともありしばらく和泉の家に避難させてもらうこととなった。


「おぅ…健、大丈夫か」

 和泉涼はコップで水を飲みこんでいる。かなり青白い、二日酔いであろう。


「お前こそ大丈夫かよ」

 健一はお腹を掻きながら立ち上がる


「いや無理だわ、今日バックレたい」

 しゃがみ込んでいる涼を少し見てから健一はトイレに向かう。便座に座りながらスマホを見ると通知がかなり溜まっている。ほとんど美咲からのものだった。酒によるものなのか美咲によるものか頭痛でクラクラしながらトイレから出てくる。


「………健、お前仕事だっけ」


「……」

 健一はスマホの通知画面を見続けており、和泉の声に気が付いていない様子だった。


「けーん、しごとかー」

 和泉が少しおおきめの声で話しかけると健一は和泉のほうへ顔を向ける。


「ん、今日は日勤だよ。」


「健一、昨日も話したけどよ」


「なにが」


「お前、一度耳の方見てもらったほうがいいぞ、さっき何回かお前に話しかけたけど気が付いてなかったみたいだし」


「…ああ、うん」

 青白いが真剣な顔つきで話す和泉に、健一は少し圧を感じた。自分の体を心配してくれているのが伝わるため無下にもできないと思った。


「そんな気になるほどじゃないけど、師長に話してみるよ」


「おう、そうしろ」


 健一は昔の夢を見たり、美咲の一件でストレスが溜まっているからなんじゃないかと思っている。たまたまだし行くほどではないと思うが、和泉がそういうなら近々受診したほうがいいのかもしれない。



「なー」

 健一が和泉に声をかける。和泉はほおけた顔を健一に向けた。



「俺……美咲との関係、もう終わりにするよ」

 その言葉が部屋に響くと、和泉は目を細める。いつもは軽口を叩く彼も、今回ばかりはそれができないと察したのだろう。二日酔いでも、真剣な表情で、しばらくの間その言葉を噛み締めるようにしていた。


「……そうか。お前が決めたことなら、それでいいんじゃないか?」

 健一は頷きながら、深く息を吐いた。美咲との付き合いは長く、確かに愛していた。しかし、最近の美咲は健一に対して依存しすぎるようになっていた。それが心に重くのしかかり、ついには限界を迎えたのだ。


「お前がそう決断するのも無理はないさ。あいつ、最近おかしかったもんな」


「そうだな……美咲は、自分を見失ってる。でも、俺もこのままじゃ引きずられる気がしてさ」


 和泉はソファの上で体を起こし、頭を押さえながら深く息を吸い込んだ。彼の顔にはいつも通りの無頓着さが戻りつつあったが、その言葉にはどこか真剣さが垣間見える。


「まあ、美咲ちゃんがどう思うかは知らんけど、お前が決めたなら、それでいいんじゃないか?依存されたままじゃ、こっちもたまったもんじゃないだろ」


 健一は和泉の言葉に小さく笑みを浮かべたが、心の中にはまだ迷いが残っていた。美咲への愛情は残っているが、その関係がもはや健全なものではなくなっていることも理解している。健一はまたポケットからスマートフォンを取り出し、美咲との最後のやり取りをぼんやりと眺めた。彼女のメッセージは、徐々に彼への執着と不安に満ちたものになっていた。


「んで、どうするつもりなんだ?そのまま自然消滅ってわけにもいかないだろう?」


「いや、直接話して終わりにするつもり。曖昧なままじゃ、お互いに苦しむだけだしね」


「そっか。まあ、健闘を祈るよ。俺はただの傍観者だからさ」


 その後、和泉はもう一度ソファに倒れ込み、酒に潰れた体を休ませようとしていた。健一は、立ち上がって窓の外を見つめる。冷たい風がガラス越しに伝わり、彼の決意を一層固めるように感じた。





「とりあえず、仕事行こうぜ…凉」



「ぜえエェッったいに無理ッッ!!」












          ♱ ♱ ♱











 病棟に戻ると、いつもの忙しい空気が健一を包んだ。

 夜勤者から申し送りを聞き、患者の状態を確認し、処置を進めながらも、ほかの看護師たちとのやり取りが続く。仕事を進めるたびに、健一は自分がこの場所でいつも感じていた「現場の緊張感」に再び飲み込まれるのを感じた。決断の連続と緻密なケア、それが看護師としての日常だ。

