ああ!昭和は遠くなりにけり!!
@dontaku
第2話
小学4年生になった娘、美穂の日常を綴っていきます。
春休みが明け美穂は元気に登校していった。4年生になった美穂はだいぶお姉さんになってきた。新しいクラスになり友達も増えるだろう。ただ、ピアノのレッスンで遊びに行けないのが可哀相だと思うのだが、本人は全然気にしていないようだ。
そんな折り、音大に合格した夏帆さんから連絡があった。来週上京し信子が居た寮に入るとのことだ。引っ越しのお手伝いをしたいのだが男性は入れない。信子は春のコンサートで全国行脚、美穂はピアノコンクールに備えての猛練習をしている。幸い荷物は少ないとのことでご心配無くとのことだった。そしてピアノコンクールの案内を見て美穂が出るのではないか、応援に行きたいとのことだったようだ。
美穂のコンクールでの課題曲は「トルコ行進曲」、そして自由演奏曲は「田園・第一楽章“春”」と信子に教えられた。なかなか自由演奏曲が決まらなかったようだ。だが、「田園」は信子と私が幼い時から2人で聴いてきた曲のうちの1曲だ。信子との想い出の曲でもある。美穂は年末のクリスマスコンサートでフルオーケストラの演奏を生で聴いている。これをピアノで弾くというのだ。大丈夫なのだろうか。いくら美穂でもピアノだけでの演奏となると。だが、待てよ、美穂は自分で楽譜のアレンジが出来る、そう、懐メロがそうだった。
やはり楽譜を読み書き出来るまで成長している美穂のことだ、きっと上手くいく。今から私のわくわくドキドキ感が収まらない。
美穂が参加するコンクール開催日、美穂と私は少し早めに会場に入った。ロビーで受付をしていると声をかけられた。
美穂と振り向くと優香さんが楽器店の店長さんと立っていた。
「お忙しいところ足を運んでいただきありがとうございます。」と美穂とお礼を述べた。
「いえ、私共だけではないんです。あそこに、ほら。」そう言って優香さんはロビーの奥を指差した。
「えっ?」美穂とわが目を疑った。何とそこには美穂の小学校の校長先生、教頭先生、音楽の先生、そして引き続き担任の井上先生が、更にその奥には老人ホームのホーム長さんと職員さん数名、またその奥には老人ホームの入居者の有志一同の方々が手を振ってくださっていた。
美穂と2人で皆さんにご挨拶する。何でも学校関係の方は井上先生の車で、老人ホームの方々はホームのマイクロバスでおいでいただいたとのことだ。更に美穂にとっては嬉しい方が。学校長さんのお母さまがいらしていたのだ。是非美穂の演奏を聴きたいと「老体に鞭打って来ました!」と声高々に明るく笑われる。そんな応援団に見守られて控室へ向かう。
控室では出場者の方々とご挨拶を交わす。昨年秋の大会で優勝した美穂はもう名が知れてしまったようだ。あちらこちらで声をかけられる。そんな中、演奏順番が発表される。大きな紙に部門別に参加者名が書かれている。小学生高学年の部門に上がった美穂は第一番目の演奏だ。更衣室が空いたので美穂は一人で着替えに行く。女性が殆どなので男の私が更衣室には流石に入れない。
程なく美穂が控室へ戻ってきた。おおっ、淡いピンクのドレスだ。
「美穂。それってママの・・・。」見覚えのある信子のドレスだ。
「うふっ、ママに相談したら貸してくれたの。」嬉しそうにターンしながら私に教えてくれた。喋り方がそっくりなので幼い頃の信子そのままだ。
「美穂、大丈夫だと思うけど、緊張するなよ。」そう声をかけた。
「うふっ、大丈夫。美穂はパパとママの子だよ。」そう言ってにっこり笑う美穂。「そうだな!そうだったな!」思わず嬉し涙が溢れてくる。
会場の方からマイクの声が聞こえてくる。いよいよ開幕らしい。
控室の面々が大きなモニターを食い入るように見つめる。
学校長さんが開催の挨拶を始めようとした時だった。一瞬会場を見つめ少しの間が出来た。恐らく会場にいらした手を振るお母さまに気付かれ驚かれたのだろう。しかし気を持ち直され、直ぐに挨拶が始まった。
美穂は椅子に腰かけ両手の指を動かしている。恐らく頭の中で演奏しているのだろう。他の方々はそんな美穂をじっと見つめていた。
いよいよ美穂の番だ。「じゃあ、美穂。行っておいで。」
「うん。」進行係のお姉さんの誘導で舞台袖へ。美穂は堂々としたものだ。まるで自分のコンサートのようだ。
大きな拍手が巻き起こる。応援の皆様だろうか、ありがたいことである。美穂がピアノの傍へ歩み寄り何時もの様にピアノに手を添えて会場へ向け一礼する。さらに割れんばかりの拍手が起こる。
美穂が先ほど言っていた。「ここのピアノさんとはクリスマスコンサートのときにやっとお友達になったんだよ。」
そうだ、美穂はここのグランドピアノではもう3度目の演奏になるのだ。それだけこのグランドピアノはやや癖が強いのだろうか。
会場から「トルコ行進曲」が流れてくる。何時もの美穂の演奏だ。
指使いが難しい曲だが、美穂は速いテンポで無難に演奏していく。
「すごおーい!何だかレコードみたいだね。」他の参加者からそんな言葉が聞こえる。初めて信子の演奏を聴いたのがお互い10歳の時。
今、あの時の私たちと同じ10歳になった美穂がグランドピアノを奏でている。自然と懐かしく感じてしまう。信子にも聴かせてあげたい。
いよいよ「田園」の演奏だと思った瞬間、音が途切れない!続けて「田園」に入っていく。老人ホームでの7曲連続演奏で身に付けた美穂の技としか言いようがなかった。しかも、演奏が妙に凝っている。ただ譜面通り弾いているわけではない。各楽器のパートのアレンジが加わっている。素人の私にも良く分かった。美穂は編曲までも身に着けていたのだ。会場は驚くほど静かで美穂のピアノの力強い旋律だけが流れていく。
美穂の演奏が終わっても静まり返っている。
「ピアノさんありがとう。」何時ものようにピアノに手を添え会場に向かって一礼する。美穂のお決まりのルーティンだ。
わああーっ!大きな歓声と割れんばかりの拍手に会場が揺れた。
美穂の応援団の皆様から声援が飛ぶ。
そんな中、美穂は何事もなかったかのように控室に戻ってきた。
さっそく出場者たちに取り囲まれた。
「美穂ちゃん、どこの楽譜使っているの?」皆、自分が使っている楽譜とは違うと思ったようだ。
「えっ?皆と同じ楽譜だよ。でも自分なりに手直ししているの。」
美穂の返事に一同驚愕した。どうやら皆、楽譜通りに弾くことだけに重きを置いているらしい。しかし、美穂は違う。ピアノと一緒に自分の感性を楽譜にプラスして楽しんでいるのだ!と私は思った。
「美穂、お疲れさま。何が飲みたい?」私は美穂のために飲み物を3つ用意していた。“ミネラルウォーター”、“オレンジジュース”そして温かい“ほうじ茶”だ。
「うーん、“ほうじ茶”にする。」美穂は嬉しそうにほうじ茶をいただく。
私も応援に力が入ったせいか“ホットコーヒー”で美穂と一緒にしばしまどろむ。
小学生の部門最後の出場者の演奏が終わった。直ぐに小学生の部の選考が始まる。美穂は順位をあまり気にしていないようだ。他の出場者たちとピアノや学校の話をしてきゃっきゃっと盛り上がっている。
進行係のお姉さんが控室に入ってきた。イヤホンで何かを聞いている。恐らく入賞者の氏名が伝えられるのだろう。さすがに控室に緊張が走る。低学年の部と高学年の部、それぞれの部門ごとに優勝と準優勝が決まる。
「高学年の部、優勝は美穂さんです。そして小学生の部門総合優勝は美穂さんです。美穂さんは秋、春と連覇達成です。」
会場から割れんばかりの大拍手だ。
美穂に優勝の表彰状と大きなトロフィーが手渡された。
「美穂ちゃん、優勝おめでとう。見事な演奏でした。これからもピアノさんたちといい音楽を奏でてくださいね。」学校長さんは満面の笑みで美穂に話しかけてくれた。
「はい!おじちゃん!がんばります!」美穂の可愛い返事に会場がどっと沸いた。
美穂が控室に表彰状と大きなトロフィーを抱えて戻ってきた。
「美穂、おめでとう!」そう言いながら重そうな大きなトロフィーを受け取る。美穂はにこにこ顔で「パパ、ありがとう!」と答えてくれた。再び小学生の出場者たちに囲まれる美穂。そんな美穂を誇らしく、だが、遠くへ行ってしまいそうな気がして、私の気持は嬉しさと寂しさとが複雑に入り混じっていた。
「美穂ちゃんのお父様、申し訳ありません。念のため、今回は最後までお残りいただきたいのです。よろしくお願いいたします。」進行係のお姉さんからの連絡だった。なぜだろう?
「うわあ、すごい!美穂ちゃん総合得点が高いのよ。小学生で最後まで残ることなんか無いんだから!」保護者の方々からそう聞かされた。そうだ、素人の私はコンクールの仕組みなど知る由もなかったのだ。この辺が信子とは大きく違う点だ。
小学生の皆さんが次々と引き上げる中、美穂だけが控室に残った。
周りは中学生。以降は高校生、短大と大学生といったお姉さんたちばかりとなっていく。そんな中、数人の中学生と高校生のお姉さんたちが美穂に話しかけてきてくれた。美穂は人怖じすることなくお姉さんたちの輪に入ってピアノ談義に花を咲かせていた。
中学生の部が始まると出場するお姉さんたちは次々とステージへ向う準備に取りかった。すると今度は高校、短大や大学生のお姉さんたちが話の輪に加わって来てくれた。雑談の中で皆さんから色々教わっているようだ。
それにしても美穂の社交性には目を見張るものがある。信子とそっくりだ。母に習っていること、母も自分もマイピアノを持っていることなどを話していた。そうこうしている間にお昼近くになった。
皆さんはお弁当持参だった。そう、小学生の部以外はお昼をまたぐか、午後からの開始なのだ。まさかの事態になってしまったのでドレスを汚さないように一旦美穂を着替えさせた。荷物をロビーのコインロッカーに入れ食事に向かう。応援団の皆様は既に帰路に就かれたようだ。
今日は音大の学食が開いているらしい。早速、守衛さんのところで入校手続きを行う。
「大丈夫ですよ。お入りください。」年配の守衛さんにそう言われた。
「今日は開放日ですか?」私の問いに驚くべき返事が返ってきた。「信子さんのご主人ですよね。昔から存じております。いつも信子さんを送り届けていらしたから。」これにはびっくりだった。守衛さんたちは音大生だった信子を送り届ける私を覚えていてくださったのだ。
信子が過ごした校内に入れてもらい、中庭を通り、教えていただいた学食へ向かう。
「ねえ、パパ。直ぐに入れて良かったね。」美穂は何だか嬉しそうだ。
自分の母親が過ごしていた大学に自分がいることがわくわくするのかもしれない。手を繋ぎルンルン気分で小洒落た学生食堂に入る。
周りは女性ばかりでちょっと気恥しくなってしまう。そんな私の気持ちをよそに無邪気にショーケースの前を左右に動き回る美穂。
「あっ!パパとママの大好きなトーストがあるよ!」美穂が大きな声で私に教えてくれた。周りのお姉さんたちからくすくすと声が聞こえる。私は気を取り直して美穂に尋ねた。
「美穂は何にする?」
「美穂はねえ・・・。これにする!」美穂が指差したのはスパゲッティナポリタンだった。美穂を着替えさせておいて大正解だった。
2人で食券を買い食堂へ入る。セルフサービスで、麺類と定食の2つのコーナーがあった。当然、麺類のコーナーへ。美穂は初めての学食に興味津々だ。自分でトレーを取りナポリタンの食券を渡す。
「お待ちどうさま。お嬢さん。」そう言って厨房のお姉さんがナポリタンを出してくれる。
「ありがとうございます!」美穂の大きなはっきりした声に厨房の方々から笑みがこぼれる。
二人でトレーをしっかり持って空いていた席に座る。女性が多いためか、なかなかお洒落な学生食堂だ。私はお冷を取って席に戻る。
「ママはどこで食べていたんだろうね。」そんな話をしながら2人でナポリタンをいただく。美穂は小学生ながら上手にフォーク1本でナポリタンを食べ進めていく。それを横目で見ていたお姉さんたちから感心する声が聞こえる。しかし、美穂にとっては当たり前のことなのだ。美穂は何でも私たち2人の真似をする。しかもすぐに出来てしまう。だから迂闊なことは出来ないのだ。信子も私も、何でもその都度、きちんと教えているつもりだ。
「美穂、デザート貰おうよ。」食器を片付けながら美穂を誘った。
「うん、そうだね。」美穂はそう言うが早いか再び外のショーケースの前へ。選んでいる目が真剣だ。何かと何かで迷っているのだろう。
「すみません。「苺のショートケーキ」と「和栗のモンブラン」とどちらが美味しいですか?」
何と、美穂は近くにいた知らないお姉さん2人に聞いたのだ。
「えっ?私?」驚く2人組のお姉さん。
「そうねえ。私は何時も大好きな「苺のショートケーキ」を食べているけど。」
するともう一人のお姉さんが詳しく教えてくれた。
「あら、「和栗のモンブラン」よ。本格的な味で有名なケーキ屋さんに負けない美味しさよ。」
てっきり美穂は混乱すると思ったが、二人のお姉さんに丁寧にお礼を言って私の所へ戻ってきた。
「決められなくなっちゃった?」私が笑いながら言うと思いもよらない答えが返ってきた。
「有名なケーキ屋さんに負けない美味しさだって聞いたから「和栗のモンブラン」にする!」
そうか、じゃあ私はもう一人のお姉さんが大好きだという「苺のショートケーキ」を頼んで美穂と半分っこしよう。
こうして食後のデザートまで美味しくいただいた美穂と私はコンサートホールへ戻って行った。
再び控室に戻ると丁度中学生部門の審査結果が発表されていた。
悲喜交々の中、美穂は優勝したお姉さんにお祝いの挨拶に行った。「まあ!美穂ちゃんありがとう!」中学のお姉さんは大変喜んでくれた。ただ、帰りの飛行機の時間を気にされていた。お母さんと2人で上京されたらしい。更に話を聞いて驚いた。去年の夏休みに3人で訪れた私たちの故郷にお住まいの方だった。その時だ!どこかで聞き覚えのある声が!
