作りすぎた、とはっとしたのはすべての工程が終わってからだった。しばし途方に暮れるも、冷蔵庫に入れておけば保存は効くだろうと判断する。白い皿に香ばしいサーモンを並べ、鮮やかな緑のボウルにポタージュをよそうと、目にも鮮やかな昼食が出来上がった。


「美味しそうですね。私にも少し下さいませんか」


 艶のある声が間近で聞こえて、ミカはその場で飛びあがりそうになった。午前の業務を終えたらしいイツァークがミカの手元を覗きこんでいる。そんなことを請われたのは初めてだった。彼の目元は愉快そうに細められていた。


「別にいいですけど。本当に少しだけですよ。どうせ消化できないんだから」

「ええ、もちろん。今のは聞かなかったことにしておきます。午前中に火星の新しい資源に関する会議に参加して疲れたので、いい息抜きになりそうです」


 イツァークがいたずらっぽく片目を瞑る。見目麗しい男に相応ふさわしい仕草を至近距離で浴び、ミカの頬が羞恥か何かの感情でかっと熱くなった。

 香草焼きもポタージュも文句なしに美味しくできた。ミカにはそれで十分だった。なのに、イツァークが「とても美味しいです」などとさも驚いたとばかりに余計なことを言ってきて、反応に困る。

 別に、作ったものに感想など要らなかった。昔は自分が生きるため、今は自分の楽しみのため、やっているに過ぎないのだから。


「このスパイスは出来合いのミックススパイスではありませんね? あなたが自分自身で配合を考えたものだ。そうでしょう?」


 けれど、イツァークが気づいてくれ、彼に褒められると嬉しくなる。嬉しいと思ってしまう。アンドロイドなんか、嫌いなのに。人間の猿真似をしているだけの、偽物なのに。


「そうですけど、それがなにか」

「いえ。ミカは料理上手だなと、感じただけですよ」


 イツァークは含みがありそうな笑みを浮かべて、ミカをじっと見つめる。彼は明らかに、己のことをミカが嫌っていると理解して、わざと神経を逆撫ですることを言っていた。イツァークが面白がっているのが、ミカには心底面白くない。


「あなたを見ていると、昔の私を思い出します。だから好ましい」

「アンドロイドに昔も今もあるんですか。そりゃ驚きですね」


 意味深な台詞を吐いたアンドロイドに、ミカは背を向ける。



 ――あなたを見ていると、昔の私を思い出す。

 それはイツァークが事ある毎にミカに言ってくる言葉だった。

 意味が分からないし、なんだか怖かった。イツァークが自分に、助手以上の何かを期待しているような気がして。

 アンドロイドの助手は社会的にも地位が高いし、合間に好きなこともできる。同じ仕事をしている人間のコミュニティでは、「穏やかで、満ち足りた生活だ」という意見がほとんどを占めていた。ミカも彼らと同じように、これがその穏やかで充足した生活だと自らに言い聞かせようと努力した。なのに、イツァークの洗練された身のこなしを見ていると、こんなにもいらつくのはなぜなのだろう。


「最近、体調が優れないようですね。風邪を引いたのなら休暇が必要です」


 ある日、ぼんやりしながらキッチンに立っていると、いつの間にか隣にいたイツァークに額を触られた。アンドロイドに触られたのは初めてだった。人間がアンドロイドに触れるのは基本的に禁止されているが、アンドロイドは危害を加える目的でないなら三原則には触れない。

 ミカの肩がびくりと跳ねる。こんなの、不意打ちだ。

 イツァークは「36.6度。ふむ、平熱ですね」とかなんとか思案げに呟いている。ミカの脳内がにわかに煮えたぎった。このアンドロイドは心配するような顔をしているだけだ。どの部品をどう動かせば人間にどんな印象を与えられるか、最適化された計算を弾き出しているだけで、こいつらに感情なんてない。

 ミカの拒絶心が沸点を超えた。

 心を見透かすような、イツァークの粘着質の視線が気持ち悪かった。それでも、なぜか灰色の視線に安心感を覚え、心惹かれてしまう。

 そうだ、と不意に理解した。苛々するのはイツァークにではない、ということに。嫌いなはずなのに、どうしても彼に惹かれてしまう自分に、無性に腹が立つのだ。

 ミカは中途半端に伸ばされていたイツァークの手を力任せに握った。彼の痛覚センサーが反応し、整った顔立ちが痛みに歪む。


「ミカ、痛いです」

「心配する振りなんかして、何が目的なんだ? 俺に触るな。あんた、気持ち悪いんだよ。アンドロイドは嫌いだしあんたのことはもっと嫌いだ。今すぐこの仕事をクビにしろ、でなきゃあんたをこの場でめちゃくちゃに破壊してやる」


