10−2・引退【分析室】

 高山がつぶやく。

「これで目的は果たせた……ってことか? だが、ほんとにこれで終わりなのか?」

 マジックミラーの向こうで、篠原が高山を見つめる。

『中継を切断してください』

 中里は、うなだれたまま何も言わなかった。

 高山はモニターで記者クラブを確認した。記者たちの間に入った警官がスマホを奪っていく。

 テレビからも取調室の様子は消えた。

 岸本が応える。

「まあ、中継を終えることに異論はないようですから……満足なんじゃないんですか?」

 日本中を振り回した〝誘拐犯〟のターンは、ようやく終わったのだ。この先は、警察が仕切る場だ。

 高山がマイクに言った。

「これから色々聞き出さなけりゃなりませんけど、記者クラブの回線はどうします?」

 篠原はもう迷わなかった。

『今さら遮断しても仕方ないでしょう? どのみち知らせなければならないことですから。下手に隠せば、「核心を隠蔽している」とか責められかねません。報道すべきではないことがあれば、記者の方で判断するでしょう。その程度の良識は残っていると期待しようじゃないですか』

 高山が肩をすくめる。

「私もそっちに行って構いませんか?」

『いや、そこでサポートしてください』

「お偉方の苦情処理、ですか? いつまでも籠ってはいないでしょからね……まあ、汚れ仕事には慣れてますので」

『そう言わないでください。雑音を排して、真実の聴取に集中したいんです』

「そっちはお任せしましょう」

 だが篠原は、猿橋に命じた。

『猿橋さん、質問はあなたにお願いします』

『わたしに?』

『今回は、僕の完敗です。やっぱり、人間は難しい。犯罪の構成要素は明らかになったようですから、僕の役目はここまでということで。動機の解明は、犯罪心理の専門家にお任せしますよ』

『でも、わたしは警官じゃないし……』

『管理官として、助力を要請します。刑事手続き上の不備があれば、僕が引き継ぎます。僕は何より、中里氏の心の内を知りたい。あなたに相応しい仕事でしょう?』

 猿橋はかすかな笑顔を浮かべてうなずく。

 高山がつぶやいた。

「篠原さん、場数を重ねて一皮剥けたようだな」

「挫折は成長の糧――ですかね」

「天才にも、まだ伸び代があるってことだ」

 猿橋が中里に向かって身を乗り出す。溢れ出す好奇心が目に見えるようだった。

『まず教授と麗子さんの関係を詳しく話していただきましょう。2年前の患者さん――ってだけじゃありませんよね?』

 中里が顔を上げる。不敵な笑みも切迫した表情も消え、腑抜けた老人にすら見える。その声も、力を失っていた。

『もちろんです……。ですが、2年前の状況からお話しするのが理解しやすいでしょう。麗子さんのカウンセリングを依頼してきたのは、かつての教え子だった南美春さんでした。「父親を避けているようなので、理由を探ってほしい」ということでした。そこで分かったのは、麗子さんが父親を疑っていることでした。当時もワクチン薬害疑惑が話題になっていましたのでね。学校の中でもそれが原因で無視されるようなことが多かったといいます。不正を嫌う若々しい感性が学校での息苦しさで増幅され、憎しみに転化したようでした。解消策として、学校以外の居場所を作ることを提案しました。彼女はいわば箱入り娘で、自宅と学校以外の居場所はないと答えました。ですので、私の大学に出入りしている社会活動サークルを勧めました。募金の収集や地域の清掃など、地味な福祉活動をメインとした集まりです』