「優勝おめでとう!良く頑張って練習したわね!」声の主は夏帆さんだった。
「あっ!夏帆お姉さん、こんにちは。」美穂と私は夏帆さんに挨拶した。
「えっ?どいうこと?」事の次第が分からない中学のお姉さん親子だった。
私たちと夏帆さんの馴れ初めと、ピアノスクールは信子の想い出に場所である旨を説明した。夏帆さんは控室に私たちが居なかったのでもう帰ってしまったと思っていたようだ。改めて美穂にお祝いの言葉をくださった。美穂は嬉しそうに夏帆さんに入学のお祝いの言葉を返していた。
そんな理由で中学のお姉さん親子は帰路の途に就いた。
2人を見送って夏帆さんと3人で控室に陣取った。夏帆さんは美穂が残っている理由に気付いていた。「美穂ちゃんなら十分ありえるわ。」
丁度高校生の部が始まったところで控室に残っている美穂を皆不思議そうにちらちら見ていた。きっと姉が出場しているのだろうと全員が思っていたに違いない。
高校の部も優勝者が決まりいよいよ短大と大学の部が始まった。
美穂はまた高校の部の優勝したお姉さんに挨拶しに行った。お姉さんも大変喜んでくださりしばらく2人でにこやかに話をしていた。
すると進行係のお姉さんから案内が。
「美穂ちゃん、ドレスに着替えておいてください。」
その言葉に控室は騒然となった。総合選考に小学生の美穂が残っていることが分かったからだ。そんな騒動をよそに再度一人で更衣室に入る美穂。
皆の視線は更衣室へ向けられていた。
そうだろう、短大と大学の部門への出場者は大多数が午後から控室に詰め始めており、午前中の小学生たちの演奏を聴いていないのだ。
そんな中、淡いピンク色のドレスを纏った美穂が更衣室から出てきた。控室に新たなどよめきが起こる。
「うわあ!美穂ちゃん素敵!可愛いわあ!」夏帆さんに褒められて初めて少しはにかむ美穂。他の出場者の方たちも同様に美穂のドレス姿を褒めてくださった。
とうとう短大と大学部門の発表となった。それと同時にいよいよ総合入賞者3名が選ばれる。その時まで、私には小学生の美穂が入賞出来るとは思えなかった。
先ず3位から発表が行われる。会場の声が大きなモニターから聞こえてくる。その時だった。案内係のお姉さんが、美穂の元へ。
「美穂ちゃん、お待たせしました。さあ、一緒に行きましょう。」
大きなモニターに司会者が映っている。そして第3位の氏名を発表した。「美穂さんです!何と小学生初の総合3位の入賞です!」
美穂は堂々とステージ中央へ。そこで2位と1位優勝者の登場を待つ。会場内のカメラを持った人が大勢史上初の小学生入賞者である美穂を写しに集まって来た。あまりのフラッシュの閃光にさすがに美穂も戸惑っていたが直ぐに何時もの美穂に戻ったようだ。逆に私の方が震えが止まらなかった。
美穂がとんでもない快挙を成し遂げたからだ。
3人の入賞者は、1位優勝は大学生、2位は高校生、3位は小学生と言う結果になった。
ホール内は大騒ぎだ。しかもこれから3人の演奏が始まる。最初は美穂からだ。
何時も通りピアノに片手を添えて客席にお辞儀をする。この美穂のルーティンに会場が「おおおーっ!」と湧く。美穂は迷うことなく「田園」を弾き始めた。会場が静まる。その中を美穂の力強い旋律が流れる。観客の中には驚いて口をポカンと開けている人も居るくらいだった。
「ちょっと待て。午前中より上手くなってないか。」最初から聴いてくださっている方々からそんな声が漏れ聞こえる。
舞台袖で控える優勝と2位のお姉さん二人も驚いた表情で美穂の演奏に聴き入ってくれている。こうして入賞者3人の演奏も無事に終わり表彰式となった。
3位の美穂の名が呼ばれると「はい!」と会場に響き渡るほどはっきりと返事をする美穂。会場の皆さんが思わず感心するほどだ。
にこにこ顔の学校長さんから賞状と記念の盾が贈られる。見事なレリーフの入った立派な盾だ。見事過ぎて美穂には重過ぎたようだ。しっかり胸に抱いたもののお辞儀をした途端によろけてしまう。すかさず進行係のお姉さんが重い盾を預かって助けてくれた。
こうして表彰式も終わり美穂が控室に戻ってきた。そしてあっという間に控室に居た皆さんに囲まれてしまった。モニターで美穂の演奏を初めて聴いた人ばかりだった。皆興奮気味だった。
「何でそんなに上手なの?」「いつからピアノ始めたの?」「どこの教室に通っているの?」美穂は一問一答でそれぞれの質問に答えていく。しかも聞いてくるのは大学生や高校生のお姉さんたちだ。それぞれの質問に的確に答えていく能力は昔の信子そのものだ。
控室の入り口でその様子をじっと見つめていた人がいた。
学校長さんだった。にこにこと渦中の人となった美穂を見つめていた。私は傍に行き挨拶をした。学校長さんは私に祝福の言葉をくださった。私は美穂に代わりお礼を述べた。
学校長さんは近いうちにわが家へ伺いたいとのことだった。
その後、学校長さんは美穂に声をかけてくださった。
「美穂ちゃん、おめでとう。小学生とは思えない見事な演奏でした。良くお勉強しているね。」にこにこ顔の学校長に美穂もにこにこ顔で答えた。
「ありがとう!おじちゃん!」控室内がわあっ!と沸いた。
その後、入賞者3人でロビーのお花の前で写真撮影が行われた。大勢のカメラのフラッシュを浴びる3人。その中に小さな美穂がいる光景が不思議で仕方なかった。
再び控室に戻るとしばらく3人でのピアノ談義となった。
「お姉さん2人はどうしてエレガントな演奏が出来るの?」
美穂の問いに2人は口々に話してくれた。
「指使いなの。何時も手入れを休まないようにしているわ。」お姉さんの一人がそう言って美穂に向かって掌を掲げた。
美穂は自分の掌を合わせる。大きさ、長さが違うのは当たり前だ。
「美穂ちゃんは小学生だからお指がまだ短いの。だから優雅に弾くための指使いが十分出来ないのよ。」にこにこしながら解説してくれた。今度は優勝したお姉さんが美穂に言ってくれた。
「美穂ちゃん、今回は3位だったけど、もし美穂ちゃんが私たちと同じ体格だったら・・・美穂ちゃんが優勝よ。」
「そうだね。美穂ちゃんが小学生で助けられて2位になれたと思っているわ。だって美穂ちゃんの演奏は素晴らしかったもの。」
美穂は嬉し涙をぽろぽろ溢しながら2人のお姉さんの言葉にじっと聞いていた。
自分のピアノ演奏を認めていただいた嬉し涙だった。そして新たな課題“エレガント”な滑らかな演奏、これが次に美穂が目指すところとなった。
「良い話を聞かせていただいたわ。」夏帆さんももらい泣きしていた。
3人で着替えを終えてロビーへ。今度は音大関係者の簡単なインタビューだ。小学生ながらはきはきと答える美穂を2人のお姉さんは優しく見守っていてくれた。特に難しい音楽用語は分かり易く解説してくださり美穂を助けていただいた。私はお姉さん方と連絡先を交換し、美穂と共にお礼を言った。お2人からもお礼をいただいた。
そしてお2人をお見送りし、夏帆さんをわが家に誘った。今日は丁度車で来ていたので合格祝いを兼ねてのお誘いだった。
「外出許可を取っておいでよ。」私の言葉に驚く夏帆さん。
「えっ!何で知っているんですか、あ!そうか!」
「いや、信子とデートする時には必ず外出許可を取っていたからさ。」私の言葉に納得して夏帆さんは小走りで寮へ向かった。
夏帆さんを乗せて都内を抜け、わが家に到着した。
「うわあーっ!すごいお家!」美穂と手を繋いでわが家を見つめる夏帆さんを美穂がどうぞ!と案内する。私は車から美穂が頂いた盾やトロフィーを運び出した。そしてそれらをピアノルームに運び飾った。
美穂は夏帆さんを応接間に案内して既にお茶を出していた。夏帆さんは家の中を見回してピアノを探していた。
「夏帆お姉ちゃん、ピアノはこっちのお部屋だよ。」美穂は夏帆さんをピアノルームに案内する。そこは異世界に映ったのだろう。大きな古い深みのある茶色のグランドピアノとスタンダードな黒いピアノ。夏帆さんは余りの本格的なピアノルームに唖然として入り口で立ちすくんでいる。
「最初からあったんだよ、この部屋。グランドピアノを置ける家を探していたら丁度見つかってね。しばらくゆっくりしていてね。」私はそう言ってリビングに戻った。ピアノルームでは美穂の説明が始まったようだ。
「美穂ちゃん!楽譜読むだけじゃなく編曲までするの?」置かれていた手書きの五線譜を手に取り驚く夏帆さん。
「うん。老人ホームの新年会で使った楽譜だよ。」美穂はそう言ってグランドピアノを軽く弾いて見せた。
「夏帆お姉ちゃん、このピアノさん、弾いてみて。」そう言って夏帆さんに演奏をお願した。
「弾いても大丈夫なのかしら。後で信子さんに・・・。」椅子には座ったもののなかなか鍵盤に触れることが出来ない夏帆さんに美穂は笑顔で答えた。
「大丈夫。ピアノがちゃんと弾ける夏帆お姉ちゃんなら絶対怒られないよ。」そう勧められた夏帆さんが意を決したかのように鍵盤を叩く。
「うわあっ!普通のピアノとタッチと音が全然違う!」そう言って美穂の手書きの楽譜の中の一枚を演奏し始めた。
「東京ラブソディー」が流れる。初めての美穂の楽譜にしっかりと答えるように夏帆さんの演奏は続く。
「何だかピアノが歌っているみたい!」そう言う夏帆さんは2番に入ると本領発揮だ。1番は探りながらの演奏だったが2番の演奏はややアップテンポで弾き進めていく。
「うれしい。美穂の楽譜を弾いてもらえている。」美穂は満面の笑みで夏帆さんの調べを楽しんでいた。
そんな2人にお留守番をお願いし、車で駅へ向かう。
駅の改札口で信子を待つ。やがて電車の到着案内がホームから流れてくる。私はホームから上がってくるエスカレーターを見つめる。
電車から降りた大勢の人が次々とコンコースへ上がってくる。その中に信子の姿が。大きなスーツケースを転がしながら私を見つけて軽く手を振った。私も手を振る。小学生の頃から変わらない私たち2人の仕草だ。信子から重そうなスーツケースを奪うように受け取った。
「おかえり。大変だったね。」そう言って長い地方公演の労を労う。
「ただいま。美穂はどうだった?上手く弾けてた?」やはり美穂のコンクールが気になっていたようだ。
「それがさあ!!3位入賞!!総合で3位だよ!!」私がそう告げると信子は手放しで、周りも気にせず声を上げて喜んだ。
「それと、夏帆ちゃんが遊びに来てくれてるんだよ。だから夏帆ちゃんと美穂のお祝いをしようかと思ってさ。」私はそう言いながら車にスーツケースを詰め込んだ。そして何時ものスーパーへ向かった。
最初に何時ものお寿司屋さんに出前をお願いして、オードブルなどを仕入れた。一旦車に買い物袋を入れて2階の楽器店へ向かった。もちろん美穂の応援に出向いてくださったお礼を言うためだ。
店に入ると直ぐに優香さんが迎えてくれた。
「あら、今日はお疲れさまでした。美穂ちゃんは2連覇達成ですか?」
優香さんは確信したように私に尋ねる。そう、優香さんは仕事の関係で美穂の審査結果発表まで居れなかったのだ。
「お陰様で、小学生の部は2連覇出来ました。あと、3位に入賞しました。」私の報告に卒倒しそうな勢いで驚いてくれた。
「うわ!うわ!3位って・・・総合3位ですよね!すごい!」そう言いながら店の奥へ走って行った。「店長!店長!たいへん!たいへん!」そう言いながら店長さんを呼んできてくれた。
私は改めて応援のお礼を言った。
「3位ですか。必ず優勝すると思っていたのですが…。」
「店長、違います、違います!総合3位!」気が動転しているような優香さんの支離滅裂っぽい説明を店長さんは十分理解できていなかったようだ。
「えっ!総合の3位ですか!小学生で?」店長さんも改めて驚かれた。その横で信子と両手を取り合って喜ぶ優香さん。
「優香さん。今、家に可愛い後輩、夏帆さんが来てくれてるのよ。店長さんとご一緒にいらしてくださいな。」
信子と家へ戻り荷物を車から出して運んでいる間に信子はピアノルームへ。そこでは夏帆さんと美穂がそれぞれピアノを弾いて懐メロを歌っていた。信子はわざと隠れるように2人に近づいていく。
じゃん!じゃじゃじゃじゃあーん!いきなり美穂が「運命」を弾いた。美穂は信子の存在にいち早く気づいていたのだ。
一方の夏帆さんはいきなりの「運命」にびっくりして入口へ目をやった。
「あっ!信子お姉さん!お帰りなさい!お邪魔しています。」椅子から立ち上がり挨拶する夏帆さんに信子は大笑いだった。
「夏帆さん、入学おめでとう!」信子はそう言って夏帆さんの両手をしっかりと握った。
「あ、ありがとうございます。でも、今日は美穂ちゃんの素晴らしい演奏が聴けて。しかも総合3位なんですよ!」夏帆さんもまだ興奮冷めやらぬっという感じだった。
パーティーの準備も終わるころお寿司が届いた。ピアノルームから出てきた2人は余りのごちそうにびっくりだった。
「今日は、“夏帆さん”の入学、“美穂の3位入賞”、“信ちゃんの公演の大成功”のお祝い会です。かんぱーい!」私の音頭でパーティーが始まった。それぞれの話で盛り上がり始めた頃インターホンが鳴った。画面には優香さんが一人で映っていた。
信子が優香さんを迎えに行った。リビングに入ってきたのは優香さんだけだった。店長さんはまだ仕事があるのでということだった。
「お邪魔します。ご招待ありがとうございます。」そう言って優香さんは、夏帆さんと美穂にプレゼントを用意してくれていた。
「譜面カバーなんです。可愛いのと、結構使いやすいと思って。」そう言いながら夏帆さんに「初めまして。優香と言います。私も音大の卒業生で信子さんの後輩になります。よろしくね、夏帆さん。」と挨拶しながらプレゼントを渡す。
「あ。ありがとうございます。こちらこそよろしくお願いします。でも、何で私の名前を?」夏帆さんは不思議そうに尋ねた。
「先ほどお2人がいらしたときにお名前を言われていたのを聞いていたんです。」少し照れながらそう説明する優香さんに信子が感心していた。「さすが営業レディーね。」
美穂もプレゼントを頂き、しかも演奏のことを褒められてすごく嬉しそうだ。これを機にまたピアノ談義に花が咲いた。
「夏帆さん、今日はもう遅いからお泊りしていって。」信子が夏帆さんにそう勧めた。「寮長さんに電話入れとくから。」
夏帆さんは驚いたようだったがさすがに信子の提案を断れなかったようだ。もっともっと皆でピアノの話をしようという信子の配慮だ。
「明日は私も音大本部へ行く用事があるの。一緒に行きましょうね。」
「そう言えば、学校長さんにも会ってお礼を言ってくれよ。あと何か話があるみたいだったよ。」私が信子にそう言うと優香さんがひとり言を言うように呟いた。
「美穂ちゃんが欲しいってことですかね。」
「って、付属小学校へ転入ですか?」夏帆さんが驚いたように口を開いた。
「そうねえ。美穂にはちょっと早いかな。」信子が低めの声で話した。
「あのね、美穂もそう思う。今日優勝と2位のおねえさんに言われたの。まだ手が小さくて指も短いから音と音の繋がりにどうしても間が空いちゃうんだって。だから私はお姉さんたちみたいにエレガントに弾けないのだって分かったの。今はピアノ以外のいろんなことも勉強したいの。もっとお姉さんになってからそのことは考える。」美穂はしっかり信子の目を見つめて自分の考えを伝えた。
ぱちぱちぱち!優香さんと夏帆さんからの拍手があがった。
「そうだね。よおーく分かったわ。」信子は美穂の目を見て微笑んだ。
やはり美穂はしっかりと成長している。
翌月曜日、信子は夏帆さんと連れ立って音大へ向かった。音大では先ず寮長さんにご挨拶し夏帆さんを改めて紹介した。久しぶりの信子との対面ということもあり3人で話が弾んだそうだ。
それから自分の用事を済ませる前に、学校長さんにご挨拶に伺った。
受付を済ませて応接間で待つと学校長さんがいらっしゃった。
信子は昨日のコンサートのお礼を言った。
「いやいや。演奏がとても素晴らしく、本当に小学生か?とエントリーシートを何度も見直す審査員が何人もいらしたよ。技術的にも高度で、小学生の指であの音域までカバー出来るのか!という意見も飛び出した。更に極めつけはあの編曲だ。あれは信ちゃんの指導の下かな?いずれにしろ審査員全員が95点以上というとんでもない点数を美穂ちゃんは叩き出した。いやあ、信ちゃん、君の指導力は素晴らしい。2年ほど前に一生懸命「メヌエット」を弾いていた子とは思えないよ。」上機嫌で学校長さんは審査の経緯を話してくださった。
