代償

海崎しのぎ

第1話

 ずっと今夜は満月だと思っていた。縁がぼんやり欠けている月から、女は緩やかに視線を外す。心地良かった筈の冷たい風も、葉擦れの音も、急に煩わしく女を取り巻いた。それは、隣でか細く繰り返される呼吸の音も例外では無かった。

 女は木の幹に体を預けて脱力している男を眺める。月明かりが男の真っ赤に濡れた腹部を露わにしている。土に染みる血溜まりはまだ広がり続けるらしい。時期に死ぬだろうと思っていたが、中々保っている男に女は少し興味がわいた。

 こちらを見上げる気力も無い男の、抵抗しないのを良い事に着物を乱暴に脱がせて腹を見る。深々と真一文字に裂かれた腹から惜しげもなく流れ続ける血に人差し指を当て、傷口まで掬い上げた。指の先が傷の縁に引っ掛かったので、開いた肉の間に指を差し込んでみる。

 男が呻く。人差し指が根元まですっかり生暖かい。

 「ねぇ、死ぬの?」

 無邪気な声で女は聞いた。男からの返答は無い。呼吸はしているが、目が開くこともない。

 女は落胆して指を引き抜いた。男は呻いたが、覇気が無かった。

 女は自身の腹部を見る。女のそこは男と同じように血に濡れており、形の崩れた帯の下には男の傷より遥かに小さな裂け目があった。帯をなぞりながら、女は深く息を吐く。

 疲れた体を休ませて明日の逃亡に備えなければならないというのに、腹の傷の酷い痛みが過ぎた事を反芻させた。止め処なく沸いて出てくる昔の記憶を、一つ一つ拾ってみる。誰に聞かせるでもない小さな声で、女は拾い上げた記憶を語り出した。


 *


この山の麓には小さな村がある。女が過ごしてきた村で、死にかけの男の出身でもあった。

 女の出身はもっとずっと遠いところの、人々に忌み伝えられている山であった。中腹部に拵えた簡素な山小屋に父親と二人身を寄せて、とても長い時間を人目を避けるように生活をしていた。

 お前は人ではないのだから、人と共には生きられないよ、と父親はそればかり口にした。父が言うならそうなのだろうと女も言に従った。が、人間の女を嫁に貰い、僅かな期間ではあるが人間と共に時を過ごした父親の事を女はいつも羨んでいた。父親は母親の事を奇跡だと言い、羨み真似たがる女を毎回律儀に嗜めたが、女は諦めきれずに家を出た。父親に起きた奇跡なら自分にも起きると、女は心から信じて疑わなかった。

 案の定女の旅は厳しかった。人と生きる時間が違う為同じ場所に長くは住めない。誤魔化し偽り、それでも五年を限度に場所を変えた。時には一人篭りながら、気の遠くなる程色々な場所を転々とし、たどり着いたあの村はまだ居ついてから三年も経っていなかった。

 村は良いところであった。豊かな土地では無かったが、素性の明かせぬ女を喜んで迎え入れた。女の為に宿まで融通した。代わりに女は労働力を提供した。沢山の集落を巡って培った知識も村人達に大層喜ばれ、女は順調に良好な関係を築いていた。

 女はその村で親友というものに出会った。世話になっている宿の管理をしている家の娘で、村に来たばかりの頃から日々の支えとしてずっと共に生活をしていた。女は娘に素性を明かしてはいなかったが、頃合いを見て娘にだけは全てを話そうとしていたし、娘も受け入れてくれると信じていた。

 親友の存在は、長い旅の中で初めて人と共に生きている感覚にさせた。奇跡が起きたと思った。父親と同じようにたった数十年ぽっちの生活となろうとも、自分はきっとこの人の安らかな最後を看取ってやれるのだと思った。その記憶で幸せに生きる筈だった。

 女の幻想が砕かれたのは、つい先日の事である。

 その日は前日に夜まで宴を開いていて、皆体に疲れを残したまま働いていた。

 その日は天気が悪く、山の方は微かに霧立っていた。目を凝らせば遠くまで見渡せるが、視界は常に狭い状態だった。

 その日はどうしても山に入らねばならない用事があった。宴の中で薪を大量に消費してしまい、翌日から予想される寒波を乗り切る分が残っていなかった。まだ動けるその日のうちに、どうしても木材を確保してこなければならなかった。

 木材確保には村の中でもとりわけ体の頑丈な男衆が当てられた。万が一に備え、医療の知識がある女も同行した。視界が多少悪いだけで登り慣れた山だから問題ないという油断が全員にあった。

 だから、足を滑らせたのだろう。

 周りをよく見ず苔生した岩に乗り上げた男が、踏ん張る間もなく反対側に姿を消した。叫び声と共に滑落していく男を、必死になって追いかけて行ったあの光景を女は鮮明に覚えている。男の腕を捉えた時には既に崖が眼前まで迫っていた。なす術なく二人は空中に放り出される。女は自分よりずっと大きい男を両腕に抱いて、自分の身が下敷きになるよう落下した。何度岩肌に激突しても二人は決して互いを離さず、女は地面に叩きつけられた衝撃を目論み通り全て背中で受け止めた。

