神様の贈り物

与野高校文芸部

神様の贈り物

 神様、どうか、どうか私を「普通」の女の子にしてください。私はただ「普通」に慎ましく生きていきたいのです。それ以外には何も望みません。ですからどうか、誰もが経験するような、誰にも当てはまるような「普通」の青春を恵んでください。

 雄大な海とその彼方に五島列島が望める山の上の小さな神社で、一人の少女が何度も何度も先の願い事を唱え続けていた。もう二十分は唱え続けていて、神様も辟易してもはや聞いていないかもしれない。幸いにも彼女以外この神社には誰もおらず、また来る気配も無い。

 必死に祈り続けている少女、真野環はこの春に長崎の辺鄙な港町に引っ越してきた。以前は東京に住んでいたのだが、中学時代に壮絶ないじめに遭い、彼女の両親は彼女の心の傷を癒すために自然豊かなこの町を選んだのだった。環がそれに対して気を遣わないように両親は、引っ越しの理由を、田舎の穏やかな暮らしが夢だった、ということにしていた。実際、心の半分ではかねてから、いつかそういう生活がしたいという思いがあったので、両親にとってもそこまで苦な決断ではなかった。しかし環は、自分のための引っ越しだったことに薄々気づいていて、せめて両親の思いを無駄にしないよう新たな地でやり直そうと必死になっているのだ。

 環はようやく祈り終えて一礼してから、帰るため後ろを振り返った。すると海の匂いのする春風が優しく吹いてきた。そして、目の前の鳥居の先には静謐な青き自然が広がっている。何か吸い込まれるような感覚を全身で感じ、その間は全て忘れられるような気がした。環は、もう一度振り返って、また来ます、と告げて帰路についた。

 帰る途中、環はふらりと一軒の花屋に立ち寄った。美しい自然に囲まれた新しい土地の空気は、環の恐れや新生活に対する不安を和らげていた。フリージアやキンギョソウなど春の花々が甘い香りを放って可愛く揺れている中に、少し気の早いサンタンカがあった。今年は比較的温暖なこともあって、環も時期に似合わず半袖の服を着ている。そこに妙な親近感が湧いてきて、環は直感的にそのサンタンカを買っていった。

 環は家に帰ってから最後の段ボールの荷解きを終えたお母さんに、買ってきたサンタンカを見せた。


「見て見て、こんな早くにサンタンカが咲いてたの。」

「あらいいじゃない。きっと良いことがあるわね。」

「何か意味があるの?」

「花言葉は『喜び』『神様の贈り物』よ。次の学校では楽しく過ごせるように、神様が環に贈り物をしてくれたのよ。大事に育てなさい。」


 お母さんは優しく環の頭を撫でながら言った。環は、早速神様はお願いを聞いてくださったのかもしれないと少し嬉しくなったが、同時に、明日から始まる学校が急に不安になってきた。また、誰からも理解されずに孤独になってしまうかもしれない、そんな思いがふと浮かんできて、さっきまでの清浄な心持は黒い分厚い雲に覆われてしまった。しかし、環はお母さんに撫でられてはっとした。今度こそやり直すのだ。そして、「普通」の女子になるのだ。環は胸の内でそう言い聞かせてから、小さな声で、

「……頑張るね。」と言った。

 翌日の朝、枕元に置いていたサンタンカに念入りに祈ってから家を出た。環は登校中、何度も帰ろうかと足を止めたが、昨日神社で強く願掛けしたこととサンタンカの花の赤を思い出して、何とか遅刻せずに学校に到着した。

 入学式は無事に終わり、ホームルームもこの調子で難なく終わるかと思われた。しかし、神様も気まぐれである。まず最初の自己紹介で環は、緊張のあまり声が小さくなって、ひどくしどろもどろになってしまった。クラス中の人の「聞こえないです」と言わんばかりの視線がどれほど痛かったかは言うまでもない。そして極めつけはクラスの角の一人席に当てがわれたことだ。最初に暗い印象を持った人間のところへわざわざ角まで話しかけて来てくれる人も無く、前の席は男子なので尚のこと孤立してしまった。窓際なので風だけは心地よく吹いてくる。環はそんなお情けが今は何より鬱陶しく思った。結局その日は誰とも話すことなく終わった。

 放課後、環は昨日の神社へ行った。今日も誰もおらず、たまに鳥の声がするだけで、とても寂寞としている。環は神社の縁側に腰かけて、鳥居の先の海と夕日を眺めていた。さあっと良い潮風が吹いてきて、今日一日の疲労が洗われていくようだった。木々のそよぐ音が胸いっぱいに広がって、緊張が解れたのか、だんだんと微睡んできた。そして、縁側に横になって眠った。

 一体どのくらい眠っていたのだろうか、次に目覚めたときは、先程までの茜色はもう青みがかって花紫になっていた。スマホの時計を見ると、もう六時を過ぎていた。環は急いで荷物を抱えて帰ろうとした。

 社殿に一礼してから鳥居の方へ駆けていくと、誰か人が立っていた。その人は海の遥か彼方を見つめているようだった。こんな山の上の神社に人がいるのが珍しくて、環はついその人のことを注視してしまった。背格好は環と同じくらいで、上下白い麻の開襟シャツとワイドパンツを身に着けており、今の世には珍しく、足には藁の草履を履いている。どうやら神主の類ではないらしい。髪は長めのマニッシュショートで、一見すると男女の判別がつかなかった。しかしその後ろ姿は妙に環の心を惹きつけた。環はどうしても顔が見てみたくなって、相手に悟られないようにそっと顔が見える位置まで動いた。そして環は息を呑んだ。その顔はまるで絵画か彫刻のように美しかった。小さな顔の中にすべてのパーツが寸分の狂いもなく配置されている。唇も夕焼けの如く血色の良い紅である。儚げなその瞳は僅かな西日すら反射して、すっかり暗くなった今なお輝いているように見えた。時々吹いてくる風に艶やかな黒髪がさらさらと靡く姿は、それだけで名画である。

 環は目を離せなかった。このまま見つめ続けていたかった。帰らねばならなかったことも忘れていた。しかし突然、その人の瞳の輝きと環の視線が重なった。環はどきんとして、ひどく狼狽えてしまった。その人は「何か」というように少し首を傾げる。それに環はとてつもなく恥ずかしくなって、神社の石段を駆け下りていった。