「お褒め頂きありがとうございます。ただ、私は編曲にはタッチしておりません。あれは老人ホームでの演奏で美穂が自分自身で身に付けたテクニックだと思います。今の美穂は楽譜を読むだけでなく編曲も出来るんです。私はそういう美穂の才能を今のうちに伸ばしてあげたいんです。」信子の先制パンチに苦笑いする学校長さん。
「そうか、わかった。でも、中学入学の際はもう一度考えてくれないかね。」
音大での用事を済ませた信子は次に美穂が通う小学校へ出向いた。
校長室で教頭先生と音楽の先生を含む3人の先生方と懇談した。
ピアノコンクールへの応援へのお礼と2連覇と3位入賞を改めて報告した。既に担任の井上先生から話は伝わっていたが、その際の美穂についてのお褒めを頂いた。美穂は登校すると直ぐ職員室の井上先生の元を訪れピアノコンクールへの応援と結果の報告をきちんと行ったそうだ。とても4年生とは思えないと他の先生方も栄誉をたたえて拍手しながらそう思われたそうだ。
「私は音楽のことは良く分からないのだが、美穂ちゃんはピアノと仲良しだということが良く分かりました。だからあの時、捨てられたも同然のピアノを見つけて泣き出したのですね。」そう言って校長先生は感慨深げだった。
次の日曜日、美穂と私は老人ホームを応援のお礼と3位入賞の報告をするために訪れた。ホーム長さんと職員の皆様の歓迎を受けリクリエーションの時間を借りてご報告することとなった。ふと何時ものホールへ向かう途中の掲示板に美穂が書いた手紙が張ってあるのを見つけた。その周りにはホームの皆さんが書かれた小さなメッセージがたくさん張られていた。それは遠目には花びらのように見えた。美穂と近づいてメッセージを1枚1枚読んでいく。
「うれしい。美穂のことをこんなに思っていてくださって・・・。」美穂は目に涙を浮かべて次々にメッセージを読んでいた。
「あら、美穂ちゃんとお父様、こんにちわ。」事務のお姉さんだ。美穂は涙を拭いながら明るく挨拶した。
「そのメッセージ、皆さんが一生懸命書かれたんですよ。難しい漢字が多くて字も震えていたりして美穂ちゃんにはちょっと読み難いかも。」そう言いながらメッセージを指差した。
「いいえ。読み難いだなんて。丁寧に書いてくださって、嬉しいです。」美穂は微笑みながら答えた。
にこにこ顔の事務のお姉さんの案内で1階のホールへ。美穂が来ることを館内放送で案内があったこともありお年寄りの皆さんで大賑わいだ。
私たちがホールに到着したところでホーム長さんのお話が始まる。
そこで美穂のコンクール、小学生の部2連覇と3位入賞の報告がなされた。大ホールは歓声と拍手に包まれた。
「美穂。自分でご挨拶できるか?」この流れでは美穂さんどうぞとなりそうだったからだ。
「うん、大丈夫。私が自分でお話しする。」美穂は、少し緊張はしている様子だったがしっかりとした口調で私に答えてくれた。
「皆さんこんにちは。美穂です。先週はピアノコンクールに出場しました。その際は暖かい応援を頂きありがとうございました。とても嬉しく、心強かったです。ステージで皆様のお顔を見たとき、安心して何時も通りの演奏が出来ました。本当にありがとうございました。おかげさまで小学生の部で優勝でき、連続の優勝となりました。さらに、総合で3位に入賞出来ました。皆様の応援のおかげだと感謝しています。本当にありがとうございました。」そう言って深々とお辞儀をした。少し離れて立っていた私も美穂に合わせてお辞儀をした。こうして美穂のスピーチは終わった。
「お父さん。美穂ちゃんにスピーチを教えられたのですか?とても4年生とは思えなくって。」隣で一緒に立っていた事務のお姉さんに尋ねられたが、実は私も立派な美穂のスピーチにびっくりしていた。事務のお姉さんと2人でそのことを戻ってきた美穂に尋ねてみた。
「えっ!だって音大のおじちゃんが何時も言っているのを聞いているからだよ。」美穂は笑ってそう答えた。
「美穂ちゃん、急で申し訳ないけど、皆さんのために1曲弾いてもらえないかなあ。」本当に申し訳なさそうにホーム長さんからお願いをされた。「はい。」美穂はにっこりと頷いた。
美穂がピアノの傍に歩み寄り、そっと手を添えて一礼する。もう皆さんご存じのようだ。拍手が巻き起こる。美穂の演奏が始まるとホールが静まりかえる。その中を美穂が奏でるピアノの旋律が流れる。「田園」の最初の部分だ。普通の何処にでもある何時ものピアノだが、なんだか音色が違うように感じる。そのことをそっと事務のお姉さんに伝えたところこんな返事が返ってきた。
「実はですね、調律をお願いして“プロ仕様”に変えてもらったんです。美穂ちゃんが弾き易いように。」そう言って微笑まれた。
こんなに美穂は大事に思われているのか!私は大変嬉しかったと同時に光栄だった。
演奏が終わるととても老人ホームとは思えない拍手と歓声が起こった。初めて聴く美穂のクラッシックへの驚きと感動からだろうか。美穂は演奏を終え戻ってきた。そして真っ先にホーム長さんと事務のお姉さんに頭を下げた。お2人ともその理由が分からずびっくりされていた。
「ピアノさんの調律!ありがとうございます!ピアノさんも喜んでいます。」そう言ってにっこり微笑んだ。
そうこうしているうちに美穂はホームの方々に取り囲まれていた。
口々に演奏のお礼とコンクールのお祝いのお言葉を頂いた。
「美穂ちゃん!あなたって子は!」特に学校長さんのお母さまからは熱いお言葉を頂いた。そして、無理して会場に行って良かったと大喜びだった。
「美穂ちゃん、お父さん。ぜひ定期的に演奏会を催していただけないでしょうか?」私はいつの間にかプロデューサーに見られているようだった。この件は信子と相談することにした。が、きっと信子は賛成してくれるだろう。
そんな折、夜遅く帰宅した私に信子が食後のお茶を入れながら話してくれた。
「あのね。美穂がね、“ラブレター”を貰って来たの。中は見てないんだけど、かなり好意を持ってくれているみたいよ。」少し複雑な表情でお茶を入れたお湯吞みを見つめて話してくれた。
「そうかあ。美穂もそういうお年頃になったのかあ。そうか、俺が信ちゃんに初めて声をかけたのも4年生の春だったなあ。何時も走って帰る女の子に声をかけたくってね。」熱いお茶をすすりながら昔のことを想い出していた。
「うふっ、そうだったわね。なかなかお友達も出来なくて、習い事に追いかけられていた頃だったからすごく嬉しかったなあ。」信子も宙を眺めながら懐かしい思い出を昨日のことのように感じていた。
「お断りすることもないんじゃあないかな。美穂がお気に召さなければ別だけど。ただ、美穂の生活リズムが乱れるのが心配だな。」
「うん、私もそう思う。でも美穂はしっかり者だし、自分のペースを乱されるのは嫌だと思うの。美穂に任せましょうよ。」信子のその言葉に私も頷いた。
「でも、美穂はその子のことをどれくらい知っているんだろう?」
「どうも、同じクラスの子みたい。美穂曰く、学級委員長だって。積極性があって統率力もあるみたい。昔の誰かさんとそっくりなのよ!」そう言って信子は私を見つめた。
その翌日、信子がピアノルームで練習をしているとチャイムが鳴ってランプが点灯した。インターホンには美穂と男の子が映っていた。
信子は高まる胸の鼓動を覚えた。あの時と一緒だ。初めて会った時に私を自分の家に招いてくれたあの時だ。自分が母親になって初めて知るあの時の母の思い。信子は自分を落ち着かせようとしながらも急いで玄関へ向かった。
「ただいま。ねえママ,お友達を連れてきちゃったの。」あの時と同じ言葉を娘の美穂が発したのだ。
「あら!まあ!男の子!」期せずして信子も当時の自分の母と同じセリフを口にしていた。
「こんにちは。初めまして。優太と言います。」はきはきとした礼儀正しい男の子だ。
信子は二人を迎え入れリビングに通した。美穂はどこかぎこちなく、何時もの元気が無かった。信子のリアクションが気になっているのだろう。
「ねえ、優太くん。オレンジジュースでいいかしら?」微笑みながら信子が台所から顔を出して尋ねる。
「あっ、はい。いただきます!」優太君の元気な声が返ってきた。
二人にオレンジジュースを出しながら信子は美穂にしばらくピアノルームで練習の仕上げをする旨伝えリビングを離れた。
「お母さんって何の練習するの?」オレンジジュースを飲みながら優太君は美穂に尋ねた。
「うちのママはね。プロのピアニストなの。次の公演に向けて練習しているのよ。」美穂はそう答えてピアノルームを見やった。
「そうか、それで美穂ちゃんはピアノがすごく上手なんだね。」納得して何度も頷く優太君だった。
「でも、ピアノの音がしないね。」不思議そうに美穂が見やったピアノルームの方を見る優太君。
「うん。あのピアノルームは防音してあるから音は漏れてこないよ。後で案内してあげる。」そう言いながらランドセルから教科書とプリントを出した。
「先に宿題済ませちゃおうよ。」美穂の提案に優太君も「うん。」と答えた。
30分ほどして信子がピアノルームから出てきた。
「あら、宿題やってるのね。二人とも感心ね。」そう言いながら二人の宿題のプリントを覗き込む。
「わあっ!井上先生みたい!」二人が声を揃えて笑う。
「うふふ。間違っているところを見つけちゃうわよ。」笑いながら二人のプリントを見比べる。あっ!2枚とも同じ回答だ。この子たちも気が合うのかもと信子は思った。
「ママ、練習終わったの?」美穂が信子に尋ねる。
「ええ、使って大丈夫だよ、美穂。」信子が飲み終えたグラスを片付けながら何時ものように答える。
「優太くん。ピアノルームにいこうよ。」美穂が優太君を誘った。
初めてのピアノルームに優太君はびっくりだった。皆、最初に驚くのが古いグランドピアノの存在だ。美穂はいつものようにグランドピアノを弾き始める。「メヌエット」だ。学校で聴いているピアノの音との違いに驚く優太君。演奏が終わると今度は自分のピアノへ。
「私のピアノさんなの。重厚さはないけど軽く軽快な音を出してくれるのよ。」そう言いながらアップテンポの「トルコ行進曲」を撫でる。
「うわあ!すごーい!とても体育倉庫で眠っていたピアノとは思えない!」優太君はそう言って美穂の演奏に聴き入っていた。
「あっ!ヴァイオリンがある!」楽器ケースに収められている美穂の小さなヴァイオリンを見つけて歩み寄る優太君。
「大きい方はママのだよ。小さい方は私のだから触っても大丈夫だよ。えっ?優太くん、ヴァイオリン弾けるの?」美穂が驚いて尋ねた。
「うん、今も習っているんだよ。美穂ちゃんもヴァイオリンが弾けるんだあ。」そう言ってヴァイオリンを手に取った。
「ちょっとこの曲、弾いてみても良いかな。」すぐに上手な演奏が始まった。
「すごーい!音が濁らない!上手なんだね。」美穂はピアノ椅子に座ったままヴァイオリンを軽快に弾く優太君をずっと見つめていた。
優太君が弾いてくれているのは「小島通いの郵便船」だ。
「優太くんも楽譜が読めるんだね。」美穂は身体でリズムを取りながらヴァイオリンの調べに聴き入っていた。
「あっという間に楽譜を見ただけで、とても上手に弾けるんだね。私はヴァイオリンが苦手なんだよ。」美穂が残念そうに話すと優太君がこう言った。
「美穂ちゃん、始めたばかりって感じだね。まだ弓と弦が馴染み切っていないもの。もう少ししてくると嫌な雑音が出にくくなるよ。俺、3歳から習っているから分かるんだよ。」丁寧に美穂のヴァイオリンをケースに仕舞いながら優しく解説してくれた。
「ねえ、一緒に「G線上のアリア」を弾いてみない?」美穂の提案に優太君も快く頷いてくれた。
「ママに聴いてもらってもいいかなあ?」優太君の同意を得て、美穂は信子を呼びに行った。
「まあ!優太くんはヴァイオリンを?」そう言いながら2人でピアノルームへ。少し恥ずかしそうにはにかむ優太君だった。
信子が観客で、二人の演奏が始まる。事前練習無しのぶっつけ本番だった。だが、二人の息はぴったりだった。信子は嬉しそうに二人の演奏を楽しんだ。
演奏が終わると信子は椅子から立ち上がり二人の演奏者に拍手を送った。
「二人とも息が合っていて上手に演奏出来てたわよ。優太くんはヴァイオリンを長く習っているようね。」信子は椅子に座り直しながら優太君に尋ねた。
「はい。3歳の頃から習っています。でも、美穂ちゃんのピアノはすごく上手いので。」少し照れながらそう答える優太君。
「いいえ。貴方だって大変お上手だわ。第一、音が濁らないもの。素敵なヴァイオリンの音が出せているわ。」信子が答える。
「わあっ!ありがとうございます!母も喜びます!」そう言って微笑む優太君。
「お母さまに習っていらっしゃるのね。」
「はい!母は楽団のヴァイオリニストを務めています。」
「名字からすると、音大の?」驚く信子。
「えっ?ご存じなんですか!」驚く優太君。
「私も同じ楽団でピアノを弾いているの。お母さまに今度正式にご挨拶しなくっちゃあね。」同僚の息子さんと分かり安心する信子。
「ということは、クリスマスコンサートの後で「運命」をピアノで弾いたって子は・・・美穂ちゃん?」
母親同士がプロの演奏者、同じ楽団所属ということもあり優太君と美穂の交際が始まった。
優太君は習い事が無い日の学校帰りにわが家を訪れるようになった。
自分のヴァイオリンと楽譜を持参し、美穂とのセッションを楽しんでいた。
そんなある日、優太君が美穂を誘ってくれた。
そこは住宅地から離れた運動公園の外れだった。時間があれば一人でヴァイオリンの練習をしているというのだ。美穂も自分のヴァイオリンを持って待ち合わせの駅前に出向いた。
二人で運動公園までの遊歩道を歩く。歩いていると、ジョギングしたり、サイクリングをしている方々とすれ違う。その都度声をかけたりかけられたりしながら目的地へ。そこでは様々な楽器の音が流れていた。
トランペットなどの金管楽器を練習する人たちの格好の場所だった。
二人でベンチに座りヴァイオリンを弾く。優太君は初心者の美穂に優しく教えてくれた。弓の動かし方、弦の押さえ方など演奏のコツを的確に教えてくれた。美穂は一生懸命ヴァイオリンを弾いて練習に励んだ。そうしている間に17時となった。自転車に乗った警備員さんが公園が閉まる事を知らせて回る。
「おっ!優太君!今日は可愛いお嬢さんと一緒だね。もう閉園だよ。」笑いながら教えてくれる。もうお互い顔見知りなのだ。
公園のゲートを出るといろいろな楽器を手にした人が歩いていく。
「わあーっ。みんな色んな楽器を持ってる。」美穂にとっては新鮮な光景だった。途中の休憩所では数人のお兄さんとお姉さんたちが楽しそうに会話を弾ませていた。
「こんにちは。」優太君が声をかける。美穂も一緒に声をかける。
「やあ、優太君こんにちは。」口々に挨拶が返ってくる。
「あれ?今日はガールフレンドと一緒かい?」皆、美穂を見て微笑んだ。
「はい。美穂と言います。よろしくお願いします。」物怖じすることもなく明るく話す美穂を皆さんは直ぐに気に入ってくださりあっという間に打ち解けた。皆さんは中学、高校生の集まりで部活が無い日はここで練習をしているとのことだった。
「えっ!美穂ちゃん、ピアノを弾いているの?」話の途中で美穂がヴァイオリンは初心者だけどピアノはプロ並みだと言う優太君の発言に対してのお姉さんたちの反応だった。
「ひょっとして、オーケストラ出来るんじゃあないか?」一同そんな話題で再び盛り上がった。
数人の方々と一緒に駅前まで戻ってきた。
「うーん、思い出せない。」一人のお姉さんが考え込んでいた。
「えっ?何をですか?」優太君がお姉さんに尋ねた。
「美穂ちゃん、だよね。何処かで聞いたことがある…。」立ち止まってしきりに考え込むお姉さん。
「あっ!ほら!うちのクラスの遥香が言っていた!」もう一人のお姉さんが思い出したようだ。
「ああーっ!音大のピアノコンクールの小学生!」2人で顔を見合わせ、大きな声を上げて飛び跳ねた。
「優太君、人が悪いわあ!あの美穂ちゃんだったのね。まさかこんな近くの人だったなんて。」お姉さん2人は大盛り上がりだ。