 骨が折れて肺が潰れる音がする。傍で男が吐血した、その温もりが失われるのを感じながら女は眠るように気絶した。

 意識を戻したのはすっかり日が落ちた頃だった。男は冷たく固まっていた。

 女は男を引きずりながら村を目指した。朝焼けと共に村に現れた女を、歓迎するものはいなかった。

 四肢がひしゃげて死んだ男。五体満足で歩いて戻ってきた女。村人が何を考えたのかなど自明である。だから、女は受け入れる事にした。男の死体を村人に渡し、沢山に見張られながら宿に戻った。この村に来た時と同じ格好をして、持ち込んだ荷物を纏める猶予はなさそうだったので父から譲り受けた薙刀だけを持って宿を出た。

 これが悪手だったのだろう。

 支度を済ませて出てきた女を見て、村人達は真っ青になった。

 容赦ない石と怒号が飛ぶ。村人は女の格好を見て、それが臨戦態勢であると認識した。ただの化け物ではなく、村に危害を加えようと企んでいるのだと思ったらしい。ずっと機会を伺っている中で、きっかけとして、男は崖下に突き落とされた。そういう結論に至ったらしい。強気に囲み攻め立てる男達は、手に農具を持ちその背で女子供を守っている。

 女は冷めてしまった。最後に少しでも話を聞いて欲しかったが、一触即発のこの状態では徒らに死体を生むだけである。何より、かつては仲良く暮らした相手を手に掛ける事は避けたかった。それだけの情はまだ残っていた。

 何も言わず、一歩踏み出す。男達が身を引いた。彼らの隙間から向こう側を伺うが、女子供の中に親友の影は見つからない。出る前に顔を見たかった。が、それすらもう叶わないらしい。女は深く息を吐いて覚悟を決めた。

 薙刀を構える。空気が一段重くなる。

 軽く薙いで男達を威嚇しながら、その間を縫って山まで走りだした。誰の血も流さぬうちに山へ入って身を隠してしまいたかった。

 明るい曇天の山道を、女は振り返る事なく走り続ける。転落して負った傷から血が滲んだが、痛みは感じなかった。

 木の根に右足の雪駄を持っていかれた。左足の雪駄もどこかで脱げてしまっていた事に気が付いた。女は急いで木の影に一度身を隠し、手早く足袋を脱いでまた走り出す。道中に大きな川が流れていたので、懐に仕舞っていた足袋を投げ捨てた。もしこの川が村に続くあの川だったら。この足袋が川を下って村まで流れ着いてくれたら。それを親友が拾って、自分を思い出してくれたら。

 女は考えるのを辞めた。無意識に親友だけは自分を信じてくれているものだと信じていた。急に、何もかも馬鹿らしくなった。

 村からだいぶ離れたところで女は体を落ち着けた。

 丸い月は朧気で、柔らかく山を照らしている。

 明日の事を考えながら微睡んでいた女は、微かな足音を聞いて飛び起きた。二、三人分くらいの、少なく小さな足音がゆっくりと近付いてくる。女は急いで走り出した。その物音が向こうにも聞こえたらしく、慎重に探るような足音は走り追ってくる気配に変わった。

 山慣れしている村人に、手負いの女は簡単に囲まれた。迷いなく切っ先を向けてくる二人の男は、どちらもよく見知った顔だった。その背後からもう一人、憎悪を湛えた女が歩み出る。月明かりに照らされたその人は、女が信じていたあの親友だった。

 親友は女を目掛けて刀を振りかざす。迷いも容赦もない、純粋な恨みと殺意の一太刀だった。

 男二人がそれに続く。女は刀を躱し、弾き、時に威嚇を交えながら距離を取ろうと画策した。誰も傷付けぬように、自分も傷付かぬように、必死に作った退路はしかし、三人の連携によってすぐに塞がれた。

 親友の刀は思いばかりであった。気力だけで立ち回るのを、男二人が支えている。

 村で親友が男に紛れて刀を振っているのを見た事はあるが、その技術は周囲に一歩遅れており、それを親友自身も感じているのを知っていた。何かあった時に使えないよりは良い、と笑っていた親友に今、刀を取らせている自分がいる。

 思い至って動揺した。男二人に隙を突かれた。どうにか刀を受け流し、一瞬、親友の存在を忘れていた事を思い出す。彼女が死角から飛び込んできた。強い殺気と共に叩き込まれる刀に釣られて女も咄嗟に刃を向けた。向けてしまった。