 家に帰ってからも、神社で出会った人のことが環の頭を駆け巡った。夕食はカレーライスとポテトサラダと美しきかの人の記憶だった。あんまりぼうっとしているので、お母さんは心配して、

「環、大丈夫? 学校で嫌な事でもあった?」と聞いた。


「え、いや、ううん。何もないよ。良い学校だったよ。ここなら私、頑張れそう。」

「そう? ならよかったけど……。何か辛い事があったらちゃんと言うのよ?」

「うん。ありがとう。」


文字通り何も無かったのだが、その後のことは環にとって大事件だった。だが話す気にはなれなかった。あの人はユニセックスな風貌だったが、顔には青年男子特有の骨ばった雰囲気が無く、どちらかといえば丸みがあった。環は顔ばかり見ていたので定かではないが、胸に小高い隆起があったように思う。そう考えると、あの人は女の子なのではと環は思った。それこそ、環がお母さんに彼女の話をすることを憚った理由である。また、やってしまった。また、地獄の日々に逆戻りしてしまうのではないか。また、お母さんやお父さんに迷惑をかけてしまう……。環はそんな不安から、彼女のことは絶対に隠さなければならなかった。女の子を好きになるなんて、「普通」ではないのだから……。

また環が黙り込んでぼうっとし始め、暗い雰囲気が漂い出したので、空気を和ませようとお父さんがこんな話を始めた。


「今日、お母さんとご近所さんの家に挨拶に行ったらな、角の宮脇さんがこんな面白い話をしてくれたんだ。」


 角の宮脇さんの家は、この辺ではよく名の知れた神社の社家である。当の宮脇さんは今年白寿となる高齢で、持病が悪化したため今は彼の息子が宮司を務めている。奥さんは十五年前に亡くなっていて、月命日には必ずお墓参りと、奥さんと出会った神社への参拝を十五年間一回も休むことなく行っている愛妻家だ。宮脇さんは柔和で穏やかな雰囲気の人なのだが、よく奇妙な話をするので人々の中で彼は「童話おじいちゃん」という愛称で通っていた。引っ越してきたばかりの真野一家はそんなことは露とも知らず、純粋に宮脇さんの話を聞いていたのだ。


「昔、環と同じ十五歳の男の子が、人生に迷ってどうしようもなくて、ある神社へ行ったんだ。そこは自然が豊かで、何より秘密基地みたいにだーれもいない所だったそうなんだ。いつも心の落ち着けるために行っていた場所だったから、彼はそこに癒されに行った。そうしてそこで、どうしようどうしようと考えているとき、ある少女がふいに現れて、『どうしたの?』って声をかけてきたそうなんだ。最初はなんだか怪しい気もしたけど、その男の子は、自分の中のどうにもならない気持ちを吐き出せた事でどんどん元気を取り戻していったんだ。そして彼は、いつも優しく話を聞いてくれるその少女のことが、だんだん好きになっていった。少女も、独りぼっちで寂しかったところにいつも来てくれる彼のことが気になっていたんだ。やがて二人は愛し合うようになって、男の子は結婚しようとその少女に言った。でも、少女は出来ないって答えたんだ。」

「どうして?」いつの間にか環は話に聞き入ってしまっていた。


「それはな、その少女はそこの神社の神様だったからなんだ。」


「ふふふ、神様との恋なんて、宮脇さんは面白いわ。」お母さんは、宮脇さんの話をただの創作話だと思って聞いているようだった。だが環は完全に本当の話だと信じ込んでいた。


「まあまあ母さん。ここからが面白いんだから。それで、神様だと告げられて断られた男の子は、驚きもあったが、何より悲しみの方が大きかったらしい。その日以降、少女は現れなくなっちゃったんだから余計だろうな。だけど、どうしても諦められないから、その後毎日のように、『神様でも何であっても、僕は君と結婚したい!』って伝えに行ったそうだ。少女もまた、その男の子のことを嫌いになったわけじゃないから、彼の熱意を受け止めて、ある日また姿を現して彼にこう言ったんだ。

『私もあなたと結婚したいです。しかしそのためには人間にならなくてはいけません。それをお父様はきっと許してはくださらないでしょう。でも、共にお父様を説得してくだされば、私たちの愛がしかと伝われば、きっとお父様も許してくださるはずです。どうか御一緒に説得なさって下さい。』もちろん男の子は応じて二人は一緒にそのお父様の神様のところへ行った。説得は何度も失敗したそうだが、ある時、お父様が二人に、『人間になるということは命が遥かに短くなるということだ。お前たちはそれを承知の上でここへ来ているのだな?』と尋ねた。すると真っ先に男の子が立ち上がって、『もし彼女の寿命が早く尽きてしまうというのなら、僕の寿命を彼女に与えてください。僕は彼女のためならば命だって惜しくはありません。』と言ってのけたんだ。その言葉でお父様に二人の愛が伝わって、ついにお許しが出たんだ! 

そして、少女は晴れて人間となって二人は結婚し、いつまでも末永く愛し合って暮らした、ていうお話だったよ。いやー感動したねー。」


「もうあなたったら、真に受けちゃって。まあ、お話は面白かったけどね。」とお母さんは笑っている。お父さんも釣られて笑っている。どうやらお父さんも心の底から信じているわけではなく、ただ面白い物語程度に考えているようだ。

 聞き終わって、環はふとあることを思いついた。もしかしたら、夕方の彼女も神様だったのかもしれない。だとしたら私も彼女と……。そこまで考えてから環は我に返った。あの時は寝起きだったから、あそこまでが夢だったのかもしれない。そもそも、これは宮脇さんが拵えた作り話ではないか、何を真に受けているのか! そう思い直して、環は邪念を振り払うようにカレーライスをかき込んだ。

 夜ベッドに入ってからもやはりあの人のことが気になって容易には寝付けなかった。環は、あの人をもっと知りたいという欲求と、また「普通」ではなくなってしまう恐怖とに両腕を引っ張られていた。また女の子を好きになってしまったら、中学の時に逆戻りではないかという不安が絶えず環を襲った。「普通」になることを誓ったのに、早速挫折しそうになっている自分を顧みて、さらに自己嫌悪に陥った。

 そんな調子のまま、時計の針は夜中二時を指そうとしていた。都会とは違って、何の物音もしない田舎の夜は、余計に環の不安を鮮明に浮かび上がらせる。もう体を寝かせているのも耐え切れなくなって、ベッドから飛び起きた。そして、すがるように窓際に置かれたサンタンカに向かってこう言った。