「美穂ちゃんって、そんな有名人なのかい?」一緒に居たお兄さんたちはピアノの関してはかなり疎いようだ。
「そう!音大のピアノコンクールで小学生ながら入賞した美穂ちゃんだよ、ね。」お姉さん2人は確信したかのように美穂に尋ねてきた。
「は、はい。そうです。」少しはにかみながら小さな声で答える美穂。
一同、美穂を中心に明るい話声がしばらく続いた。
皆と分かれて優太君と歩き出す。
「バレちゃったね。」優太君が微笑みながら美穂を気遣う。
「ううん。ちっとも。逆にごめんね。気を使ってもらって。」美穂が明るく笑う。夕暮れが二人を包み隠していく。周りは、家路を急ぐ人たちが慌ただしく二人を追い越していく。
木陰に差し掛かった時だった。優太君が美穂の手を握り立ち止まった。
「今日は練習に付き合ってくれてありがとう。」そう言って美穂を抱き寄せた。美穂は何も抵抗しなかった。
優太君の唇が美穂の唇と重なった。目を閉じて優太君の気持ちに応える美穂。まさに二人の恋の始まりだった。
「ねえ、最近美穂って変わってきたよね。」信子の目は千里眼だった。
そんな中、優太君と美穂は高校のお姉さんたちから入学祭への出演依頼を受けた。信子は是非行ってみたらと後押ししてくれた。
当日、優太君が迎えに来てくれた。二人で手を繋いで駅まで遊歩道を歩いていく。美穂は初めての一人での外出だ。信子は美穂にお小遣いを渡した。そう、美穂は自分でお金を払うという経験がなかった。いつも信子か私が傍にいたからだ。切符の買い方から自販機の使い方まで教えていた。
駅に着くと最初の鬼門、切符の券売機だ。ふっと一息入れておもむろに千円札を入れる。するすると千円札を飲み込む券売機に驚く美穂。そんな美穂を傍で優しく見守る優太君。無事に切符を購入してジャラジャラと出てくる釣銭に再び驚く美穂。そんな美穂を周りの人たちは微笑んで見つめていた。
ホームへ下りると丁度電車がやってきた。二人で手を繋いで乗り込む。土曜日ということもあり車内は比較的空いていた。開いている席に二人で並んで座る。小学生の仲良しカップルに居合わせたお客さんからの温かい視線が注がれる。
目的の駅に着き改札を出る。
「こんにちは。」お姉さんたちのお出迎えだ。驚く二人の手を引いて駅前のバス乗り場へ。そこには高校のスクールバスが。皆で乗り込むのだが一人美穂だけが乗り口で立ち止まっている。
「お嬢ちゃん。お金ならいらないよ。」運転手さんが優しく教えてくれた。にっこりと笑顔で返す美穂。
「美穂ちゃん、何やってるの。こっちこっち。」お姉さんの一人が笑いながら呼びに来てくれた。
バスに揺られながらお姉さんたちと賑やかな会話が繰り広げられた。運転手さんにお礼を言ってバスを降りると実行委員の方々が出迎えてくれた。挨拶もそこそこに控室へ。
「美穂ちゃん、お久しぶり!」声をかけてくださる人が。
「ああーっ!遥香お姉さん!」美穂は驚きの声をあげる。そう!ピアノコンクールで総合2位のあのお姉さんだった。
「お久しぶりです。遥香お姉さんはこちらの学校だったんですね。」そう言いながら美穂は優太君を紹介した。
「あらあ!いいカップルだこと!」照れる優太君を周りのお姉さんたちがからかう。お姉さんたちのパワーには流石の二人もたじたじだった。
そうこうしている間に実行委員のお姉さんから挨拶と公演の予定が。
どうやらこの高校は名門女子高校のようだ。優太君と美穂は講堂でヴァイオリンとピアノの演奏を披露する予定だ。遥香さんと実行委員、優太君の4人で講堂にあるグランドピアノを見に行く。
「グランドピアノだけど大丈夫だよね?」実行委員のお姉さんが小学生の美穂を見ながら気遣ってくれる。
「やだあ!先輩!コンクール入賞者ですよ、美穂ちゃんは。」遥香さんはそう言って実行委員のお姉さんを小突いて見せた。
「あと、優太君はここの立ち位置、バリが張ってあるからここまで真っすぐ歩いて来て・・・。」打ち合わせが続く。
「優太君と美穂ちゃんの小学生コンビのセッションかあ。楽しみだなあ。で、何弾くの?」美穂に尋ねる遥香さん。
「うふっ!それは秘密です!」美穂はにっこりと微笑んだ。
いよいよ遥香さんの所属する音楽部の順番がやってきた。
最初は遥香さんの演奏。その次が美穂の演奏と優太君とのセッションだ。
遥香さんの「英雄ポロネーゼ」が流れ始めると講堂が静まり返る。
優雅な遥香さんの調べに身を震わせる美穂だった。自分が今一番身に着けたい演奏、そして憧れの演奏だった。
そんな美穂を気遣う優太君。にっこりと頷く美穂。そんな二人を温かく見守ってくださる実行委員の皆さん。
いよいよ美穂の出番だ。美穂を紹介するアナウンスが流れると講堂には驚く声が上がる。
ピアノの傍に立ち片手を添えて一礼する。優太君にとっては初めての美穂の晴れ姿だ。普段着の小学生の登場に新鮮味を感じるのだろうか「かわいい!」と声援が飛ぶ。
美穂の「運命」の演奏が始まる。
「えっ!これを弾くっていうの?」舞台袖に引き上げた遥香さんから驚きの声が上がる。
美穂の力強いメロディーが講堂に流れていく。クリスマス会の後の演奏のときと一緒だった。講堂の入り口からお客さんが次々と吸い寄せられるように入ってくる。
「誰が弾いているの?」そして弾いているのが小学生だと知って驚くのだった。
「このアレンジを利かせた演奏!美穂ちゃんって天才だわ!」遥香さんはそう確信した。
講堂内の観客の皆さんも同様だった。小学生イクオール学芸会のイメージを持たれた方が大多数だったのだろう。皆、美穂の演奏に聴き入ってくださっていた。
「すごい!美穂ちゃんすごすぎる!」ヴァイオリンを手に舞台袖でスタンバイしている優太君に勇気を与える演奏だ。
美穂の演奏が終わりに差し掛かる頃、優太君が舞台中央へ。
すかさず美穂の2曲目へと演奏が繋がる。
「えっ!これも美穂ちゃんの技?」再び遥香さんの驚きの声が。
周りの実行委員のお姉さん方も思わず立ちすくんでいる。
優太君のヴァイオリンも加わり「田園」の演奏に入る。すると美穂の曲調が変わった。静かにヴァイオリンの演奏に沿って音を奏で始めたのだ。優太君の逞しいヴァイオリンの演奏に身を寄せるかのようなピアノの旋律。これが仲睦まじい小学生コンビの真骨頂だ。
先生方をはじめ多くの方々を包み込んでしまう二人の演奏に遥香さんは感動していた。まさか、小学生の二人にこんな大事なことを教えてもらえるなんて。思わず泣き崩れる遥香さんを傍にいた実行委員長が支える。「遥香ちゃん、大丈夫?」
「はい。私に足りないものが今見つかりました!」遥香さんは涙を拭きながら嬉しそうに答えた。
演奏が終わると嵐のような拍手と歓声が巻き起こった。
二人は手を繋いで、美穂はグランドピアノにもう片方の手を添えて深くお辞儀をする。舞台袖の皆さんからも温かい拍手を頂いた。
「二人ともありがとう!」そう言いながら遥香さんは二人の両手を交互に握って喜びを表してくれた。
「あーっ!緊張した!」優太君の演奏後に最初に飛び出した言葉だ。
何と、こんな大勢のお客様の前で演奏するのは初めてだという。
一方の美穂はにこにこと笑顔で満足そうだった。
「優太君、さすが男の子ね。演奏が力強かったわ。」遥香さんから褒められて優太君は照れ臭そうだった。
「美穂ちゃんがピアノの音をセーブしてくれたのでヴァイオリンの音が上手く活かせました。」そう言いながら美穂を見つめる優太君。
「やだ、ピアノのペースに合わせてくれたのは優太くんだよ。」そう言って美穂も優太君を見つめ返した。
「素晴らしい演奏でしたね。」音楽部の顧問の先生が二人の演奏を褒めてくださった。「遥香ちゃんから美穂ちゃんの話は聞いていたけど、正直、遥香ちゃんの買い被りかもしれないと思っていの。でも、3位入賞の実力発揮ね。ほんと素晴らしいわ。しかも優太君のヴァイオリンも美穂ちゃんのピアノに負けないくらい音がナチュラルだったわ。凄いコンビね。」
「せ、先生!アンコールが!」実行委員長のお姉さんが楽屋に走り込んできた。その場に居合わせた皆が大喜びだった。
「アンコールだけど二人とも大丈夫かな?」遥香さんが心配そうに尋ねた。
優太君と美穂は小声で短く話をした後元気に答えた。
「はい。大丈夫です。」そう言いながら二人で手を繋いで舞台へ戻った。わあああーっ!という歓声が上がる。自然な二人の仲睦まじさが講堂内の皆さんに伝わったのだろう。下品にヤジる人など一人もいなかった。
やがて館内は静まり返った。
美穂のピアノが歌い出す。会場が「えええーっ!」と驚いた。
なんとリクエストに答えての曲は懐メロだった。
「影を慕いて」を美穂のピアノに合わせて優太君のヴァイオリンでのガイドメロディーの演奏だ。
「何で小学生の二人がこの曲を?」会場に居合わせた年配の学園長さんが口を手で覆い驚いていた。他の年配の先生方もやはり驚きを隠せなかった、が直ぐに笑顔になって聴き入ってくださった。
生徒さんたちは何という曲かあまり知っている人はいない様だった、が、余りの旋律の美しさにすっかり魅了され、懐メロと分かる人はほとんどいなかった。
そんな中二人の演奏は続く。小学生らしい“果物”シリーズだ。
「ヤシの実」「リンゴの唄」「みかんの花咲く丘」そして最後の曲は「東京ラブソディー」だ。
「何て器用な子たちなの!」遥香さんは二人の懐メロを聞いて驚いて目をぱちくりさせていた。顧問の先生も同様だった。
演奏を終えて舞台袖に戻った二人を皆が取り囲んだ。
「素晴らしいわ!二人とも!クラッシックだけじゃあないのね!」
大騒ぎだった。
「ごめんなさい。学校で懐メロ弾いちゃって。」美穂が皆さんにお詫びを言った。
「いいえ。音楽になにが良い悪いはないわ。特に切れ目のない5曲連続の演奏はお見事だったわよ。二人ともよく練習しているのね。」
顧問の先生が拍手しながら褒めてくださった。
「信じられない!小学生なのに!エンターティナー過ぎるわ!あなたたち!」遥香さんは小躍りしながら喜んでくれた。館内は未だどよめいていた。
「編曲も出来るのねあなた達。」感心する顧問の先生。
こうして優太君と美穂の初めてのセッションは成功の裡に終わった。
「遥香!大変!大変!入部希望者が!」ゆっくり皆さんとお話しする暇もなく遥香さんは入部受付の応援のために名残惜しそうに走って行った。
「ちょっと良いかな?」教頭先生が実行委員長に声をかけた。頷く実行委員長のお姉さん。
「お二人に学園長室へ寄って欲しいとのことよ。」
実行委員長のお姉さんの案内で学園長室へ向かう。途中、すれ違うお姉さんたちから声をかけられる。優太君は緊張の面持ちで気もそぞろだ。「大丈夫だよ。話してみればきっと優しいおじさんだよ。」優太君にそう言って笑い飛ばす美穂。優太君を気遣う美穂だった。
「失礼します。」実行委員長のお姉さんに続いて優太君、美穂の順に部屋へ入る。部屋では学園長さんと教頭先生のお二人が出迎えてくださった。
「いやあ!今日は素晴らしい演奏をありがとう!」口火を切ったのは教頭先生だ。
「うん、うん。とても4年生とは思えない見事な演奏でしたよ。聞いたところでは美穂さんはコンクール3位入賞だそうだね。おめでとう。わが校の遥香君から報告があった時は正直驚いたよ。でも、先ほどのお二人の演奏を聴いた時、本物だと思った。嘘ではなかった。教育者ともあろう者が一瞬とは言え人を疑ってしまった。許してください。」
軽く頭を下げる学園長さんに美穂が答えた。
「いいえ、学園長さん。謝られることはありません。私たち何処にでもいる小学4年生ですから。」にこにこと話す美穂を横目で見ながら優太君も口を開く。
「私たち音楽が大好きなだけなんです。」
そんな二人の話ににこにこ顔で聞き入ってくださる学園長さんと教頭先生。二人の音楽歴、練習方法などの話題で笑顔が絶えない場となった。その一方で実行委員長のお姉さんは話の内容を速記でノートに書き記していく。美穂は初めて見る速記に興味津々だった。『まだまだ自分の知らない世界が沢山ある。』美穂はそう思った。
丁重にお礼を述べて学園長室を出て音楽部の部室へ向かう。大勢の生徒さんたちで大賑わいだ。遥香さんへの挨拶は諦めて実行委員さんにスクールバスの乗り場まで送って貰う。
実行委員長のお姉さんにお礼を言って二人でバスに乗り込む。
動き出すバスの中からお互いに手を振って高校を後にした。
「ただいまー。」「おじゃましまーす。」二人が帰ってきた。
信子は玄関で二人を待ち構えていた。特に、初めての二人での演奏、初めての美穂の外出とそれだけで何時もの練習も手付かずでいたのだ。優太君が一緒に付いていてくれるとはいえ、手に負えていなかったらどうしようという一抹の不安を抱えていたからだ。
「おかえりなさい、二人とも。」信子は安堵の表情で二人を迎え入れた。応接間のソファーに座り込む二人に何時もの冷たいオレンジジュースを出す。二人は安心したのか一気に飲み干す勢いで喉を鳴らす。
「上手くいったようね。」信子はにっこりと微笑む。
「はい。間違えることなく演奏が出来ました。ね。」優太君はそう言うと美穂の方へ顔を向ける。
「うん。何時も通りに演奏出来たね。だって、放課後ずっと家とかで練習していたからね。」美穂もそう言って報告する。
「あとね、行った先の高校って遥香さん、総合2位のお姉さんの学校だったんだよ。いきなり声をかけられてびっくりだった。」
「あら、そうなの。と言うことはそこの高校って音楽に力入れているんじゃないかしら。となると、皆さん耳が肥えているんじゃないかな。」優太君と美穂の演奏が気になる信子だった。
「ところで優太くん、今日はお母さんは?」家に帰らず真っ先にうちに来てくれているのは有難かったが、優太君の母親が自分と同じように心配して待っているのではないかと思ったからだ。
「はい。母でしたら、今日は音合わせがあると言って音大へ行っています。」
「あらそうだったの。ヴァイオリンのパートは人が多いから大変だわね。」信子は頷きながらお茶を口に運んだ。
「だから、俺、鍵っ子なんです。」そう言って笑う優太君。
「まあ。そうなの。うちのパパと一緒だね。」信子は笑いながら美穂を見た。「美穂、自分で切符は買えた?」
「うん。大丈夫だったよ。ね、優太くん。」そう言う美穂に
「ま、まあね。出てきた釣銭の小銭の音にびっくりしてたけど。」そう言って笑う優太君。
「ええーっ。そんなに驚いてないよおっ!」と可愛く口を尖らせる美穂だった。
「そうだ。明日の練習しようっと。優太くん、ちょっと付き合って。」そう言って二人はピアノルームへ移動した。
「あとでおやつ用意そて持っていくわね。」そう声をかける信子だった。
「明日は老人ホームでの演奏だったね。俺も見学に行ってもいいかなあ?」椅子に腰掛けながら優太君が言った。
「うん。大丈夫だよ。皆さんに紹介するよ。」にっこりと答える美穂。
そんな折り、信子がクッキーを持って入ってきた。一緒に紙パックのミックスジュースがセットになっている。
「簡単な組み合わせでごめんなさい。この部屋はピアノがあるから乾いたお菓子と飲み物はパック入りとしているのよ。」
「湿度の管理もされているんですね。」優太君はクッキーに手を伸ばしながら信子に言った。
「そうなの。ピアノだけじゃあなくてヴァイオリンもそうだよね。」
「あっ!それでガラスの楽器ケースなんだ。」優太君は自宅の楽器ケースを何気なく使っていたようだ。
「自然に躾けられていたのね。3歳くらいじゃあ理屈は分からないものね。」信子は明るく笑う。
「そうだったのね。だから皆、温かい飲み物は飲まないんだね。湯気が出るから。」美穂もなるほどと理解してくれたようだ。
「そう言えば、今日は二人で何弾いたの?」さりげなく気になっていたことを聞いてみる信子。
「うふっ、クリスマスコンサートの後に弾いた「運命」だよ。ね。」
首を傾げながら優太君を見つめる美穂。
「はい。僕は美穂ちゃんに負けない位「田園」を練習しました。」優太君も美穂を見つめながら笑う。
「あらあ!じゃあ、二人の息ぴったりの「田園」を是非聴かせて頂戴な。」信子のリクエストで急遽演奏会となった。
美穂の前奏から始まり優太君のヴァイオリンが続く。信子は目を閉じて二つの音に聴き入っている。『あっ!何時もの編曲と違う!美穂は優太君のヴァイオリンに合わせて楽譜を手直ししている!』
そして、それに答えるかのような優太君のダイナミックな演奏!
