潮の香すらない海

橘スミレ

第1話

 文化祭でなんとなく上手くいかなくて、息苦しくなったので外へ出た。

 それとした目的地もなく北へ北へと歩いていると海が見える。

 私はひさしの下にあるベンチに座って景色を眺めることにした。


 港があり、橋があり、海がある。

 遠くで汽笛が鳴っている。

 背後から花の香りが漂ってくる。


 天気が良いおかげで遠くまで見渡せるが、さして面白いものではない。

 海が見えるだけで、たいして近くないこの公園では潮の香すら感じられない。


 これがもし夜景ならもう少し見どころがあつた。

 港に光がつき、橋も鮮やかにライトアップされる。

 キラキラと輝いていて、綺麗で、その奥に吸い込まれそうな闇をたたえた海がある。


 私は一度だけその景色を見たことがあった。

 中学二年生の反抗期まっさかりなときのことだ。


 母と大喧嘩をした。

 きっかけは些細なことだった。

 取るに足らないちょっとしたことだった。

 それなのに私と頭にぐぐっと血が登っていくのを感じた。

 自分では制御できそうにない火元不明の怒りはあっという間に私を包み込む。

 何かの本で母親が冷静になるために一人で部屋にこもるシーンを読んだばかりであった私は部屋に戻ろうとした。


 しかしなぜか母に止められた。理由は覚えていない。

 そこから大揉めした。


「向こう行ってて!」


 母を扉から引き剥がしながら暴れ泣く私。


「こっち来なさい」


 私を引き摺り出そうと怒り狂う母。


 揉めに揉めた。

 そのときの私にとって母は言葉の通じないモンスターだった。

 付け加えておくが母は理屈が通じない状態になっていたのは事実だ。私の主観ではない。

 モンスター状態の母と二時間ほど戦い、私は壊れそうになっていた。


 最終的に私は顔を涙と鼻水と唾液でぐちゃぐちゃにし、言葉を紡ごうとして喉に詰まらせ息が苦しくなり、キッチンの横でうずくまっていた。

 見た目的には私の方がモンスターだ。


 もっとも当時の私はそんなこと気にする余裕などなかったのだが。


 目の前にはHPゲージが八割ほど残ったモンスター。

 たいして自分は今にも死にそうである。

 取るべき行動は退避。


 というわけで私はティッシュで乱雑に顔を拭い、玄関においてあった鍵だけ引っ掴んで家の外に飛び出した。

 走って、走って、吐きそうになるまで走って、気がつけば公園のベンチの前で寝っ転がっていた。


 なぜ側にベンチがあるのに地面に寝っ転がっていたのか、と思いつつ立ち上がる。

 服についた砂を払い、夜景を眺める。

 空と海の境が消えて、だだっ広い闇が広がっていた。まだ近いあたりは港の光に照らされて明るいが、遠くになるとクレヨンで塗りつぶしたかのように黒かった。

 音も香りもない海を眺めていると、自分と自分でない部分の境が溶けて暗闇と一体になったような心地がする。

 私は夜を包む闇になった。


 すると途端に全てが些細な問題に思えてくる。

 自分の怒りも、話の通じないモンスターの存在も取るに足らない波の一つだと思った。


 あの感覚は一度怒りに身体を支配された後に夜景を見たからこそ生まれたのだと思う。

 少し行き詰まって水平線を見たところで少し心が落ち着くだけだった。


「帰るか」


 私は来た道をゆっくりと降っていった。

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潮の香すらない海 橘スミレ @tatibanasumile

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