「明日は、良い事、あるよね?」


 翌朝、結局環はほとんど眠れぬまま学校へ行った。雨雲の如く黒いクマを見た両親はひどく心配していたが、環は強行して家を出た。この日、環はどうしても学校に行かなくてはならない訳があった。昨晩寝ずに考えた結果、あの人と友達になるくらいは良いだろうという結論に至って、今日、もう一度あの神社へ行ってみようと心に決めていたのだ。

 外に出ると、カンカン照りの太陽が眩しかった。その快晴は環に、昨夜までの葛藤をひどく馬鹿らしいもののように思わせた。女の子と友達になるくらいは、むしろ自分の求めていた「普通」の女の子の姿ではないか! 彼女はこんな風に、自分の心がすでに「あの人」に惹かれているという事実を誤魔化して、空元気な様子で、学校へ闊歩していった。

 もちろんそれは空元気なので、そう長くは続かない。学校に着く頃には昨日同様に縮こまってしまって、その日は、前の席の男子にホチキスを借りるという事務会話のみで終わった。またも自己嫌悪な一日を過ごしたと思った。それでも昨日に比べれば進歩である。

 帰りのホームルームが終わると、環は一目散に教室を出た。やっと解放された安堵感と早くあの人に会いたいという興奮が環の足を動かして、風のように走らせた。

 石段を上がり切った所で一気に足に疲労を感じた。環はここまで一瞬たりとも止まらずに駆けてきたのだった。膝に手を突いてぜえぜえと呼吸を整えていると、

「大丈夫?」という声がした。

 環は驚いて、ばっと顔を上げるとそこには、あの人が立っていた。昨日と同じ格好で、心配そうな顔をして環の顔を覗き込んでいる。その美しい顔を前に環は緊張して、声が出なくなってしまった。


「具合悪いの? あっちで休んだ方がいいよ。」


 その声は、春風のような、少し吐息混りの優しい声だった。そしてその人は環の背中に手を当てて縁側の方へ連れて行った。

 二人は縁側に座った。そして、その人から差し出された湯呑の水を、環は一気に飲み干した。だんだん意識が鮮明になってきた。


「ありがとうございます。助かりました。」

「いいよ。そういえば、君、昨日の子だよね?」

「え、あ、はい……。すみません……。」


 環はまた顔が熱くなってくるのを感じた。何を言われるかとハラハラしたが、その人は意外な言葉を発した。


「何で謝るの? 私、君が来てくれて嬉しかったんだよ。」

「え、そうなんですか?」

「うん。ここまで来るの大変だったでしょ? ここはほとんど人が来ないから、いつも独りで退屈だった。」


 まるでここに住んでいるかのような話しぶりを環は不思議に思った。そして、昨日のお父さんの話を思い出したので聞いてみた。


「あの、あなたは……。」

「ミコトだよ。」

「えと、ミコトさんは、ここの、神様なんですか?」


 ミコトはちょっと間をあけてから、そうだよ、と答えた。何の間だったのかは分からないが、宮脇さんの物語が本当に目の前で起こったことに環は胸を躍らせた。そして、気になっていたことが激流のように溢れ出した。


「じ、じゃあ、ミコトさんは女の子なんですか? それとも男の子? 年齢はいくつなんですか? 昨日は一体何をしていたんですか?」


 すると、環のあまりの勢いが可笑しくなって、ミコトは笑い出した。その瞬間、環は急に恥ずかしくなって小さくなってしまった。それになおもミコトは笑い続けていた。


「アハハ! 君、面白いね。私は女だよ、ね。齢は……、まあ、君と同じくらいってことにしとこうか。昨日は、ただ海を見てた。ただそれだけ。」


 海を見てた、と言うミコトの表情はどこか寂しそうだった。何だか空気が辛気臭くなってしまったので、ミコトは、

「まあ、特に面白いこともないよ。アハハ……。」と無理やり和ませようとした。しかし、海を眺めたくなる気持ちは環にもよく理解できた。だから、こう言い添えた。


「きっと、海の向こうに、憧れてたんだと思います。」

「憧れ、か。」

「私も分かります、その気持ち。ここに来るとどうしても海を眺めたくなります。何でかは分からないけど。でも、何かを求めている、ずっと海の向こうに。手の届きそうもないほど遠くにある、何かを……。と言っても、私はここに来たの、まだ三回目なんですけどね!」

「ハハ! やっぱ君、面白い! 君よりずっと長くここにいる私が、何だか納得させられちゃった。」


 そう言われて、環は照れた。ミコトと話していると心が軽くなるのを感じた。それはまるで、この神社に吹く柔らかい潮風のような心地だった。


「あ、そういえば君の名前聞いてなかったね。」

「環です、真野環。」

「環か、良い名前だね。あ、あと、タメ口でいいよ。私たち、友達なんだし。」

「いいんです……いいの? 友達になってくれるの?」

「うん、友達。また明日も来てよ。もっといっぱい環のこと知りたい!」


 そう言ってミコトは、にっこりして環の手を握った。繊細で柔らかい手だった。案外ミコトの手が小さいので環は彼女のことを愛おしく感じた。


「もちろん! 毎日でも来る!」


 その後も他愛もない話をして、その日は別れた。帰り道、環は天にも昇る思いだった。この地の最初の友達が、自分の気になっていた人だなんて! 自然とスキップになりながら家に帰った。


「あら、何か良い事あったみたいね?」


 家に着いてからお母さんがそういった。環は幸福感に満ちて、ミコトのことを話そうかと思ったが、やめにした。まだ、罪悪感や肯定感が戻ったわけじゃないというのもあるが、それらとは違った意味で、秘密にしておきたかった。もしこれが夢であるならば、綺麗なままで心に留めておきたい気がしていた。

 環は玄関からまっすぐ自室へ行き、サンタンカに水をやりながら、

「どうもありがとうね。」と言って、にっこりとするのだった。


 春は瞬く間に過ぎて、もう七月になった。環はあれから、毎日神社に通った。依然学校では友達ができない彼女にとって、ミコトだけが唯一の親友と呼べるのであった。否、環の中ではすでにミコトはそれ以上の存在になっていた。絶対に欠けてはならない、特別な存在に。