テンポも美穂の早めの演奏にぴったりと合わせている。当然早い弓捌きが要求される。それを見事にこなしている!
美穂だけではなかった。優太君も大きく進歩していた。
まさしく“相乗効果”だと信子は確信した。そして思わず涙が溢れてきた。嬉しくて仕方なかった。
やがて演奏が終わった。
「やだ、ママ。何で泣いてるの?」
「お、お母さんどうしたんですか?」
心配した二人が駆け寄ってきた。
「ごめんね、泣いちゃって。ありがとう、心配してくれて。余りにも二人の演奏が素晴らしかったから。二人とも大きくレベルアップしていると思ったら嬉しくって。」そう言いながら涙を拭う信子。
「優太くん。明日はヴァイオリンを持っていって頂戴ね。」
翌日曜日。今日は美穂の老人ホームでの定期演奏会の初日だ。
信子は用事があるということで美穂と車で駅まで向かう。そう、優太君と待ち合わせをしているからだ。
「おはようございます。」元気よく優太君が乗り込んできた。
「お母さんは?今日はお休み?」私が尋ねると「何か用事があると言ってました。」優太君はそう言いながら少し緊張気味だ。
「やだ。どうしたのよ。」隣に座っている美穂が優太君の顔を覗き込む。この二人、まるで新婚さんのようだ。
やがて目的の老人ホームに着く。
何時もの通り3人で受付をするとこれまた何時もの事務のお姉さんの案内で控室へ。優太君はますます緊張が高まってきたようだ。
「優太くん。何時もの公園で弾いているつもりで大丈夫だから。」心配した美穂が気遣って笑ってみせる。
「うん、わかった。」優太君はだいぶ落ち着いてきたようだ。
気のせいかホーム内が何時もの日曜日より賑やかな気がした。
演奏会は11時からだ。まだ時間はある。優太君と美穂は演目の打ち合わせをしている。二人とも真剣だ。小学生でもあんなに真剣になれるのか!というくらいだ。「昨日みたいにバリとかないから・・・。」
と打ち合わせの声が漏れ聞こえてくる。昨日の高校ではどこで演奏したのだろう?しかし、二人の服装は見事だ。真っ白なシャツに黒いズボンでまるで双子ちゃんだ。そうこうしている間に開演時間となった。最初は美穂の懐メロ演奏から入ると言っていた。
「皆様こんにちは。美穂です。」マイクを持って登場の美穂に歓声が飛び拍手が起る。入居者の皆さんだけじゃあない!その他のお客様も詰めかけて・・・え、え、え。信子と優太君のお母さん。その横には学校長さんと優香さん、夏帆さんまで。その一方で美穂は少し照れたように話を進めていく。
「今日は皆様、お越しいただきありがとうございます。では、今日はこのメドレーで5曲お送りします。」美穂の見事な司会ぶりにホールは大盛り上がりだ。何時もの様にピアノに手を添えて一礼する。
1曲目の演奏が始まる。「誰か故郷を想わざる」だ。
その時観客に高校生の集団が加わった。遥香さんたちだ。直ぐに夏帆さんが気付き手招きしてくれた。
2曲目の「ヤシの実」へと音を繋いでスムーズに入っていく。
3曲目は「リンゴの唄」、4曲目は「みかんの花咲く丘」そして5曲目は「旅の夜風」だ。懐かしい歌、思い出の歌に涙する方もいらした。5曲目を終えると美穂が立ち上がりマイクを取った。
「5曲お送りしました。次は、紹介したい方がいます。私のパートナー、優太くんです。あっ!ママ!」驚く美穂。信子と優太君のお母さんがステージに向かって手を振る。そんな中、優太君がヴァイオリンを持って登場した。
「今日一番の見所です。学校長さん、優太ママ。」信子が2人に囁く。
「ごめんなさい!びっくりしちゃって!」そんな美穂の仕草に“かわいいーっ!”と黄色い声援が飛ぶ。高校のお姉さんたちだ。
再び驚く美穂。しかし気を持ち直し進行を続けていく。
「それでは私たち二人による「運命」です。」会場がざわつく。
美穂の前奏が始まる。途端に静まるホール。自販機の待機している音だけがかすかに聞こえる。その静けさの中に優太君の力強いヴァイオリンの音色が響く。「まさか!ヴァイオリンとピアノだけだぞ!」驚嘆の声が漏れる。メインの音は優太君のヴァイオリンが、その他の楽器の部分はすべて美穂がピアノでカバーして弾く。ただの音合わせではない。もう一つの楽器の様に聴こえてくる。
「何てことだ!嘘だ!小学生二人がこの境地に至るなんて!」学校長は信じられなかった。優太ママ、優香さん、夏帆さん、そして遥香さん、音楽に携わる皆さんが揃って感動してくださっていた。
「純粋な小学生二人だからこそ弾けるのでしょうな。」涙を拭きながら学校長が信子と優太ママに話しかけた。
「はい、優太くんとお付き合いを始めて美穂の演奏は大きく変わりました。」しみじみと信子は言った。
「うちの優太もそうです。美穂ちゃんと仲良くさせていただいてから演奏に力強さが加わりました。学校長さんのおっしゃる通りだと思います。明らかに今までの優太の演奏とは違っています。」
優太ママもうれし涙を拭いながらそう話した。
「学校長さん、何で私は2位になれたんですか?」遥香さんが泣きながら学校長さんに尋ねた。
「遥香ちゃん、君もあの、美穂ちゃんの楽譜で練習すれば上手く弾けますよ。そして遥香ちゃんが2位なのは指の長さを駆使したエレガントな演奏が出来るからだよ。美穂ちゃんは天才肌だが残念ながらまだ10歳、君たちみたいにオクターブが十分確保できないんだ。そのせいでほんの一瞬演奏が間延びしてしまうんだよ。だから、もっとお姉さんの魅力を感じさせる演奏を心がけるときっといい結果が出ると思よ。」
学校長さんの励ましににっこり頷く遥香さんだった。
「遥香さん、コンクールでは美穂がお世話になりました。」信子が遥香さんにお礼を伝えた。「また、昨日はお気遣いいただきありがとうございました。」2人のママに挨拶されて恐縮する遥香さん。
「おやおや、何処かで聴いた曲だと思ったがやはり昨日の小学生カップルだったかね。」そう言いながらホールへやって来た人がいた。
「あれ?学校長?今日はどうしたの?」えっ!だれ?居合わせた皆が驚いた。
「あっ!兄さん、いや学園長!」学校長さんが驚いて目をぱちくりさせていた。
「えええーっ!2人は兄弟だったの?」しかも学園長さんの普段着姿など誰も見たことが無かったせいか誰も分からなかったのだ。
「いや、第3日曜日は母さんと一緒にお昼を食べるようにしていてね。通りかかったら昨日聴いた音楽が流れてきたものだから。それにしても昨日とはアレンジが異なっていたようだね。」そう言いながら演奏を終えた二人へ目を遣った。
「あの二人は逸材だ。お前、目を離すんじゃないぞ。」そう言いながら優太君と美穂の元へ。
「見事な演奏でした。昨日高校で聴かせていただいたのですが、二人ともお互いのパートをお互いに考えて演奏していたのが印象に残っています。今日のアレンジも最高でした。お二人とも、練習だけではここまで上手くなれないよね。」そう言って褒めていただいた。
「ありがとうございます。」二人で声を合わせてお礼を言う。
「ははは。息もぴったりだな。けっこうけっこう。」そう言ってお母さまの元へ向かわれた。
「それにしても音大の皆様勢ぞろいですね。」私の言葉に皆さん「おおおーっ!」とお互いを見合っていた。
「可愛いカップルに引き寄せられましたな。」学校長さんの一言で皆大笑いだった。
その週の水曜日の午後、美穂は優太君と何時もの運動公園にいた。
中学、高校生の皆さんは学校での部活動があるせいか何時もに比べて静かだった。小鳥たちの甲高い鳴き声の中、二人でヴァイオリンの練習を始めた。目標は2重奏だが、まだまだ美穂の演奏がたどたどしかった。それでも美穂は一生懸命ヴァイオリンを弾いた。優太君は美穂がつまずくフレーズを何回も弾いて見せてくれた。
突然風が冷たくなった。
「あっ!優太くん!雨が迫ってくる!」美穂が夕立に気付き声を上げた。二人は急いでヴァイオリンをケースに仕舞う。そして一目散に屋根のある東屋へ。
空は徐々に真っ暗になり稲妻が光る。
「きゃーっ!」美穂が悲鳴を上げる。
「大丈夫!落ち着いて!」優太君はそう言って横に座って怯えている美穂をしっかりと抱きしめた。
「うん。優太くん、ありがとう。」そうは言うものの稲光と雷鳴のたびにしっかりと優太君にしがみつく美穂。周りは滝のような雨脚だ。
優太くんはしっかりと美穂を抱きしめ稲光を避けるように美穂に覆いかぶさった。二人の顔が近づく。美穂はしっかりと目を閉じている。そして優太君の唇が美穂の唇へ。優太君は美穂の気持ちをキスに集中させたかったようだ。美穂は優太君に身を任せ呼吸を少し荒立たせている。稲妻が走るものの美穂はもう怖くなかった。
直ぐに雨雲は立ち去り再び晴れ間が覗いてきた。
「美穂ちゃん、ごめん。余りにも怖がっていたから・・・。」優太君は美穂の身体を越しながら素直に謝った。
「ううん。ありがとう!」美穂は優太君の首に両腕を回した。
そして、驚く優太君の唇へ自分の唇を重ねた。
やがて少し照れながら二人は手を繋いで歩き出した。
夕立は緑の木々を綺麗に洗い、その緑は新たな二人の仲を優しく見守っていてくれた。
その日以来、二人の仲はより親密になっていった。そしてそれは二人の演奏に変化をもたらした。優太君のヴァイオリンはよりエネルギッシュに、美穂のピアノは優しさが加わった。それに気付いたのはやはり信子だった。ピアノのレッスンとヴァイオリンのレッスンとを掛け持ちでこなしていたからだ。ただ、ヴァイオリンは優太ママが従来から行っているため信子は二人の重奏の指導を主に担当していた。そうは言うものの、美穂のヴァイオリン演奏はまだまだだった。
「うふふ。美穂さん、ここはこう弾くの。優太さん、弾いて見せて。」
美穂は優太君の弦を抑える指先と弓の当て方、動かし方をじっと見つめる。そして自分でも真似るように演奏した。
「ねえ、二人とも。何か良いことあったでしょ。」信子は二人に優しく問いかけた。レッスンの最中の突然の信子の質問に驚く二人。
「うふっ。二人の奏でる音で分かっちゃったの。」信子は微笑みながら続けた。「二人ともずっと仲良しでいてね。」
優太君と美穂はお互いを見つめ顔を赤らめていた。
ある日、信子は音大内で声をかけられた。声の主は”ピアノコンクール運営委員会”の事務のお姉さんだった。美穂宛にファンレターが沢山届いているとのことだ。事務局に出向き皆さんに挨拶を済ませファンレターが保存されているという”郵務室”へ。何とそこにはダンボール箱に入った大量のファンレターの山がそびえ立っていた。
余りの量に驚く信子。美穂は未だ小学生、すべてに目を通し、更に返事を書くということは不可能に近かった。悩んでいると郵務室の室長さんが提案してくれた。返事はワープロで作成し、それを事務局から返信するというものだった。それでは味気なさすぎると信子は思った。そうだ!自分の時と同じ様に内容毎に分けてそれぞれに文章を作れば。最後に美穂の自筆のサインを書けば皆さんに喜んで頂けるのではないか。
事務局の手の空いた方々が時間を作っていただき仕分け作業が始まった。信子も加わる。ほとんどが小学生の皆さんからのものだ。
最新鋭のワープロに全員の住所氏名を入力。事務局の封筒に印刷してお礼文を入れて発送することとなった。
家に帰って美穂にその旨を話した。美穂は大喜びでサインを書くと張り切っていた。
私が帰宅すると美穂がサインの練習をした紙が食卓のテーブルの脇に積まれていた。一生懸命練習したのか!そう思いながら一枚一枚捲りながら見ていく。信子の時も同じ様なことをしたなあ。昔の信子を想い出す。
「やだ!一人で何ニヤけているの?」と食後のお茶を出してくれる信子に言われ、小学生の頃の信子と目の前にいる信子があまり変わっていないことに気付いた。
「信ちゃん、昔と変わらないね。」と私が言う。
「ちょっと!何口説いてるのよ。」と信子は口を尖らせ笑顔を見せた。
そんな折、優太君のヴァイオリンコンクールの予選会が開催された。
当然、美穂は一人で応援に向かった。と言うのは、土曜日とは言え、あいにく信子も、優太ママも、私も仕事で立ち会うことが出来なかったからだ。
優太君には「無理して来なくても大丈夫だよ。」と言われてはいたが、美穂はどうしても応援に行きたかったようだ。
何時もの駅で切符を買い、初めて都心方面の電車に乗る。周りは家族連れや友達同士の乗客ばかりだ。そこに小学4年生の女の子が一人っきりで乗っている。どうしても周りの視線が美穂に集中してしまうのは仕方のないことだった。
「ちょっと!あの子!ピアノの美穂ちゃんじゃなあい?」近くにいた高校生くらいの女の子2人組の会話が聞こえてきた。するとお姉さん2人組の会話を聞いた周辺の乗客たちがざわざわと話始めた。
そのうち、車両中の乗客の視線が美穂に集中した。しかし、幸いなことに美穂は目をじっと閉じて頭の中でピアノの練習をしていた。
次の懐メロのアレンジを考えていたのだ。そして、いきなり目を開けると持っていたバッグから五線譜を取り出し音符を書き並べていく。揺れる電車の中の人々の視線は完全に美穂に集中した。皆驚いた表情で美穂の動作を凝視していた。小学4年生が音楽を譜面に起こすとはとても考えられなかったからだ。
「すごい子だなあ!」乗客皆がそう思って美穂を見つめていた。
やがて電車は終着駅に滑り込んだ。人混みに紛れるように改札を出ると大きなコンコースに出る。小さな女の子が大勢の人が行き交う中に一人佇んでいる。すると美穂の後ろ側に10数名の行列が出来た。何と!美穂が何処へ行くのかと皆さん追いてきたのだ。そんなことは露も知らず、美穂は乗り換えるために切符売り場へ向かった。後を追う集団も一緒に続く。傍から見ると完全にストーカー集団だ。
乗り換えた電車は結構込み合っていた。すると、皆さんが一人で立っていた美穂の周りをぐるりと取り囲んだのだ。それが美穂を守ってくれる形となった。その中には最初に美穂に気付いてくれたお姉さん2人組もいた。皆さんは先ほどの電車の中で美穂を見かけて一発でファンになってくださったのだ!