 刀が女の腹に食い込む。刀に込められた力が抜けて倒れ込んでくる親友の肩越しに、薙刀の刃が血に濡れているのを見た。女の向けた刃が、親友の脇腹を突き裂いていた。親友は女に身を預けながら肩で息をしている。女はよろけながら後ずさった。親友がそれに引きずられた。女の腹を抉っていた刀が抜け落ちる。

 女ははっとして、漸く突き刺したままの刃を抜いた。支えを失って崩れ伏せる親友に、覆い被さるように女も地面に膝をつく。血溜まりが広がる中で女はしきりに親友の肩を揺らした。応答のない親友が、腕の中で体温を失っていく。まだ生きているが、もう死んでいく。

 絶叫した。木々を揺らす程の声で。村を脅かす程の気力で。あらん限りの声を張った。

 この人と共に生きたかった。叶わなかった。信じてくれると信じていた。奇跡になる筈だったのだ。父のように、母のように、二人で奇跡に成る筈だった。この人は奇跡だったのに。叶わぬならせめて、奇跡が傷つかぬうちに別れたかった。全て失った。奇跡も、未来も、この手で一つ残らず潰してしまった。

 空は変わらずの薄曇で、月も朧げなままだった。無風の夜に親友の血が匂い立ってゆく。それが魂が擦り減っていくようで、女は嗚咽を飲み込んだ。叫びたかった。何を叫べばいいか分からなかった。否、叫びたい言葉はひっきりなしに湧いて出るのに、喉でつかえて一音たりとも音にならない。あの絶叫はなんだったのか。いっそ誰かが代わりに死ぬなと一言、高らかに吠えてくれることを切望した。

 急に空を見上げて静まる女を、男達が遠巻きに警戒する。致命傷を受け微動だにしない女に対しての油断が手に取るように感じられた。

 殺せる、と思った。腹の傷を考慮しても、今なら確実に持っていける。誰も傷付けたくはなかった。村の人間が傷付けば、心の優しいこの娘が悲しむと思った。特にこの男達は娘と年が近く共にいた時間も長い。だから余計に心を病むと思った。

 娘は起きない。今更人間を何人殺したところで悲しむ者はもういない。

 女は緩慢に男達の方を振り返ると、片方を切り殺した。男は僅かな抵抗の果てに呆気なく死んだ。だらしなく見開かれた瞳孔を女はつまらなげに見下ろしてから、まだ生きている方に向き直った。目の前で二人死んだのだから逃げ帰るかと思ったが、立ち向かうだけの気概は残っているらしい。そうして想われ、想い、命を賭け合える関係性が妬ましかった。そんなに大事なら早く送ってやらねばならないと、女は薙刀を構え直す。慈悲などではない、ただの無意味な殺意の正当化であった。

 男はそこそこ抵抗した。随分自棄になってはいたが手負いの女と切り結ぶだけの余力は残っていた。

 男を切り捨てる頃には女も随分疲れていた。それなりに刃を交わしたが男の死も女の目には質素に映った。人が簡単に死ぬ事は知っていたが、人を簡単に殺せる事は初めて知った。

 木々の向こうから人の声が聞こえた気がした。村からの増援だろうと思った女は娘の刀だけ回収し、歩いてその場から立ち去った。

 奪った刀を月明かりに翳す。白鞘の、よく手入れのされた刀は宿屋に飾ってあったあの刀であった。有事の際はこれが家を守ってくれるから、きちんと振れるように鍛錬をするだったか。娘の思い入れの強い一品であるこの刀を、娘の死んだ世界で唯一娘の存在を近く感じられるものとして女はどうしても手元に置いて置きたかった。

 村人がこれを見れば取り返そうとしてくるだろう。女はまた一つ、追手を殺す理由を得た。



 「その追手は、貴方だった訳だけれど。」

 隣の男を一瞥する。男は冷たくなっていた。

 三人を殺した後、たった一人で追いかけて来た男と対峙した。既に血の匂いが充満しているあの場所で実力の分からぬ元気な男と交戦して、その間に更に援軍を寄越されては堪らなかったので逃げる振りをして場所を移した。馬鹿な男は正直に後を追い、開けた所で女の初撃をまともに喰らって動かなくなった。

 「羨ましいでしょう。」

 女は男の襟を寄せ、腹を隠してから立ち上がった。

 「貴方は何処の何とも分からない奴からの傷で、こんなにあっさり死んでしまった。でも私は違う。私はこの世で一番大事な人から貰った傷の、痛みと共に生きていくの。」

 血を吸って重くなった帯を一度解いて着付けを正す。帯は立て矢結びに結い直した。娘が素敵だと良く褒めた形だった。

 冷たい風に葉擦れの音が心地いい。

 女は刀と薙刀を大切に腕に抱え、人の気配がない事を入念に確認してから歩き出した。

 「私も、貴方達が羨ましいわ。」

 木に凭れたまま固まった男の死体が、静かに崩れ落ちる音がした。



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