 気がついたらもう日勤帯は終わりに近づいていた。夜勤者がちらほらと出勤して来て情報収集を始めている。

 


「健一さん、入院患者さんの点滴準備しているんですけど、目を貸してもらってもいいですか。」


 スタッフの山下さんが声をかけてくる。彼女は新人で、まだ慣れていない様子だが、誠実に仕事に取り組む子であった。日勤終了ギリギリに入院が入ったので少しテンパっているようだり


「わかった、すぐいくね。」


 健一は優しい声で答え、急いで点滴確認のためダブルチェックを行う。その後、盆に用意されてた点滴セットで足りない物品を慣れた手つきで揃えた。無駄な動きは一切なく、山下はそんな健一の姿を尊敬の眼差しでみていた。


「健一さん、ありがとうございます。本当手際がいいですよね。私も早くそんな風にできるようになりたいです。」


「焦らなくてもいいよ。俺も最初は失敗ばかりだったからさ」

 健一は少し照れたように笑いながら答えた。


 山下はその言葉に少し安心したようで、軽く頭を下げた。


「ありがとうございます、少し気が楽になりました。」


 仕事をしながらも、こうした小さな会話が、チームの絆を強めているのだろう。健一はそんなことを思いながら、もとの場所に戻り、電カルを立ち上げ記録に勤しんだ。


 ナースステーションでは、すでに数人の看護師が集まっていた。健一は次の患者の記録を書こうと、端末に目を向けたが、すぐ元気な声が背後から聞こえてきた。


「健一先輩!お疲れ様です!」


 振り返ると、鈴木桃子が大きな笑顔で立っていた。


「お疲れ、鈴木さん。今日も張り切っているね。」


 健一は苦笑いしながら返事をするが、その顔には疲れが見えていた。桃子はすぐにそれに気づき、少し心配そうに彼を見た。


「先輩、最近お疲れですか?なんだか元気がないように見えますけど…」


 健一は少し困った顔をして、「まあ、ちょっといろいろあってね」と軽く流す。しかし、桃子の視線は鋭かった。


「先輩、無理しないでくださいね。私たちも頼りにしているけど、たまには休んだり、誰かに頼ったりしてもいいんですからね」


 健一はその言葉に少し心がほぐれたような気がした。彼女の言う通り、最近は、美咲との問題や耳のこととかで心も体も休む暇がなかった。


「ありがとう鈴木さん、その元気でいつも助かってるよ」



「ふひひ、ありがとうございます!」と明るく返していたが、遠くから桃子を見つめる夜勤看護師が一名。



「もォーもォーこォー…、記録確認と日勤者から申し送りを受けるはずの、夜勤者のあなたハ…一体ナニヲしてるのカシラ……?」

 丁寧に食事準備でお茶くみと、とろみの準備をしている相原看護師は鬼となっていた。


 健一はそっと雰囲気を薄くするようにし、相原看護師の怒りのオーラから逃れようとする。夜勤者である桃子は、顔を青くして静かに斜め前の電カルに座り情報収集を始めた、夜はまだ始まってはいない。



 しばらくして、記録もすることも終えた健一は師長のもとへ向かう。師長は、患者の記録に目を通しながら、各看護師に指示を出している。タイミングを見計らって健一は師長へ声をかけた。


「師長、少しお時間いただいてもいいですか?」


「どうしたの、健一君?」

 師長は書類から顔を上げ、少し心配そうな顔を向けた。


「実は、耳の調子があまりよくなくて、耳鼻科で見てもらいたいんです。休みをいただけると助かるんですが…」



 健一が事情を説明すると、師長は真剣な顔つきで考え込んだ。


「そう…それは心配ね。あ、うちは、耳鼻科なかったか。……早めに診てもらいたいけど、直近での休みの調整は難しそうだわ。」


 健一は少し驚いた顔をしたが、すぐに現状を理解した。最近の病棟は人手不足もあって、休みの調整が難しいのだ。


「そうですか…やっぱり厳しいですよね」


「産休の人もいるしね…、1〜2週間後なら何とか調整できるかもしれないわ。それまでに無理しないようにね。体調が悪いときは遠慮なく言ってちょうだい。」

 師長は頷きながら、優しく声をかけてくれた。


「ありがとうございます。助かります。」


 健一は感謝の気持ちを伝え、少しだけ肩の荷が下りたように感じた。しかし、今後のことを考えると、やはり不安が頭をよぎる。耳の問題が悪化しないことを祈りつつ、健一は自分の使っていた所に戻り、環境整備をしつつ帰り支度を始める。