その時、その中の一人の男性に2人の男性が小声で声をかけた。
どうやら乗換駅から美穂が一人でいることを心配し見ていてくださった鉄道警察の方のようだ。一人の女の子に10数人の人が付いて行くのを不審に思われたようだ。
「あ!良かった!美穂ちゃんが一人で電車に乗っているもので、心配で、心配で。恐らくこの周りの方々もそうじゃあないかと・・・。」
それを聞いた鉄道警察の方はそっと周りを取り囲んでいる皆さんに声をかけ確認していく。
「はい!美穂ちゃんが一人でいるのが心配で目的地まで一緒に付いて行ってあげようかと・・・。」お姉さん2人組も美穂を気遣っての行動だった。「それでは私たちが一緒に。」そう微笑み、鉄道警察のお2人が美穂について来てくださることになった。
そんなお供の方々が後ろに控えていたことなどに全く気付かない美穂は電車を降り、会場までの途中で何度も立ち止まり辺りを見回す。
そして「あった!」と喜びの声を上げビルの中へ。鉄道警察のお二人も続く。
美穂はエレベーターに乗る。さすがに他の方もいらっしゃるので2人の内の1人だけが同乗して美穂の行き先を確認する。
やがてその方がロビーに戻ってきた。
「美穂ちゃん、7階で降りたけど・・・。」不思議そうに話す。
「けど?」もう一人の方もその先が気になるようだ。
「ヴァイオリンのコンクール予選会場なんだよ。」首を傾げる男性。
一方、美穂は受付にいた。優太君のいる控室を訪ねるつもりでいたのだが出場者とその同行者しか入れないという。しょんぼりする美穂。「ごめんなさいねえ。」受付のお姉さんは申し訳なさそうに美穂に声をかけてくださった。
その時、エレベーターホールから挨拶を交わす声が聞こえてきた。周り関係者の方が一人の男性に声をかけている。
「あれ?美穂ちゃんじゃないか。一人で何しているのかね。」
声の主は音大の学校長さんだった。
「あっ!学校長のおじさん!こんにちは。」何時もの礼儀正しい挨拶をする美穂。驚いたのは受け付けのお姉さんを始めとする関係者の皆さんだった。学校長さんの後ろ盾もあり“出演者同行者”のバッチを付けてもらえた。
「今日は優太君の応援だね。」学校長さんはそう言って控室へ向かう美穂の後姿を微笑みながら見送った。
控室の扉を開ける。今日は小学生の部の予選会。参加者は皆親子連れだ。唯一、優太君だけが一人でいた。椅子に腰かけ楽譜を読んでいる。少し騒がしい楽屋の中を気づかれないように進む美穂。
とん!とん!と優太君の肩を叩く。
「わあっ!」騒がしかった楽屋が優太君の大きな声でぴたりと静かになった。そして皆の視線は優太君とその後ろに立っている美穂へ。
「ああっ!美穂ちゃん!何でここへ?まさか!一人で?」驚く優太君の口からマシンガンの様に単語が飛び出す。
「うふっ。来ちゃった。」笑いながら答える美穂。
「それにしても、良く一人で来れたね。」ほとんど一人で外出したことが無いことを知っている優太君は美穂の行動力に驚くばかりだ。
すると隣に座っていたご婦人が感心しながら二人に話しかけてくれた。
「男の子一人で感心だなと思っていたの。ちょっと心配していたけどこんな可愛いお嬢さんが来てくれたからもう大丈夫みたいね。」
それでも小学生の男女コンビは周りから目立ってしまう。しかし、二人とも全く気にもしない。
「課題曲は弾き熟しているから大丈夫だよ。何時も通りに、ね。」まるで母親のような励まし方だ。思わず周りの方々から笑みがこぼれる。それを気にして少し慌て気味の優太君。
「あ、ありがとう。美穂ちゃん。」
やがて演奏順が書かれた紙が配られた。
進行係のお姉さんが審査の説明をする。審査員の人が札を上げた時点で演奏終了となるようだ。説明が終わると会場に緊張が走る。
「そうかあ。優太くん、コンクールは初めてだよね。何時も通りでドンマイだよ。」美穂は笑顔で優太君を励ます。
場慣れしている美穂が羨ましくて仕方ない優太君だった。
いよいよ予選会の始まりだ。出演順に並び審査が行われる会議室へ一人ずつ順番に呼ばれて入って行く。ヴァイオリンと弓を持って並んでいる優太君を遠くから見つめる美穂。
次々に小学生たちが入ってはすぐに出てくる。やはりピアノと違って各自が楽器を持ち込むので展開が早いのだろうかなどと思っているといよいよ優太君の番になった。「直ぐに出てきませんように!」美穂はそう祈った。それが叶ったのか優太君は中々出てこなかった。課題曲は弾き終えるとしても4分弱だ。既に10分近く部屋に入ったままだ。逆に長すぎる。これはこれで美穂にとっては不安材料だ。
やがて優太君が部屋から出てきた。にこやかな面持ちで美穂に向けてピースサインを見せてくれた。
「良かったあ!心配しちゃった!」そう言って駆け寄る美穂。
「美穂ちゃん、お待たせ。課題曲だけでなくもう1曲弾いてみてと言われたんだよ。」少し息を弾ませながら報告をする優太君。
「えっ?もう1曲?」美穂は驚いた。更に、2曲披露したというだけでなく審査員の方々と話をしたというのだ。
「それで何を弾いたの?」美穂は身を乗り出して尋ねた。
「うん、「四季」の嵐のパート、この間の夕立の時の美穂ちゃんを想い出しながら弾いたんだよ。」優太君は少し照れながら美穂に話してくれた。美穂も少しはにかみながら頷いて聞いていた。どうやら感触としてはかなり良さそうだ。
二人で控室を出て“出演者同伴者”のバッチを受付へ帰す。入った時とは違う受付のお姉さんが微笑みながら「美穂ちゃん、お疲れさまでした。」と言って挨拶をしてくださった。
「えっ?何で私の名前を?」そう言いながら「あっ!」と驚いた。ピアノコンクールの時に呼びに来てくれた進行係のお姉さんだった。
「わあーっ!先日はいろいろとありがとうございました。」美穂の丁寧なお礼ににこにこ顔で答えてくれるお姉さん。
「君が優太くんね。初めまして。いろいろ噂は届いているわよ。今日も演奏と面接、長かったよね。いい結果が出ると思うわ。」
「はい、ありがとうございます。がんばりました。」そう言って深々とお辞儀をする優太君。そんな優太君と一緒に深々とお辞儀をする美穂。「まあ!ご夫婦みたい!」周りの方々から思わずそんな声が上がる。
「ええーっ!やだあーっ!」大いに照れる美穂だった。
二人でそそくさとエレベーターホールへ。そして1階のロビーへ降りる。ビルの出入り口へ向かって歩き出す。そして駅の方へ歩いて行く。今日の出来事を二人であれこれ話しながら歩くとあっという間に駅に着く。二人で切符を買う、と言っても優太君が子供用の切符を2枚同時に買ってくれた。えーっ!驚く美穂。
「人数分の人の絵が描かれたボタンを押すと同じものが買えるし、大きい人と小さい人が描かれたボタンを押すと大人用と子供用が買えるんだよ。」そう説明してくれる優太君を尊敬の目でじっと見つめる美穂だった。そして電車に揺られ乗換駅へ。改札を出て次の乗り換えのため連絡通路を歩く。
「うーん。」何かつぶやき始める優太君。
「どうかしたの?」美穂が尋ねる。
「さっきから周りに同じような人たちがいるような・・・。」そう言って後ろを振り返った。二人の後ろには不自然に立ち止まる人たちが。しかもわざとらしく視線を外している。
「美穂ちゃん!走るぞ!」優太君は美穂の手を掴んで走り出した。人混みを縫うように改札口まで走ってきた。直ぐに改札口の駅員さんが気付き息を切らしている二人の元へやってきた。
「なにか、後を追けられているみたいで、走ってきました。」優太君が駅員さんに説明した。
その時だった。若いスーツ姿の女性2人が近づいてきた。
胸元のバッジを見て駅員さんが敬礼する。2人の女性も敬礼をした。
「な、なに?」優太君も美穂も訳が分からなかった。
「驚かせてごめんなさい。私たち、こういう者です。」そう言って見せられたのは警察手帳だった。更に驚く二人。
よくよく話を聞くと婦警さん二人は美穂がコンクール会場に向かう最中にそっと守ってくれていた鉄道警察官お2人から美穂の見守りを引き継いだとのことだった。「お嬢さん、あなたずっとファンの方々にも守られていたんですよ。」そう優しく教えてくれた。
優太君も驚いたが、一番驚いたのは美穂だった。
「えええーっ!全然気が付かなかったです。ありがとうございます。」そう言って2人の婦警さんにお礼を言った。そして周りを見回してみたがそれらしき人たちはもういなかった。
「念のため、最寄り駅までご一緒しますね。」こうして心強い帰路となった。お2人はとても気さくで優太君と美穂の話を興味深く聞いてくださった。駅に着いてエスカレーターでコンコースへ上がる。
「そうだ。これ、良かったら聴きに来て!」そう言って渡されたのは“警察音楽隊”の入場チケットだった。
「わあーっ!ありがとうございます!」優太君と美穂は大喜びだ。
「それでは私たちはこちらで。」そう言ってお2人で敬礼された。
「ありがとうございました!」優太君と美穂のハキハキした声がコンコース中に響き渡った。婦警さんお2人は手を振りながら階段で上りホームへ降りて行かれた。
翌日、話を聞いた信子は鉄道警察へお礼の電話を入れた。美穂を守っていただいたことへの感謝と警察音楽隊へのご招待のお礼を伝えるためだ。広報の担当女性と話しているうちどこかで聞き覚えがあると思った信子は恐る恐る尋ねてみた。
「違っていたらごめんなさい。もしかして千夏さん?」音大時代の同期生ではないかと思ったからだ。
「えっ!どうして私をご存じなのでしょうか?」そう言ってしばらく間をおいて驚く声が返ってきた。
「えっ!信子さん?ということは美穂ちゃんって信子さんの娘さん?」どうやら美穂は署内で有名になっているようだ。最初に担当いただいた男性署員のお2人と最後のお見送りをしてくださった女声署員のお2人からそれぞれ微笑ましい報告がされているとのことだった。
しかも千夏さんは警察音楽隊でチューバを担当しているとのことだ。
機会をみて美穂とご挨拶に出向くことで盛り上がって話を結んだ。
次の土曜日、信子と美穂は鉄道警察を訪れた。
受付で記入を済ませ応接室へ通された。きびきびとした動作の皆さんに驚いたような表情の美穂。それは初めて見る世界だった。
「あらあーっ!信子さん、おひさしぶりーっ!」元気な声が聞こえた。千夏さんは信子と抱き合って久々の再会を喜んでいた。
「千夏さん、うちの娘、美穂です。先日はお世話になりました。」美穂を紹介して頭を下げる信子。
「まあ、あなたが美穂ちゃん!よろしくね。」そう言って着席を勧める千夏さん。美穂がファンの方々に道中を守っていただいたことを知り驚きを隠せない信子。
「今回は良い方ばかりで良かったけど、中には悪い人も居るのよ。あまり一人でお出かけしない方が良いわ。」そう言って美穂に話してくれた。
「ごめんなさい。どうしても行きたくって。」俯いてしょんぼりする美穂に信子が謝った。
「ママの方こそごめんね、美穂。美穂が優太君のことをそこまで思っていると思っていなかったの。本当にごめんね。」
「そうだったの。どうしてもボーイフレンドの応援に行きたかったのね。でも今度からは周りの人たちに良く注意を払ってね。怖くなったら直ぐに私たちや駅員さんに連絡して頂戴ね。お約束だよ。」微笑みながら美穂の顔を覗き込む千夏さんだった。
「わかりました。ありがとうございます。」美穂に笑顔が戻った。
「それにしても、美穂ちゃんは偉業達成ね。」そう言いながら千夏さんは一冊の音楽雑誌を広げて見せてくれた。
「あっ!」信子と美穂は声を上げた。そこには先のピアノコンクール入賞者として美穂を含む3人の写真が掲載されていた。初めて見る美穂の晴れ姿と記事に驚く信子だった。
「あっ!遥香お姉さんと美咲お姉さんだ!」初めて見る自分の記事に何か嬉しい気持がする美穂だった。
「信子さん。美穂ちゃんは音楽業界ではもう有名人なのよ。だから知っている人は知っているの。普通の小学生のお出かけではないのよ。」千夏さんはそう説明してくれた。
「そうかあ。こんな記事が書かれているのかあ。」信子はそう言いながら記事のページを見つめていた。
「ママ、今度からは防犯ブザー持ってお出かけするね。」
「そうだね。なるべく一人ではお出かけしなくても良いようにパパともお話しするわね。」信子はそう言って美穂を見つめた。
「そうね、それが良いわね。ところで、うちの音楽隊のコンサートがあるのよ。入場券は貰ったよね。」千夏さんは2人にそう言いながら何処かへ電話をかけた。
「失礼します!」そう言って入ってきたのは若い制服姿のお姉さんだった。
「音楽隊の練習室へご案内して。お2人ともごめんなさい。私これから会議なの。本当は私がご案内したいのだけど。この機会だから音楽隊の練習を是非見て行って欲しいの。美穂ちゃん、コンサートで会えるのを楽しみにしているわね。」そう言ってにこにこと手を振りながら会議へ向かった。
「それでは。」広報お姉さんの案内で署内を歩く。すれ違う方たちが立ち止まって2人に敬礼をしてくださる。2人ともどう対応すれば良いのか良く分からなかったが自然と頭が下がった。
やがて様々な楽器の音が聞こえてきた。そこは視聴覚室だった。
防音された部屋に入ると様々な楽器の音が聞こえてくる。美穂の知らない楽器ばかりだった。すると案内してくれている広報のお姉さんが順番に楽器を紹介してくださった。その都度その楽器で挨拶をしてくれる。それが美穂にとっては楽しいことだった。じっと音を聴き音階を瞬時に覚えていく。この時の美穂の目は真剣そのものだ。
「ねえ、お姉さん。どうしてあのピアノは窓の方を向いているの?」
美穂の素朴な質問だった。
「やっぱりピアノが気になるのね。今日は使わないから隅の方へ移動させてあるの。使う時はあの床の白いマーキングの所へ移動するのよ。今日は管楽器の練習をする日だから。」ピアノを見ながらそう説明をしてくれた。
「そうかあ。ピアノさんはお休みの日だったんだね。」
休憩になるとたちまち美穂の周りはお姉さんたちだらけとなった。
広報のお姉さんと信子はそれを見て微笑んでいた。
「美穂ちゃんってすごいですね。入ってすぐの各楽器の挨拶の時、音と音階を覚えていましたものね。すごいわあ。」感心する広報のお姉さん。