 環は今日も神社へ行った。途中で夕立に遭って、カバンを傘代わりにして石段を上がって来た環を見つけて、ミコトは急いで自分の傘の中に入れてあげた。


「こんな日まで無理に来なくてもいいのに。」

「ミコトに会いたかったから。」


 ミコトは頬に熱を帯びていくのを感じた。そして、夏服になった環のワイシャツがびしょびしょに濡れて、透けて見えた水色の下着が、妙にミコトの官能を刺激した。それを環に悟られまいと、心の中で必死に平静を取り戻そうと努めていた。環もまた気が気ではなかった。いつにも増してミコトとの距離が近い。一段、また一段と上る度にミコトからヒノキのやさしい香りが漂って来る。環は、激しく脈打つ心音をミコトに聞かれまいと、なるべくミコトに触れないように、かつ傘に収まるよう小さくなって歩いた。あわよくばこの傘の小ささに乗じてミコトに触れたいとも思っていたことは永久の秘密だ。

 いつもの縁側について、ミコトが着替えの服を持ってきてくれた。それはいつもミコトの着ている白い麻の開襟シャツとワイドパンツだった。環はそれを受け取って、気づかれないようさりげなく匂いを嗅いでみた。うっとりとした心地だった。

 早速環は着替え始めた。が、ぐしょ濡れになったインナーのキャミソールを脱ごうとした時、ふいにミコトの視線を感じた。ミコトはずっと環の方を見つめていた。それはどこか恍惚としていた。女同士なのだから問題でもはずなのだが、相手がミコトとなると話は別である。環は、さっきとは違う羞恥を感じた。


「あ、えーっと……、ミコトさん、ちょっと恥ずかしいから、向こう向いててくれる?」

「……え、あ、そ、そうだよね。ごめんごめん。」


 はにかみながら言うミコトの頬は紅に染まっていた。急いで後ろを向く。環も赤くなって、互いに背を向けて着替えを済ませた。その後も二人はぎこちないまま、黙って雨の景色を見つめていた。まるで真っ白な部屋の中に二人きりで閉じ込められたようだった。

 数分の後、最初に沈黙を破ったのは環だった。


「あの、ね。私、秘密があるの。誰にも言えない、秘密。」

「何?」

「私、女の子が好きなの。」


 環がそういうと、ミコトは微笑を浮かべて、うん、とだけ言った。環は、ミコトが平然としているのに驚いたが、嬉しくもあった。ミコトにだけは明かしておきたいという願望は今までもあったが、また嫌われてしまうのではないかと不安だった。でも、環はどうしてもミコトには知っていてもらいたかった。全てを明かしたかったのだ。たった二人だけの秘密として。


「……引かないの?」

「引かないよ。誰が何を好きであろうと、誰にもそれを否定する権利なんて無いと思う。」

「ありがとう。……でも、皆が皆、ミコトみたいに優しいわけじゃない。……私ね、いじめられてたんだ、そのことで。中学のとき、同じクラスの女の子のことを好きになっちゃって。告白したの。そしたら、『キモイ』って言われてさ。次の日から、皆から無視されて、ひそひそと、でも私に聞こえるように、キモイキモイって……。」

「ッ! 環……。」


 環は、自分でも気が付かぬ間に泣いていた。話すには、思い出したくもない過去を掘り起こさなければならない。どんなに今は平気だからと言って、その地獄の記憶は、掘り起こそうと思えばいつだって当時と同程度の威力で以て襲い掛かってくるものだ。

 環は、零れ続ける涙を拭いながら続けた。


「だからね、私、『普通の女の子』になりたいの。この前もここで何度もお願いしたんだよ。って、ここまで話して気づいたけど、ミコトは知ってたか、神様だもんね。」


 そう言って、泣き顔のまま笑った。それはあまりに痛々しい表情であった。見ていられなくなったミコトは、考えるより先に環を抱きしめた。そして、優しく環の頭を撫でながら、


「頑張ったね、頑張ったね……。もういいんだよ。もう、苦しまないで、良いの……。」


と何度も言い続けた。ミコトは、自分の頬にも涙が伝っていくのを感じた。その涙が同情なのか、もっと早く環と出会っていればというやるせなさなのか、環にこれほど深い傷跡を残した輩への憤懣なのか、それは分からない。ただ、溢れる雫の熱いのだけが判然としている。

 環も、堤防が決壊する如くミコトの胸の中で泣き咽んだ。今の彼女にとってミコトといる時間だけが本当だった。両親はとても優しくしてくれて、環が泣いているならばきっと同じように抱きしめてくれるのだろう。しかし、その優しさがまた環を苦しめた。自分がこうなってから、両親は以前にも増して優しくしてくれるようになった。そして、わざわざ引っ越しまでしてあの地獄から救い出してくれた。でも、楽な引っ越しなどは無い。きっと二人は、私のせいで無理をしている。両親の優しさに触れたとき、いつも環はそんな思いに苛まれるのだ。だが、ミコトの場合は違った。ミコトの優しさは全く澄明で、憚りなく寄りかかることが出来た。細身のわりに柔らかな胸の感触は、みるみるうちにつらい過去を忘れさせた。

 二人は一しきり泣いて、ようやく落ち着いた。そしてミコトが言った。


「私、環は変わらなくってもいいと思う。そのままの環が一番……良いよ。でも、環が変わりたいって望むなら、私、応援する。だって、環が決めたことなんだから。」

「うん、ありがとう。私頑張るね。……あ、あと、これはまだお母さんとお父さんたちにも言ってないことだから、私とミコトだけの秘密にしておいてくれるかな?」

「分かった。約束する。」


 そうして二人は、お揃いに目を赤く腫らせて、笑いながら指切りをした。その時にはもう夕立は上がっていて、鳥居の先には夕日を溶かした海が星のように輝いていた。


 家に帰るとお母さんが、


「あら、ジャージなんて珍しいわね。」


と言った。驚いた環は視線を下ろしてみると、さっきまで着ていたミコトの服上下がいつの間にか学校のジャージになっていた。しかし、本物はタンスにしまってあるはずである。急いで自室に駆け込んでタンスの中身をひっくり返すと、果たしてそこにも同じジャージはあった。では、今着ているこれは何なのか、さっきのあれは夢だったのか? 疑問が湧き出てくる。そして環はふと、着ているジャージの襟元を鼻先に引っ張り上げて匂いを嗅いでみた。ヒノキの良い香りがしたので環は少し安堵した。