 夜間帯になり、病棟内は慌ただしく、看護師たちが忙しく動き回っていた。そんな中、桃子が再び健一の隣にやってきて、楽しげに話しかけてきた。


「先輩、今日はこれで終わりですか?」


 健一は電カルを閉じながら少し微笑んで話す。

「うん、そろそろ帰るね」


「じゃ、じゃあ!今度ご飯でもどうですか?先輩、最近元気なさそうだから、元気つけてほしいです!」


 その無邪気な提案に、健一は思わず笑ってしまった。

「ありがとう、でもそうだな…また今度なら。あ、手帳確認して今夜あたり連絡するよ」


「わかりました!楽しみにしてますからね」

 桃子は少し残念そうに見えたが、明るく答え、再び元気に仕事へと戻っていった。


 健一はそんな彼女を見送りながら、やはり今は自分の体調を最優先にしなければならないと改めて感じていた。













         ♱ ♱ ♱










 健一は仕事を終え、アパートのドアに鍵を差し込んだ。中に入ると、すぐに漂う生活感のない冷え切った空気が、彼の背筋をわずかに震わせた。彼は静かに息を吐き、部屋の中を見渡す。以前とは全く変わらない散らかったリビング。掃除がされていないテーブルの上には、いくつものカップ麺の容器や、使い捨ての割り箸が無造作に放置されていた。


「健ちゃん……?」


 その声に、健一は一瞬肩を竦めた。視線を向けると、ソファに座り込んだ美咲が彼を見つめていた。髪は乱れ、彼女の目は赤く腫れ、涙の痕が頬に残っている。


「なんで……なんであんた、何も言わないの?」


 彼女の声は不安と怒りが混ざり合い、震えていた。健一は一度視線を逸らし、荷物を片手にその場に立ち尽くす。


「美咲……今日で終わりにしようと思うんだ」


 その言葉は、部屋に重く響いた。美咲の顔が硬直し、すぐに彼女の目が大きく見開かれる。彼女はソファから立ち上がり、健一に詰め寄った。


「どうして…?なんで、そんなこと急に言うのよ?」

 彼女は声を震わせながら訴えるように聞いた。


 健一は深く息をついて、少しの間言葉を探していた。

「急じゃない。ずっと考えてたんだ。俺たちの関係、もうお互いにとって良くないと思う。美咲も最近、不安定だっただろ?俺も…その…正直、もう無理なんだよ」


 その言葉に美咲は呆然とし、次第に顔が青ざめていった。彼女の瞳に宿った希望の光が消え去るのを、健一は見て取った。


「そんな…私はただ、あなたが大事で…だから…」


「分かってる。でも、もう限界なんだ……これ以上お前に寄り添えられないよ。お前のために何もできないし、もう疲れたんだ」


 美咲は無言で涙を流しながら後ずさる。身体がソファに当たり、その場に崩れ落ちた。嗚咽を漏らしながら床に座り込む。


「……なんで、なんでなのよ……裏切り者、D V野郎…」


 美咲は、そう言葉をこぼし、震える手でソファの肘掛けを握りしめる。健一はそんな彼女を見つめながら、心の中で何度もこの瞬間を避けようとした自分を責めていた。しかし、今はもう引き返せないと悟っていた。


「ごめん、美咲。俺はもう行くよ。元気でな」


 そう言って、健一は彼女に背を向け、部屋にある貴重品をバッグに入れ、ドアに向かって歩き出した。後ろから美咲のすすり泣きが聞こえたが、彼は立ち止まらずにドアを開け、静かに外に出た。


 階段を下りる足音だけが、冷たい廊下に響いていた。


 冷たい夜風が彼の頬をかすめ、健一は胸の中にこみ上げるものを感じながらも、一歩一歩前に進んだ。この選択が正しいのかどうか、まだ分からない。ただ、今は自分の心と体を守ることが最優先だと感じていた。


 暗い夜の中、健一は静かに街の中へと消えていった。






  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

静寂の中で響く愛 平岡夏子 @natsuko1125

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