「はい。美穂は何でも吸収して身に付けていきます。私は音楽家としてピアノ演奏をしていますが、今まで美穂のような小学生を見たことがありませんでした。だから、あの子の成長する姿を見るのが楽しくって。やだ、親ばかですね。」信子は下を向いて笑った。
「いえいえ、本当にそうだと思います。報告書によると、電車の中で五線譜を書いていたとあります。読むことは出来ても自分で書き記す小学生など私も聞いたことがありません。」
「すみません、美穂ちゃんのお母さま、美穂ちゃんに何か弾いてもらってもよろしいですか?」
早速ピアノが定位置に戻される。その間に美穂は一つの楽譜を手にして読み始めた。
「美穂さん、弾ける?」信子が尋ねる。
「はい、先生。」そう言ってピアノへ歩み寄る。ピアノの周りにお姉さんたちが寄ってくる。「何を弾いてくれるのかしら。」皆さんワクワクしているようだ。
ジャン!という音と共に美穂の演奏が始まる。
「えっ!この曲って・・・。」驚く広報のお姉さん。
「そうです、こちらの楽隊のテーマ曲です。」信子が微笑む。
居合わせたお姉さんたちは皆唖然としている。さっき譜面を見ていた美穂がいきなり演奏を始めたからだ。
「信じられない。何で弾けるの?」口々にそう言いながら聴いていた。
「あら、早速本領発揮ね、美穂ちゃん。」会議を終えた千夏さんが入ってきた。
「千夏先輩、美穂ちゃん凄すぎです!」お姉さんたちの一人が千夏さんにそう報告した。他の皆さんもうんうんと頷いて居た。
「さすが!3位入賞者の実力ね。しかも老人ホームで演奏会をするだけのことはあるわあ。」感服した千夏さんの素直な気持ちだった。
「ねえ、美穂ちゃん。老人ホームで弾いている曲ってなあに?」質問が飛ぶ。
「はい。こういう曲です。」そう言って美穂の指が軽やかな旋律をならす。「旅の夜風」だ。さすがにお姉さんたちが知るところではなかった。だが軽やかな旋律は頭から離れない。昔の名曲だからだ。
「おいおい。誰だね、妙に懐かしい曲を弾いているのは。」そう言って皆さんとは違う制服の初老の男性が入ってきた。
「あっ!署長!署長に敬礼!」居合わせた皆が署長さんに向かって一声に敬礼する。その一糸乱れぬ動作に驚く信子と美穂。
署長さんはピアノを弾いているのが小学生の女の子であることに気付き驚かれたようだ。
「演奏の途中で申し訳ありません。お嬢さんどうぞ私に構わずお続けください。」笑顔で美穂に話しかけられた。
美穂は信子と千夏さんの方を見た。そして2人が頷くと最初から弾き始めた。淀みなく流れる美穂の懐メロ。疲れた身体に沁み込むのだろうか署長さんの顔つきが緩くなっていく。
「まあ。こんな署長見たことないわあ。」千夏さんが信子の耳元でそっと囁く。思わず吹き出す信子。
署長さんは、美穂の演奏が終わると両手でぱん!ぱん!ぱん!と大きな拍手を送ってくださった。そしてピアノの前の美穂に再び声をかけた。
「ところで、君は誰かね?」これには部屋中のお姉さんたちが皆大爆笑だ。慌てて千夏さんが事の次第を説明する。その他説明が終わるのを見計らって信子と美穂がご挨拶をした。
「おう、おう。あの報告書にあった美穂ちゃんか。そうか、君が美穂ちゃんか。私、磯山と申します。」どうやら美穂の一件は署内では相当知れ渡っているようだ。
そんな帰り道、美穂が信子に言った。「また、おじさんのお友達が増えたね。」
「そうね。美穂は偉い人とも直ぐにお友達になれるからね。」そう言いながら信子は美穂の将来が楽しみだった。
この日は何時も通りに学校へ向かう。私も信子も既に家を出ており、美穂にとっては当たり前の朝となっている。
通学路を歩いていると登校する皆が美穂に挨拶をしてくれる。そして男女学年関係なく楽しくおしゃべりしながら登校するというのが美穂の日常であった。そういうことで美穂を中心としたグループが自然と出来てしまうのだ。「おはよう!」大きな声を出して教室に入って自分の席に座りランドセルからテキスト類を出す。そして授業が始まるまでクラスメイトとのおしゃべりが続く。
「美穂ちゃん、おはよう。」優太君だ。二人とも学校ではそっけなく接し合っているのだが何だか嬉しそうだ。そんな優太君をちらちら目で追いながら美穂は確信した。「予選通ったんだ!」
学校から戻った美穂は練習のため優太君を待っていた。
何時も通り優太君がやって来た。玄関まで迎えに行く。
「予選通ったよ!」玄関を開けるなり嬉しそうな優太君の声が。
どうやら学校では誰にも言わずにいたようだ。
「真っ先に、第一声は美穂ちゃんにと思ってさ!」弾むようにして家に中へ飛び込んできた。
「おめでとう!実は朝、優太くんの顔を見て直ぐに分かったんだよ。」
美穂はそう言って優太君の両手を握って喜んだ。
「えええーっ!朝から分かっていたのかあ!」そう言いながらさらに続けた。「コンクールでの課題曲を3曲から選ぶんだけど美穂ちゃんと相談しようと思って。」
「わかった。とりあえず靴脱いであがって。」美穂にそう言われて持っていたヴァイオリンを預ける。そして二人でリビングへ。
「何か飲む?」美穂に聞かれ「うーん」と悩む優太君。
「今日は肌寒いからココアにする。美穂ちゃんのココア美味しいから。暖まりたいし。」優太君は少し申し訳なさそうに美お願いした。
「じゃあ、私も暖まろうかなあ。」嬉しそうにココアを作る美穂。
「美穂ちゃん、俺の奥さんみたい。」小さな声で優太君が呟く。
「えーっ?何か言ったあ?」台所から美穂の声が返ってくる。
「ううん。何でもないよ。」慌てて返事をする優太君だった。
「今日は宿題が無いから少し多めに練習できるね。」そう言いながら美穂が熱々のココアを運んでくる。二人で仲良く並んでココアをふうふうしながらいただく。信子と私はココアにチョコを入れるのだが、美穂は更にバターを入れる。育ち盛りの小学生にはぴったりの飲み物だと思う。
「そうだ、これ。」優太君がバッグから1通の封筒を出した。
そして、中に入っている“予選通過通知”を見せてくれた。
「わあーっ!すごおーい!おめでとう!」美穂は自分の事の様に大喜びだ。更にもう一枚の紙には本選への案内状と説明文が。
「この中から3曲選ぶんだね。でも、良く知らない曲もあるね。ママが居ればピアノで弾いてもらえるんだけど。」少しがっかりする美穂を慰めるように優太君が言った。
「分かる曲から弾いてみようよ。」
優太君が分かる曲は自分のヴァイオリンで、美穂が分かる曲はピアノで弾いていく。それでも半分は残ってしまった。取り敢えず美穂のピアノに合わせて優太君の練習を進めていくことにした。
「本当は俺のママに弾いて貰えれば良いんだけど、家はマンションだから弾くことが出来ないんだよ。」残念そうに話す優太君。その為、優太ママが休みの時にカラオケボックスでレッスンを受けているのだ。美穂は自分の恵まれた環境に改めて感謝するのだった。
しかし、その日の夜はとんでもない事になってしまった。
信子と優太ママは地方へ泊りがけの公演があるため私がいつも通り帰宅するはずだった。だが私は急な出張になってしまった。家に電話し美穂にその旨を伝えた。たまにあることで美穂も一人で留守番することも結構あった。その時電話口で聞こえたのは雷鳴と土砂降りの雨の音だ。美穂が言うには優太君が帰れないとのこと。今晩は泊めてあげなさいと勧めた。夜遅く、土砂降りの雨の中を男の子とは言え一人で帰す訳にはいかない。
「パパが泊っていきなさいって。」電話を終えた美穂が優太君にそう言って受話器を置く。
「だって、美穂ちゃん、嫌じゃないか?」動揺する優太君。
「私は大丈夫。」美穂はそう言ってお客用の衣類を探しに2階へ。優太君の元へ戻ってきた美穂の手には男性用の浴衣と下着が。
「お風呂場に置いておくからね。あと、着ている服は洗濯するから洗濯機に入れてね。」そう言いながらお風呂場へ向かう美穂。
「ありがとう、美穂ちゃん。」優太君は美穂の甲斐甲斐しい女性らしさに益々魅かれていくのだった。
「晩ご飯、何にしようか?」テレビを観ている優太君にエプロン姿の美穂が尋ねる。
「簡単なので良いよ。逆に何があるの?」振り返って優太君が美穂に尋ねかえす。
「そうねえ、冷凍物なら餃子、ごはんは炊けるからもう一品作るわね。」美穂はそう言ってシャカシャカとお米を洗い始めた。
「ごめんね。手間とらせちゃって。」優太君が台所に様子を見に来てびっくりした。美穂が手際よく夕食の準備をしているからだ。
「大丈夫。何時もやっていることだから。夕食まで時間があるから練習してなよ。出来たら呼びに行くから。」美穂はにっこりと笑って優太君に練習を勧めた。
約30分経った。美穂は優太君を呼びにピアノルームへ。
「わあーっ!すごーい!」食卓を見て優太君はびっくりだった。
餃子とキャベツとハムの炒め物、ご飯とみそ汁にぬか漬けまである。とても小学4年生の料理とは思えない出来栄えだった。
「うふっ、味の保障は無しだよ。」そう言って自分のご飯を持ってきた。そして二人で向き合って座る。
「いただきまーす。」二人で手を合わせて顔を見合わせる。
「あっ、この炒め物、美味しい。」そう言いながら口いっぱいにほおばる優太君。良かったあーっと満面笑顔の美穂。二人での初めての食事。やはり美穂ちゃんにお嫁さんになって欲しいと優太君は思った。美穂は小皿に酢醤油を作り餃子をパクリと食べる。それを見た優太君はびっくりした。優太君は辛子醤油で何時も食べているからだ。優太君は関東育ち、美穂も関東育ちだが信子も私も関西育ちなので味付けは関西風で育っているのだ。それって美味しいの?ということでお互いに食べ比べてみることに。しかし、まだまだ子供の二人だ。何時もの食べ方がしっくりくるようだ。
そうこうして楽しい夕食は終わった。
「テレビでも観てて。先に洗い物済ませてからお風呂沸かすから。」
そう言いながら食後のお茶を入れる美穂。
「あっ!優太くん、お茶大丈夫だよね?」ソファーに座る優太君に声をかける。
「ありがとう。いつも家で飲んでるから大丈夫だよ。」そう言って食卓までお茶を取りに来てくれた。
こうしてゆっくりと時間は流れる。
洗い物を終えるとお風呂を沸かす。これはリモコンのスイッチを押すだけだ。
美穂の自由時間が戻ってくる。美穂は自分のお茶を持って優太君の隣に座った。
「そうか!男の子って野球を見るんだ!」初めて知る男の子の秘密。
「えっ?美穂ちゃんのパパって野球観ないの?」逆に驚く優太君。
「うーん、観ないというか、あまりこの時間帯に家にいないし。大体はママと過ごしているからなあ。」美穂は少し不満げに話した。
「そうかあ。でも一緒に居られるから良いじゃない。うちは単身赴任中。もう3年になるよ。帰ってくるのはお正月くらいかなあ。」少し寂しそうな優太君だった。
そうこうしている間にお風呂が沸く。
「お風呂入ってきて。タオルとか全部準備してあるから、ご遠慮なく。私はピアノの練習をするから、ごゆっくりどうぞ。」美穂はそう言って2つの湯呑みを持って台所へ。
「今度は旅館のおかみさんに見えて来たなあ。」そう言いながらお風呂場へ向かう優太君だった。
美穂はいにしえの懐メロを覚えるためレコードを聴いていた。
そしてその曲の楽器部分を集中して何度も聴き、譜面に起こしていく。主だった楽器の音符を全て一つにまとめ上げるという美穂独特の方法だ。これが誰にも真似できない美穂のピアノ演奏を作り上げる。併せて、美穂は秋のピアノコンクールに向け既に始動していた。
課題曲は譜面を取り寄せ弾いてみる。何度も何度も自分が納得出来るまで弾き込んでいく。そして信子に聴いてもらいアドバイスを貰うというプロセスを踏んでいた。
片や、優太君の場合は主な練習場所は公園だ。広い場所で演奏すれば周りの雑音が邪魔をする。それを跳ね返すように常に弾いているので力強さ、ワイルド感が身に付く。小学生ながらダイナミックな演奏が優太君の大きな武器だ。美穂は課題曲の中からダイナミックな曲を選びたいと思っていた。信子と私が持っているクラッシックのレコード1枚1枚の収録曲をチェックしていく。
自由曲は決めていた。その為にレコードをかけそれに合わせてピアノで演奏してみる。これを譜面に起こしていくのだ。気の遠くなる作業だが納得のいくまでやるのが美穂だ。
「美穂ちゃん、ありがとう。お風呂お先に頂いたよ。」そう言って優太君がピアノルームに入ってきた。
「外はすごい雨だよ。」優太君はお風呂に入っていて外の雨音の凄さに驚いたようだ。
「そう?ここじゃあ良く分からないけど、だから集中出来るんだよね。」そう言いながらお風呂場へ向かう美穂。
美穂がお風呂に入っている間に優太君は美穂が手書きしている譜面を見つめる。これをこうしてアレンジしているのか!そして自分のヴァイオリンを取り出しガイドメロディを弾き始めた。美穂と同じように間違えたり納得のいかないところを何度も繰り返す。本選の来年1月までには何とかマスターしたい!それが目標だった。
やがて美穂がお風呂から出てきた。少し濡れた髪が小4とは思えない位美穂の表情を変えていた。
「雨すごいね。」美穂が言う。
「何時もの美穂ちゃんじゃないみたい…。」優太君はそう呟く。
「えっ?」会話が上手く繋がらない。
「いや、何でもない。ごめん、ごめん。」慌てて話しを変える優太君。
「美穂ちゃん、この編曲はこういう感じかなあ。」そう言いながらヴァイオリンで美穂の書いた伴奏部分を弾いてみる。
「私のイメージはこうだよ。美穂は自分で伴奏部分を弾いてみる。実際に音を聴くとはっきりする。早速二人での演奏が始まる。ここまでくると自然と二人だけの楽曲になっていく。
「そうだ!優太くんにお風呂上がりの飲み物出してなかったね。」そう言う美穂に連れられるようにダイニングへ。美穂はカルピスを作り優太君に勧める。
「ありがとう。」優太君は喉を鳴らしながら美味しそうに飲み干してくれた。
「ごめんね、気が付かなくって。」そう言う美穂に首を横に振る優太君。幸せ過ぎるこの時間が何時までも続いて欲しいと思うのだった。
再び練習を始める二人。夢中になるとあっという間に時間が過ぎる。