 ジャージの正体を探られないよういそいそと着替えて環が二階から降りてくると、リビングでお母さんが誰かと電話をしていた。


「そう、じゃあ夏休み、楽しみにしてるわね。たっくんが来てくれて、環も喜ぶと思うわ。……うん、じゃあまたね。……うん、はーい。」


 電話を終えたお母さんが嬉しそうに環に向かって、


「夏休みにね、たっくんのうちがこっちに遊びに来るんだって! 楽しみだわ!」


 「たっくん」とは環の幼馴染の同い年の男子で、母親同士が仲が良くてよく遊んでいた。中学の時に環が学校に行けなくなった時も、たっくんはよく環の家へ来て、一緒にゲームなんかをして遊んだ。それだけが当時の環にとっては救いで、今でも大いに感謝している。


「そうなんだ。いつぐらいに来るの?」

「八月の初めくらいって言ってたわよ。」

「そっか。じゃあ、その日はパーティーだね。」

「ええ、盛大にやるわよ! それにしても、こんな遠くまで会いに来てくれるなんて、たっくんはホントに良い子ね。」

「どういうこと?」

「今年の旅行どうする、って話になった時、真っ先にたっくんが、『環のとこ行こう』って答えたらしいわよ。ああ、いっそうちにお婿さんに来ないかしら! なんちゃって!」


 それを聞いて環は苦笑した。また心に雲がかかっていくのを感じて、そこにいるのが辛くなってきたので、また二階の自室に戻った。

 ベッドに寝転がって、環はさっきのお母さんの言葉を反芻していた。「お婿さん」という言葉が、喉に魚の骨が刺さるような具合に引っ掛かっていた。

「普通」の思春期の女の子といえば、やはり異性に対して何か甘酸っぱい感情を持つものである。だとしたら、「普通」になるには私も男の子に恋をしなければならない。環はそう考えた。しかし、今まで異性に対して恋情を抱いたことがなかったので、どうしていいか分からない。かと言って誰でもいい訳でも無かった。そこでもう一度「お婿さん」と言ったお母さんの言葉を思い出してみる。そうして、たっくんならば……、という考えが浮かんできた。あれだけ環のことを気遣ってくれたたっくんならば、なるほど恋するには十分な動機があった。ミコトも応援してくれると言っていたのだから、どうにかたっくんのことを好きになって、「普通」の女の子になろう、そう心に決めようとした。でも彼女はどうしてもミコトのことが脳裏から離れず、さらに苦悶した。そうしているうちに、だんだんとうとうとしてきて、窓際のサンタンカの土が乾涸びているのも気が付かずに眠ってしまった。

翌日からは期末試験期間で一週間ほどミコトのところへ行けなかった。

その後、悶々としたまま期末試験最終日を終えた。ようやくミコトに会える喜びから、その日は校門を全校生徒で一番に抜けて神社へ向かった。

環が神社の石段の前まで来たとき、三段目のところに腰掛けているミコトの姿を発見した。階段の両脇から覆い被さっている松の木がちょうど日陰になって、ミコトはすやすやと眠っている。普段会うミコトはとても落ち着き払っていて、隙の雰囲気があったので、こんなにも無防備に眠っているミコトが何とも愛おしかった。環は合掌して、口の中で神様に礼を述べた。

環はなるべく足音を立てないよう近づいて行った。そうして、ミコトの横に座った。ミコトの寝顔はこちらを向いている。僅かな木漏れ日がミコトの白い肌に反射して、まるで海の煌めきのようだ。まるで吸い込まれるような……。環は人差し指の先で、その美しい顔をちょっと触ってみた。着ている服に反して、頬はシルクだった。もう少しだけ指を沈ませてみる。永遠に触っていたいような心地良い弾力で、環は何度か突っつかずにはいられなかった。ああ、なんと幸せなことだろう!


「……環、久しぶり。」


 ミコトが突然喋り出して、環はアッと声を上げて飛び上がった。


「ミ、ミコト! いつから起きてたの!?」

「環がツンツンしてきてから。」


 環の顔は夏の日照りよりも熱くなった。ミコトは何だかしたり顔である。そして、環の頬を優しくつまんで、

「お返し。」と言っていたずらに微笑した。その瞬間の環の喜びはなんと形容したものだったろうか。

 二人は少しの間恍惚としていたが、思い出したように環が、


「この間は服貸してくれてありがとう。」と言って紙袋と一緒に服を返した。

「別に返さなくたって良かったのに。」

「そうはいかないよ。」

「そっか。ご丁寧に、ありがとう。」


 実を言うと、環はちょっと名残惜しかった。返さなくてもよかったと言われたときは、返してもらおうか迷ったが、理由が不純なのでやめにした。


「あの、ミコトに相談があるんだけど。」

「何?」

「八月に、幼馴染のたっくん、佐久間拓人くんて子がうちに来ることになったんだ。その子、私がいじめられてた時、いつも慰めてくれてたんだよ。」

「へぇ、良い子だね。環に良い幼馴染がいて良かった。」

「そう、良い子。感謝してる。」

「それで、相談って何?」

「えっと、相談ていうか、『普通』になるための報告というか、えっと、それはね。その……、たっくんの事を好きになってみようと思うんだけど……どうかな?」


 一瞬ミコトの表情が曇ったのを感じたが、すぐにいつもの優しい微笑で、

「環が決めたことなら、良いと思う。応援するよ。」と言った。


「ありがとう。ちゃんと男の子が好きになれれば、私は『普通』の女の子だって証明できると思って……。」


 ミコトは微笑みながら頷いていた。だが、ほんの少しだけ強いトーンで、

「でも、無理はしないでね。」と言った。


  ***


 一学期は瞬く間に終わり、快活に鳴く蝉の声に胸を弾ませながら八月を迎えた。佐久間拓人もまた、胸を弾ませた青年の一人である。長崎に到着して借りたミニバンの後部座席の窓から、彼は雄大な海を眺めながら幼馴染に想いを馳せていた。あいつはもう大丈夫なのだろうか、また一人で泣いていはしまいか、と。

 彼は、今回の旅行に例年とは違う心持で臨んでいた。いわば勝負の旅行となるのだ。今の彼には、照り付ける夏の日もやかましく鳴く蝉の音も、全てが彼の焦燥を煽り立てた。その中で、太平なこの青い海だけが、心を鎮める唯一のオアシスだったのだ。

 考え事をしている間に、何の心の準備も出来ないまま環の家に到着してしまった。拓人の母は環のお母さんと二十年来の仲で、今日をとても心待ちにしていたのもあって、車が止まったのとほとんど同時に車を降りてインターホンを押しに行ってしまった。向こうも余程楽しみだったのか、すぐに出てきて早速ハイタッチを交わしている。拓人が車を降りたとき、玄関から環が出てきた。拓人は、その顔色の以前より明るくなっていることに安堵した。だが、緊張して話しかけることは出来なかった。すると、少し微笑した環が、