 ミカは力をこめた指先に、イツァークの肌の下にある人工骨格の存在を感じた。その感触は生々しく、アンドロイドの肌は人間と同じように、温かかった。

 イツァークは腕を振り払うこともせず、眉をひそめてはあとため息をこぼす。


「おやおや……ミカ、理解していますか? 今の行動と発言だけで軽々と規範違反五回に達していますよ。撤回するなら今のうちです」

「撤回なんかするか。これ以上あんたなんかと一緒にいられない。あんたと一生ここで暮らすくらいなら、ミンチなり献体なりにされた方がましだ」


 あまりにヒートアップしているという自覚はあった。すぐさま撤回した方が利口だということも。脳裏に両親や友人の姿がちらつく。ここで自分の人生は終わるのかもしれない、という予感をミカはひりひりと感じた。


「ふう……あなたという人は」


 呆れたように、イツァークは小さく笑って。


「思った以上の逸材です。素晴らしい。私が見込んだとおりです」


 そう続けて優しく微笑するものだから、ミカは虚を突かれて絶句した。

 このアンドロイドはなんと言った? 逸材? 素晴らしい? 見込んだとおり? 規範違反を犯した自分を糾弾すべきなのに、こいつは何を言っているんだ?

 イツァークの灰色の目の奥が、妖しく赤い色に光っている。


「いま、世界政府に報告をしました。あなたは五回という高い壁を破ってこちら側に来たのです。おめでとうございます」

「は……? こちら側って、何を言って」

「あなたは私たちのようなアンドロイドになる資格を得たのですよ」


 今後こそ本当に、思考が働くのをやめた。アンドロイドに、なる? 誰が。資格って、一体どういうことだ。

 混乱の極みに突き落とされたミカを慈悲深い瞳で見つめながら、イツァークは滔々と説明する。


「違反を犯したのに、『チャンスはあと何回』だなんて言い方、おかしいと思いませんでしたか? 私たちアンドロイドはね、私たちに反抗できるような意志の強い人材を求めているんですよ。規範違反五回というのはいわばテストです。強靭な精神力をもって、何回もアンドロイドに、引いては社会構造そのものに歯向かえるかどうかの。歴史というものは常に、支配者層に反旗を翻した人間によって更新されてきました。あなたには私たちの仲間になる資格がある。脆弱な人類の体から脱却し、アンドロイドの機体を得る資格がね」


 ミカの全身から力が抜け、腰から崩れ落ちそうになるのを、イツァークは許さない。彼の逞しい腕が、涙を流すミカの肩を支えている。

 衝撃に啜り泣きながら、疑問を返す。


「じゃあ、あなたも以前、人間だったってこと……」

「だから、何度も言っているじゃないですか。あなたを見ていると昔の自分を思い出すと」


 アンドロイドの不敵な笑み。その表情は、なるほど確かに人間味にあふれすぎていて。


「大丈夫、怖くないですよ。麻酔を打たれて、次に気づいたときには新しい人生が始まっています。あなたの脳はアンドロイドの素体に移され、汎用人工知能と合体する。容姿は好きにカスタマイズできますし、寿命も半永久的な長さです。アンドロイドの目はとても解像度が高いし、人工知能と一体になった脳の演算能力は桁違いですから、何気ない景色から無尽蔵の情報量を引き出すことができます。私はいつも庭の様子からインスピレーションを得ています。こちらはとても美しい世界ですよ」


 信じがたい事実を、イツァークは嬉しそうに述べる。ミカは振り仰ぎ、彼の頬に指先で触れた。


「拒否する、ことは……」

「当然ながら、できません」


 アンドロイドの要請を拒否することは基本的に、不可能だ。

 玄関から、どやどやと何人もの人間が入ってくる足音が聞こえてくる。ミカは瞑目する。この先の己の運命を思いながら。

 支配者層に歯向かった人間が支配者に取り込まれるというのは、祝福だろうか、それとも運命の皮肉だろうか。

 やがて、首元にちくりとした痛みが走って、それきりミカの意識は闇に沈んでいった。


 ◇ ◇ ◇


 仕事場にやってきた青年は挑発的な態度を崩さなかった。彼と顔を合わせたアンドロイドは、昔の出来事を思い出していた。

 そして考える。彼は自分に似ている、と。


「僕はミカエルといいます。ミカと呼んでくれて構いません」

「よろしくお願いします……ミカエル」


 視線を合わせない青年を前に、かつて人間だったミカは、にっこりと完璧な笑みを浮かべてみせた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

グッバイアンドハロー、アンドロイド 冬野瞠 @HARU_fuyuno

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