「あっ、もう11時だ。」優太君が気付いた。
「あら、ほんと。もう寝なくっちゃあね。」美穂もそう言いながらピアノルームを出た。そして二人で2階に上がる。
2階の客間として使っている部屋に布団を敷く。
「それじゃあ、おやすみなさい。明日は一回家に帰るんだよね。少し早めに起こしてあげるね。」そう言って美穂は1階に下りて行った。
優太君は布団に入りながら美穂のことをじっと考えていた。しかし、今日の疲れから睡魔に負けすぐに眠りに落ちた。
「おはよう!優太くん!」美穂の明るく元気な声で飛び起きる。
そうだ、美穂ちゃん家にお泊りしいていたのだった。
「お、おはよう!」そう答えて上半身を起こす。慣れない浴衣がはだけてしまっている。
「うふっ。着替えここに置いていくね。」美穂はそう言って昨夜洗濯し乾かせた優太君の衣類を置いて行った。それは綺麗に折りたたんで揃えてあった。改めて美穂の家事能力の素晴らしさを知る優太君だった。
1階に下りると美穂は朝食の準備をしていた。美穂に急かされて洗面所へ向かう。何故か電気カミソリが置いてある。少し驚きながらもしっかりと顔を洗い、歯を磨く。食堂へ向かうと既に朝食が並んでいた。フレンチトースト、目玉焼きとウインナー、ホットミルク、野菜ジュースと簡単なメニューだがありがたいと思った。自分のために早起きしてくれたのだと思うと感謝しかなかった。
「冷めないうちに食べてね。」そう言いながら美穂は焼いたばかりのフレンチトーストを優太君のパン皿に追加する。
「いただきまーす!」二人で声を合わせて朝食をいただく。
「あっ!これ美味しい!」フレンチトーストに衝撃を受ける優太君。
「でしょ!ママに習ったの。アメリカ仕込みだよ。」美穂は優太君の素直な反応に大満足だった。手の込んだものではないものの優太君は美味しく食べてくれた。
朝食が済むと優太君を送り出す。一旦家に帰って登校の準備をするためだ。「本当にありがとう。じゃあ、学校で。行ってきます。」
幼い新婚さんそのものの日があっという間に過ぎ去ってしまった。少し力が抜けてしまったように感じる美穂だったが、さっさと洗い物をして登校の準備をしているとまたいつもの美穂が復活していた。
梅雨も明け青空が広がる頃、もうすぐ夏休みだ。
終業式を迎えた日、美穂と優太君は明日の警察音楽隊の演奏会を楽しみにしていた。何時もの様にピアノルームで練習をする。特に、今日は優太ママと信子も加わっての優太君のコンクール課題曲を検討するのだ。二人の知らない曲を優太ママと信子が弾いていく。その中で美穂に出来ないこと、ピアノのペダルに足が届かないことがマイナス要因となるのだ。ブースターが利かせられないとヴァイオリンの長く続く音に追いていけない。美穂にとっては余りに辛いハンデだ。ピアノの独奏であれば美穂お得意の鍵盤タッチでクリアできるのだが。しかし、美穂は転んでもただでは起きなかった。ヴァイオリンの音が伸びている間に余韻を残すようにメロディーを追加するのだ。これには優太ママも大絶賛だった。
「美穂ちゃん、良い感じでメロディーが入っているね!」
信子も満足そうだった。優太君に美穂が尋ねる。
「ここ、ヴァイオリンの見せ場だけど、ピアノの音は気にならないかなあ?気になるから皆メロディーを入れないんじゃないかなあ?」
「極力ピアノの音を抑えれば俺は大丈夫だよ。」
「そうねえ。曲調も崩れないからそれでいこうよ。」優太ママの意見に皆が賛成した。こうして1月の本選に向けて着々と進んでいく。
「そう言えば明日はお休みだよね。」休憩を取りながら皆でお茶の時間を楽しんでいる時だった。優太ママが信子に言った。
「うん、そうだけど。」信子はティーカップからそっと口を離して答えた。
「私たちも行こうよ、音楽隊のコンサート!」優太ママが続ける。
「さっきチケットを見せてもらったんだけど1枚につき2名入れるみたいだよ。」
優太君と美穂は急いでチケットを確認する。
「あっ!本当だ!」二人の持つチケットには小さく書かれていた。
「あら、それは助かるわ。電車で行かなくても車で行けるから。この間のこともあるからね。」信子も賛成した。
「行き帰りは一緒だけど、現地で解散だよ。」信子の粋な計らいに優太ママもにこにこ顔だった。
当日の会場は大賑わいだった。屋外の会場付近には多くの出店が並んでいた。美穂と優太君は二人で仲良く手を繋いで出店を見て回った。夏休みということもあり人混みでごった返していた。
「かき氷食べようか?」優太君に誘われこくりと頷く美穂。
近くのベンチを見つけ、冷たいかき氷を二人で仲良く食べる。
「あーっ!頭がきーんってなるね。」顔をしかめて美穂が言う。
「うん、でもこれがかき氷の醍醐味じゃあないかな。あっ!俺も!」
顔を歪めながらも楽しそうに食べる二人に通り過ぎる子供たちが目を移す。仲の良い二人が羨ましいのかもしれない。
出店を満喫した二人は会場の中へ。チケットを見せて中へ入ると千夏さんが待っていた。「お二人ともいらっしゃいませ。」
「こんにちは、今日はお招きありがとうございます。」二人で挨拶をする。美穂は優太君を千夏さんに紹介する。千夏さんは優太君に言った。「美穂ちゃんをしっかり守ってあげてね。」
挨拶を済ませると千夏さんは二人を案内してくれる。会場は既に満員だったので立ち見を覚悟していた二人だったが、案内された所は“関係者席”だった。
「えっ?ここって・・・。」二人とも驚いて立ち止まる。
「おおーっ。来たか、来たか。美穂君、こっちだ。二人とも遠慮しないで。」遠くから大きな声で二人を呼ぶのは、署長さんだ。
「署長も呼んでいらっしゃるから、二人ともさあどうぞ。“関係者席”の外れとは言えやはり“関係者席”だ。二人で署長さんにお礼とご挨拶をして茉席ながら“関係者席”に座らせていただいた。
そんな様子を2人のママが双眼鏡で覗いていた。
「信子さんが別行動って言っていたのはこういうことだったのね。」優太ママは嬉しそうに二人を見つめていた。
「そうなの。最初はお断りしたんだけど、署長さんのご配慮だからって千夏さんが譲らないのよ。でも良かった、二人とも吹奏楽が十分堪能できるわね。」信子も嬉しそうだった。「後で千夏さんにお礼しなくっちゃね。」
警察音楽隊のコンサートが始まった。
演奏しながらの入場だ。旗手を先頭にバトントワラー、金管楽器、木管楽器、打楽器と続く。劇場のコンサートに比べかなりの迫力だ。音の振動で身体がじんじんと痺れる。
「わあーっ!」思わず歓声を上げる美穂。多少の声ではかき消される程の迫力だ。
「うわっ!」すごいなあ!みんなが吹いている金管楽器って集まると迫力があり過ぎる!」公園で一人一人が吹いてる音しか聴かない優太君にも金管楽器の力強さが十分に伝わったようだ。
そんな中マーチングをしながら編隊を変えていく音楽隊の動作に釘付けの二人だった。これらは二人の演奏に大きな影響をもたらすことになる。
次から次へとマーチを中心に途切れることなく曲を繋いでいく。
「こ、これって。美穂ちゃんと同じだ。やはり美穂ちゃんは生まれながらの音楽センスの持ち主なんだ!」優太君は改めて美穂の持つ技量に感心するのだった。そっと隣の美穂を見ると時々宙を見て両指を動かしている。自分でも曲に合わせてピアノで演奏しているのだろう。そんな美穂の横顔をじっと見つめる優太君だった。
コンサートの最後に皆さんが“関係者席”の近くまで近寄って進んでいく。
千夏さんと先日お世話になったお姉さん2人の顔が見えた。
美穂と優太君を見つけて目線を送ってくださった。それに応えるように一生懸命手を振る二人だった。
こうしてコンサートは幕を閉じた。
二人は席を立って先ずは署長さんにお礼を述べた。それから他の来賓の方々お一人お一人にご挨拶をした。皆さん突然の小学生カップルの礼儀正しい挨拶に驚かれ、感心されていた。皆さんにこにこ顔で挨拶にお答えいただいた。署長さんもそんな二人を見つめて目を細めていた。
来賓の皆様が退席された後、二人は“関係者席”を後にした。大勢の人たちが出口に殺到していた。
「ちょっと待ってからにしようか。」優太君にそう言われて近くの席に座る。
「偉い人ばかりでびっくりしちゃったね。」美穂が微笑む。
「うん。緊張するよね。皆さん各警察の署長さんみたいだね。」優太君も少し興奮気味だ。
一息入れてからおもむろに出口へ向かう。
「あっ!来た!来た!」2人のママが手を振っている。
「どうだった?“関係者席”!」2人のママが同時に問いかける。
「びっくりしちゃったよね。」そう言う美穂に頷く優太君。
「でも、なぜ“関係者席”だったんだろう?」優太君が首を傾げる。
「それはね、鉄道警察署の署長さんがお招きしてくださったのよ。音楽を聴いて楽しむにはもってこいの場所だって。」信子はそう二人に説明した。
「そうか!それを知っていて別行動って言ったんだね。」
その後、4人そろって音楽隊の皆さんの元へ。2人のママは何やら大きな荷物を持っている。直ぐに千夏さんを見つけ強引に2つの荷物を渡す。重そうに持っていた荷物はバナナだった。千夏さんは大喜びだ。笑顔が弾ける。
「ああーっ!練習終わりに皆で食べたわねえ。」音大の頃の想い出の品のようだ。3人でバナナを配って回っている。そんな3人にお礼を言った皆さんが一斉にバナナをほおばる。お世話をしていただいたお姉さん2人にご挨拶をする二人。可愛い小学4年生の二人の訪問に笑顔が炸裂し賑やかな控室となった。
夏休みの間、信子と優太ママは公演のため長期間家を空けることがあった。その間、優太君は美穂との練習に励んでいた。何時も夕食を済ませて自宅に帰るのだった。
夏休み最初の1週間はプールの授業があった。二人とも泳ぎが得意で、特に美穂は背泳ぎ、優太君はバタフライまで出来た。流石に私たちの頃と違って学校にプールがある。1年生の時から水に親しんでいるからだろうか。そういう点では泳ぎが身近なものになっているのだろう。
美穂はプールの帰りに駅前のスーパーに寄って夕飯の食材を仕入れる。優太くんもスーパーでおち合い、美穂と一緒に買い物を楽しむ。
子供2人が買い物をする姿はこの付近では周知のことだった。今日もあれやこれやと買い物をする。それを二人で両手にぶら下げて歩いて帰ってくるのだ。私たちが二人と同年齢の頃は“御用聞き”さんがいて品物を届けてくれたのだが。
家に戻ると直ぐにお昼ご飯だ。今日は冷や麦を二人で食べることにした。優太君は食卓を拭き、お椀とお箸を並べてくれる。美穂は冷や麦を茹でながら小葱をトントンと切る。
「いただきまーす!」二人で声を合わせる。
「うーん。冷たくて美味しいね。」そう言いながら二人で冷や麦をすする。流石に優太君の器の冷や麦が先に無くなる。
「お代わり、あるよ。」美穂は台所へ冷や麦を入れに行く。
「ありがとう。色付きの麺は美穂ちゃんが食べなよ。」優太君は美穂にそう声をかけた。心優しい優太君のちょっとした気遣いだ。
「うん。」嬉しそうに美穂が答える。些細なことでも優太君の優しさに触れあうことが出来る。こんな瞬間が堪らなく、愛おしく感じる瞬間だ。
お昼ご飯が終わり食卓を片付け、洗い物を済ませたら夏休みの宿題に取り掛かる。優秀な二人組だ。すらすらと進めていく。判らないところは二人で助け合って解決する。それも出来なければ信子先生や私の出番だ。信子は理数系、私は人文系に自信があるのだが、意外と小学生に教えるのは難しい。私たちが教わった解き方、歴史上の名称などが進歩しているからだ。
宿題が終わるとピアノとヴァイオリンの練習だ。次月の第3土曜日は老人ホームでの定期演奏会だ。この音合わせとそれぞれのコンクールに向けた練習もある。これらが一段落する頃にはもう夕方だ。
優太君と私のための夕食作りが始まる。その間に優太君をお風呂へ。
自宅のお風呂を使うと都度洗わなくてはならないという美穂の計らいだ。今日の夕食はとんかつだ。美穂は本当に器用な女の子だ。教えたことは何でも出来る。流石に揚げ物は美穂専用の小さな天ぷら鍋を使うようにしている。効率は悪いが、4年生の美穂には大量の油を使うのは危険すぎるという私たちの配慮だ。トントントンとまな板を響かせキャベツの千切りをリズミカルに作っていく美穂。
「えっ!誰が食べるの?」お風呂上がりに台所を覗きに来た優太君が驚く。お風呂上がりに冷たい水を飲む優太君。食卓には既にお皿が並んでいる。ご飯とお味噌汁をよそっていると優太君のとんかつが揚がる。これをさくっ!さくっ!とカットしていく。大きなガラスの器に千切りキャベツがこれでもか!と言わんばかりに入っている。しかも、とんかつの乗るお皿にも大量の千切りキャベツが山の様に盛られている。
「いただきまーす!」今日2回目の二人での食事だ。
「うーん!美味しい!」とんかつをはふはふしながら食べる優太君を心配そうに見つめる美穂。「熱くない?大丈夫?」
「ううん。美穂ちゃんの揚げたてのとんかつ、最高だよ!」そう言って今度は千切りキャベツを口にほおばる。
「よかった。」嬉しそうに顔を祠ばせる美穂。とんかつにお醤油を垂らす。美穂は揚げものにはお醤油派だ。
「そうか、美穂ちゃんはお醤油派なんだね。俺はとんかつソースをかけるけど、でも、エビフライは?」そう言って美穂に聞いてきた。
「えっ、タルタルソースかけるよ。エビフライにはタルタルソースだよ。」美穂は当然のように答えた。
「あっ、俺と一緒。何故か海のもののフライってタルタルソースが合うよね。」「うん、うん。」こうして楽しい夕食が続く。
「でも、千切りキャベツはソースで食べるのが好きなの。うふふ、変わってるでしょ?」美穂ははにかむ。
「その気持ちわかるよ。脂っこさをすっきりさせるにはソースが一番だよね。」二人でうふふと微笑み合う。
そして、夕食後のティータイム。とは言っても真夏なので二人でカップアイスを食べる。甘く冷たいクリームが熱いとんかつで少しひりひりする口の中を癒してくれる。優太君は思った。“美穂ちゃんのご飯、最高!
ああ!昭和は遠くなりにけり!! @dontaku
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