「たっくん、どうしたの? 早く入りなよ。」

「え、あ、うん。」


 突然のことでついぶっきらぼうな返事をしてしまった拓人は、情けない思いで家に上がった。

 一週間の旅行の内で最初の一泊は環の家に泊まらせてもらうことになっていた。思春期の男女が一つ屋根の下で一夜を明かすとなれば、相手のことを意識せずにはいられない。そのせいもあって拓人は、まるで初対面の人の家に上がった時のように静まり返っていた。また、環は環で、違う理由から拓人への接し方を図りかねていた。前のように話しかけてきてくれるものとばかり思っていた環には、拓人のこの態度は予想外だった。彼女はいろいろ考えてみたが、ついぞ拓人が黙り込んでいる理由は分からなかった。


「ちょっと拓人、どうしたの? そんなかしこまっちゃって。ついこの間まで環ちゃんと一緒に遊んでたじゃない。」

「いや、何でもないし。」

「環ちゃんと話すこと、いっぱいあるでしょ?」


 と拓人の母がけしかけると、乗じて環のお母さんも、

「環も、たっくんと遊んで来たら良いじゃない。二人とも仲いいんだし。」


と環を促す。環はちょっと躊躇いながらもたっくんに提案した。


「あー、じゃあ、たっくん、私の部屋、いこっか?」

「お、おう。」

「えっと、今、サンタンカを育ててるんだけど、綺麗だから見てみて。」

「お、おう、サンタンカな、見たいな。」


 そうして二人は環の部屋へ行った。部屋に入るとすぐ、環がサンタンカの入った鉢を持ってきた。


「どう? 綺麗でしょ?」

「ああ、綺麗だ。」

「でしょ! これ、引っ越してきてすぐに花屋さんで見つけたんだ。夏前なのに綺麗に咲いていたから、つい買っちゃった。」

「はは、環らしいな。」

「それでね、花言葉は『喜び』『神様の贈り物』なんだって! 学校、不安だったから、なんか安心したんだ。」

「そうか。良い花言葉だな。……学校、楽しいか?」

「うーん、どうだろ。前に比べたらマシかな。」

「そっか。なら、良かった。」


 拓人は、一つ心配事が晴れてホッとした。その後二人はだんだんとかつての調子を取り戻していった。お互いの学校生活を話し合ったり、他愛もない事で笑ったり、ゲームをしたりして時間が過ぎていった。その時は昔に戻ったような気さえしていた。ふと現実に帰って来たときには、拓人の余計な力も抜けていて、かねて心に決めていた本題を切り出せた。


「環、週末、祭り一緒に行こう。」


 一瞬環は沈黙した。だが、すぐ笑顔を作って、

「うん、いいよ。久しぶりだね、たっくんとお祭り行くの。」と答えた。


「また、射的で勝負しようぜ。」

「相変わらずだね。いいよ。負けないからね。」


 そうこうしているうちに夕ご飯の時間になっていた。二人は環のお母さんに下の階から呼ばれて、環が先に降りて行った。その後から拓人は、胸をなで下ろしながら下へ降りて行った。

 その晩は、佐久間家三人はリビングで川の字になって寝た。拓人は、すべきことを遂行できた喜びと環とかつてのように過ごせた喜びの二つに包まれて安眠した。彼は、環がいじめられていた理由は知らなかった。否、聞けなかったのだ。だから、環が「普通の女の子」になるために「幼馴染」と「恋人」の狭間で思い悩んでいたことなどは全く知る由も無かった。

 翌朝、拓人は環に町案内を依頼した。道中、二人は平生の様子を装いながらも内心はどちらも気が気でなかった。ただ、その理由が少し違った。拓人は週末の祭りまでに環との仲を発展させておきたかった。環は「普通」の女の子のする恋愛がどういったものか、自分にもそれができるのかを確かめていた。

 結果は、どちらも不得要領に終わった。カフェも海もサンタンカを買った花屋も、どれも楽しかったが、それらが二人の関係に劇的な変化をもたらしたわけではなかった。大方昨日の後半と同じ調子で町案内は終わった。

 ヒグラシが鳴き始めた夕方、二人は家に戻ってきた。何となく一人になりたい気分だった。拓人は、

「俺、ちょっと一人でこの辺散歩してから帰るわ。」と言った。


「そう? 分かった。じゃあ、私、お母さんたちと夕食の準備して待ってるよ。」

「ああ。……環、今日はありがとな。」

「いいえ。」


 そんなやりとりをして、拓人はまた家の前の道を左に曲がっていった。その方角は、ミコトのいる神社がある山の方角だった。きっと、独りで感傷に浸りたいときには、山がその方角に人を導くのだろう。

 何かに誘われるように、そぞろに山へ入っていった。山道を少し行くと、石段が現れた。拓人はずんずん階段を上っていく。すると、ある小さな神社に出た。周りには誰もおらず、爽やかな風に乗って侘しいヒグラシの声が聞こえてくるだけだった。しかし、それが今の拓人には心地よかった。しばらくそこで目を瞑って、ヒグラシの音に耳を澄ませていた。ああ、この寂しさこそが恋なのだと、思った。

 拓人は、せっかく来た記念に、お参りをしていくことにした。そこで神様に、こう祈った。


「祭りの日の花火が上がるとき、環に告白しようと思います。どうか、どうかうまくいきますように。」


 拓人が帰ってきて、夕食を食べ終えると、あっという間に佐久間家の出立の時刻になった。真野夫婦はもっといても良いと言ったのだが、佐久間夫婦は観光もしたいのだと言って申し出を名残惜しそうに断った。残りの五日はホテルで過ごすことになっている。

 車に乗り込むとき、拓人は、

「祭り、楽しみにしてろよ。」と言った。


「ふふ、たっくんの方こそね。」

「おうよ。」


 そうして車に乗り込んで、車は動き出した。拓人は、真野一家が見えなくなるまで手を振り続けた。


***


 その夜、環は眠れずにこの二日間のことを思い出していた。久しぶりに拓人と遊べて、すごく楽しかった。だが、ミコトといるときの楽しさとは違った。ただ、「親友」として楽しかったというだけだった。どうしても彼が恋人になることは想像出来なかった。「普通」の女の子ならばきっと、彼のようにいつでも寄り添ってくれて、一緒にいて楽しい男子には何か心がときめいたりするのだろう。しかしこの二日を以てしても、そのときめき感じられなかった。

やっぱり私は「普通」にはなれないのかしら……。そう溜息をついて、ふと月光に照らされたサンタンカを見やった。その時、一部の花が枯れていることに気が付いた。今日は朝から町案内に出かけていて、また水やりを忘れていた。環は急いで水を取ってきて、乾涸びた花と土に水をやった。当たり前だが、一度枯れてしまえば元には戻らない。枯れてしまった花を撫でながら、環は自分がつくづく嫌になった。


朝起きても、もちろん枯れた花はそのままだった。むしろ昨晩より心なしか花が萎れているようにも感じた。憂鬱な気分だ。だが、こんな時はミコトのところへ行けば、束の間憂鬱から解放されるのだった。朝ごはんをさっと食べてしまって、服を着替えておめかししてから、神社へ向かった。

神社に着くと、ミコトは海を見つめていた。まるで、初めて出会った日のように。


「何してるの?」

「環、おはよう。特に何もしてないよ。海を見てただけ。」

「そう?」


 今日のミコトは何だか寂しそうな瞳をしていた。何かあったのか、環が訊こうとしたとき、ミコトから質問が投げられた。


「拓人くんとはどうだった?」


 こう訊かれて、環はぎくりとした。


「うーん、なんか、よく分からなかったかな。」

「そっか。」


 ミコトのこの「そっか」は少し安心したという風なニュアンスがあった。


「ちょっと今、心が折れかけてる。やっぱ私は『普通』にはなれないんだーって。」

「……環、『普通』って何かな?」


 突然の質問に環は面食らってしまった。ミコトにそんな風に言われるとは露とも思っていなかった。いつもみたいに慰めてくれると思っていた。


「ミコト? どうしたの?」

「『普通』って何なのかな? 『普通』でいなきゃいけないものなのかな? 私は、今の環のままで良いと思うんだけどな。」

「……『普通』じゃないと、誰からも嫌われちゃうんだよ……。」


 そこでミコトははっとしたのか、


「あ、ごめん、環。私、応援するって、言ったのに……。」

「ううん、私もうじうじしてるのが悪いんだし。」


 環がそういうと、ミコトは俯いてしまった。そして、環はミコトの口からは絶対に聞きたくない言葉を聞いてしまった。


「……もう私たち、会うのやめにした方がいいと思う。」

「ッ!? どうして?」

「こうして女の子二人で会ってたら、たぶん、何も変わらない……と思う。」

「何でッ? 私たち、友達じゃないッ! 友達が二人で会うこと何が悪いのッ?」

「……が、だめ……。」


 もう一度環が聞き返すと、ミコトは目に涙をいっぱいに湛えながら、


「私がだめなのッ!」


と大きな声で言った。初めてミコトが感情的になっているのを見て、環は固まってしまった。


「……環のこと、応援してるから。今までありがとう。」


 そういってミコトは社殿の裏へ走り去ってしまった。環は追いかけたが、すでに誰もいなくなっていた。あまりに突然訪れた終わりに絶望して、その場に膝から崩れ落ちて泣き伏した。

 その後、縁側に移動して絶望にうなだれていると、急に雨が降って来た。環の沈鬱はさらに増した。その中で、ミコトに言われた『普通』が何だったのかを考え始めた。


『私は、「普通」に男の子に恋をしたかった。たっくんに恋することを望んでいた。そうだ、そうだったんだ。そうだったのか? 私は、本当に男の子を好きになりたかったのか? 何のために『普通』になりたかったんだ? 私の心は、何を求めていたんだ? 

––––ミコト……。––––』

「よっこらせ。」


 環はびっくりして横を見ると、宮脇さんだった。


「ん。お嬢ちゃん、泣いてっけど何かあったか?」

「いいえ、何でもありません。」


 環は急いで涙を拭った。


「宮脇さんは、どうしてここへ?」

「ここは、死んだ女房と初めて会った場所での、毎月命日にここへ来るのがわしの日課なんじゃ。」


 そう聞いて、環はふとあの話を思い出した。


「あの物語ってやっぱり宮脇さんの体験なんですか?」

「知っとるのか? ああそうじゃ。誰も信じてはくれんがの、ハハハ。」

「私、信じます。信じてました。……神様と結婚するって決めたとき、どんな気持ちだったんですか? 普通ではありえない事じゃないですか。」

「ああ、わしも長い長い夢かと思っとった。それぐらいありえんことじゃ。わしだって、神様と結婚なんて受け入れてもらえるとは思っとらんかったから、何度も諦めようとした。じゃが、どうしても諦められんかった。……まあ、皆さんの言う通り、わしは、ちと頭が可笑しかったんかもしれんな、ハッハッハ。」

「……私、宮脇さんが羨ましいです。自分の気持ちに正直に生きられて……。私、『普通』じゃないんです。そのせいで、いっぱい親にも迷惑掛けました……。ホントに、こんなじゃなければ……。」

「……わしもそうじゃったぞ。社家なんて『普通』でない家庭に生まれて、生まれ持った質も変わっているってしょっちゅう言われとった。そして、ちょうどお嬢ちゃんぐらいのときに、我慢ならならなくなって、家出した。そこで、女房と出会ったんじゃ。そいで、愛し合うようになって、ある日女房にこう言われた。

『あなたは多くの人から見れば変わっているかもしれませんが、少なくとも私はそんなあなたを愛しています。あなたは、あなたにとっての普通に従って生きれば良いのです。そして、人はどうしたってそのようにしか生きられないのですから。私は、等身大のあなたをお慕いしています。』

 わしはこう言われて初めて、生きていくことを肯定された気がした。自分を許すことが出来た。……お嬢ちゃんにも、いつか自分を許せるようになる日が来る。そこからが、本当の、お嬢ちゃんの人生じゃよ。」


 私にとっての「普通」……。それはもう、最初から分かっていたんだ。本当に大切なものも、もうすでにあったのに……。環は何か思い立ったかのように立ち上がって、宮脇さんに、


「ありがとうございます。何か少しだけ、見えたような気がします。」


 環が礼を言うと宮脇さんはクシャっと笑い、頷いた。そして、


「おお、お天道様が顔を出してきたぞい。」


 空には光の梯子がかかっていた。


 祭りの日がやってきた。あの後、何度かミコトに会いに神社へ行ったが、一度も会えなかった。今も環の胸には悲しみが巣食っている。でも、もう一方の心配は無くなっていた。拓人は大事な「親友」だ。


「環、おまたせ、行こうか。」


 甚兵衛の拓人がやってきた。環は何とか憂いを悟られないよう繕って笑って見せた。二人はきらびやかな屋台の並ぶお祭りに入っていった。

 二人はまず、以前約束した射的勝負を行った。勝負は四対一で拓人の勝利だった。その後も金魚すくいやヨーヨー釣りなど色々やったが、どれも拓人が勝利した。それでも環は十分満足していた。そうして遊んでいる間に、すぐ花火の時間がやってきた。

 拓人は、人気のない、花火のよく見える小さな公園に環を連れ出した。花火が始まるまでの残り五分が、彼にはとんでもなく長いものに感じられた。そしてついに、一発目の花火が上がり……。


「環、俺と、付き合ってくださいっ!」


 ……。

 柳の花火は、拓人の思いに呼応して夜空に大きく破裂した。だが彼には一片の悔いもなかった。ただ後に棚引いていく煙は侘しい余韻を残してゆくばかり……。

 気まずい帰り道ではあったが、環もまた、これで良かったんだと思っていた。自分はもう見つけているのだから、大切なものを。例えば、人ごみの向こうに見える彼女のような……。

 そこで環は目を疑った。美しきかの人を、確かにこの目は捉えた。会いたくて会いたくて泣き暮れた、美しき人よ! 環はわき目も振らず走り出した。往来でぶつかる人にも構わずに。拓人は、すぐに環を見失ってしまった。

 人ごみを抜け、四方を見渡す。神社の山へ駆けていく人影が見えた。環は、浴衣が締め付けて走りにくいのが鬱陶しかった。山道を走っていく途中、下駄の鼻緒が壊れた。環は、下駄を拾い上げて裸足で石段を登って行った。上まで着いたとき、ミコトは後ろ向きで立ち尽くしていた。


「どうして急にいなくなったりしたのッ? 私、ずっと寂しかったッ!」

「……拓人くんは? 告白、された?」

「え?」

「告白されたでしょ? なんて答えたの?」

「……断ったよ。」


 ミコトは目を丸くしてバッと環の方に振り返った。


「どうして? 彼と付き合えば、彼を好きになれたかもしれないんだよ? 『普通』に、なれたかもしれないんだよ?」

「……もう、いいの。『普通』は、もう、いい。」

「それじゃ……。それじゃ……。」


 ミコトは大粒の涙を流し始めた。


「私の自分勝手だってことは十分よく分かってる。ミコトが応援してくれてたのに、それを裏切ったってことも……。」

「そうだよッ! 拓人くんがここへ来て、環への告白が成功するように祈ってたの聞いたから、環が『普通』になれるチャンスだって……。環のためにも身を引かなきゃって……。」


 ミコトはその場にへたり込んで咽び泣きながら尚も続ける。


「でも、どうしても環と離れたくなくて……。だから、だから、もう会わなければ、忘れられるって思ってたのに……。私は、環が好きなの。どうしようもなく大好きなの、大好きに……なっちゃったんだよ……。」


 環は、ミコトの言葉に涙が溢れてきた。人は幸福な時と絶望した時に涙を流すが、環のは前者のものだ。ミコトに歩み寄って、そっとミコトを抱きしめた。あの夕立の日、ミコトがしてくれたように。


「ミコト。私もミコトが好き。世界で一番好き。私も、ミコトともう離れたくない。」

「……いいの?」

「うん。私は今まで、自分のことが醜いって思ってた。でも、ミコトは最初から、そのままの私を受け入れてくれてた。それだけで、十分だったんだよ、ミコトにさえ愛してもらえたなら、それだけで。私、やっとそれに気が付けたの。私は、ミコトのおかげで、どうしようもない私を許せるようになれたんだよ?」

「環ッ! 環、環ッ!」


 ミコトは環の胸で、子供のように泣き叫んだ。抱き合ったまま、環はミコトの背を優しく撫でた。少し落ち着いてからミコトが、


「私、ずっと寂しかった。だーれも来なくて、来たって私のことは見つけてもらえなくて。だから、環が来てくれた時、すっごく嬉しかった。私も環に救われたんだよ。」

「もう、ずっと一緒だから。」


 二人は抱き合い続け、やがて、熱いキスを交わした。この夜のことは、二人だけの秘密である。


 夏祭りのあと、拓人と環はまるで何事も無かったかのように環の家に戻り、そして佐久間家は空港へ向かった。目の腫れていることと下駄が壊れていることは、盛大に転んだということで通した。

 夏休みの終盤、神社でいつものようにミコトに会いに行ったとき、縁側に座って、ミコトはこんなことを言った。


「ねえ環。」

「何?」

「私、人間になろうと思う。」

「なれるの?」

「お父様を説得しなきゃなんだけど、なんとかやってみせるよ。だから、もうちょっと待っててほしい。一週間くらい会えなくなるけど、今度は必ず帰ってくるから、ね、私を信じて。」


 ミコトは環の手をぎゅっと握って、じっと環を見つめながら言ってくるので、本当さが伝わった。


「分かった。待ってる。」

「ありがとう。じゃ、指切り、しよ?」


 こうしてミコトはお父様の説得に向かった。それからの一週間は、永遠より長かった。でも、今回は帰ってきてくれる。それだけがせめてもの救いだった。そして……。


 新学期が始まった。朝、学校へ行く前にサンタンカにお祈りをした。今日こそはミコトが帰ってきますようにと。よく見てみると、花が以前より増えていた。ような気がした。ちょっとだけ気分が良くなって、

「あなた、本当に『神様の贈り物』をくれたのね。」と話しかけた。そうして環は軽い足取りで家を後にした。

朝のホームルームで先生が、

「転校生の紹介です。」と言い、クラスは夏の勢いそのままに沸いた。ガラガラと扉を開けて入ってきたのは、環が一番よく知っている彼女だった。制服姿は新鮮で、新学期から目の保養だ。クラス中の視線がその美貌に注がれる。しかし、その視線の中で環にだけ視線を合わせて微笑を向けてくれた。それだけで幸福感と優越感に満たされた。そして、黒板に彼女の名前が板書されていく。


「じゃあ、自己紹介して。」

「はい、波野美琴です。よろしくお願いします。」

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神様の贈り物 与野高校文芸部 @yonokoubungeibu

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