『そこで彼氏――弓削と出会った?』

『そうです。弓削はやはりうちの大学の出身で、数年前に卒業してからもそこの中心的なメンバーでした』

『そのサークルって、極左団体の活動拠点だったりする?』

『大学生がメインのサークルですからね。左派の隠れ蓑か新人勧誘の入り口といってもいいかもしれません。ただ、学内では過激な活動はしていませんでした。ヨガ教室なんかも開いていて、私自身そこで感情コントロールの基礎を身につけました。米軍基地建設に反対する、いわゆる平和活動に参加するスタッフはいましたから、左翼臭が強いことは感じてました。それを知った上で、あえて麗子さんに勧めたんです。当時の麗子さんにとっては、心理的に最も馴染みやすい団体だと判断したからです』

 猿橋がさらに身を乗り出す。

『それだけじゃないでしょう? 麗子さんを左翼に近づけることで何か企んだのでは?』

 中里が引きつった笑みを見せる。

『あなたには何も隠せませんね。下心は否定しません。ただし、最初から明確な計画があったわけではありません。麗子さんをさらに左傾化させて家庭内の軋轢を拡大し、厚労省の実態を垣間見られたらラッキーだなと思った程度です』

 あっさりと認めたことに、猿橋が軽い驚きを見せる。

『バレたら、免許剥奪よ?』

『当然ですね。臨床心理士としては到底認められない行為です』

『記者の前で話してもいいの?』

『もう嘘は言わない約束ですから。麗子さんを利用すると決めた時点で、処分は覚悟していますしね』

『そこまで覚悟して、子羊を狼の群れに放り込んだ――と? 教授はなぜ厚労省の内部事情を知りたかったの?』 

『私が知りたかったのはもっと大きな、この日本の仕組み――いってみれば、本質のようなものです。娘の死後、鬱屈した日々が続きました。娘を救えなかった日本を憎んでいた……それは認めましょう。ですが憎しみが湧いたのは、何ヶ月も無為な時間が過ぎてからのことです。それまでは廃人同然でしたから。立ち直れてからは、誰が――あるいは何が娘を殺したのか……手当たり次第に情報を集めました。憤りをぶつける相手を求めて、もがきました。だが、犯人など見つかるはずもありません。誰か1人、どこか1つの組織だけに責任があったわけじゃない。誰かが悪意を持っていたわけじゃない。関わり合う無数の者たちが自分の主張や立場を守ろうとせめぎ合い、その間に悲劇が生まれただけです。しかもそれぞれの主張は、決して間違いとはいえない。いってみれば、正義の衝突が生み出した〝あぶく〟みたいなものです。あっちこっちに湧いて出るし、どこに出るか予測できないし、すぐ消えてしまう……。だから、それを解決する術など見つかるはずもない……そんなことは最初から感じてました』

『普通は、そこで自分を納得させられるものだけど?』

『分かっていても、諦めることはできませんでした。一番身近な大学が、矛盾の結節点の1つだったからでしょう。大学や学会は、リベラル勢力に覆われた領域です。市井の人々の暮らしとは別世界だと言ってもいい。いい例が学術会議です。日本の防衛装備開発には協力しないくせに、中国軍傘下の大学とは無批判に提携する。日本の学生は奨学金の返済で人生を縛られるのに、中国の留学生は生活資金まで支給された上にアルバイト三昧です。他国の利益を優先するような組織は、特に政官界に多い。キックバックがあるからだという勘ぐりだって当然じゃないですか。私の娘は、イデオロギー対立が自衛隊の救出活動を抑制したことで命を落としたという側面もある。私には対立を解消する力などありませんが、多くの人に問題点を訴えることはできるかもしれない。そうやって自分に役割を与え、折れそうな気持ちを支えたんです。大学の内部から世の中を見ることを決め、ずっと続けてきたんです』

『いつかこんな犯罪を犯そうって、決意していたの?』

『当時は犯罪なんて思いつきもしませんでしたよ。ただ、左翼系の人々が本心では何を求めているかを知りたかったんです。そんな目的を隠しながら大学に居続けるのは、苦痛でした。公然と自衛隊に反対するような職員を前に笑顔で相槌をうつのは、身体的な痛みさえ伴いました。彼らが娘の救出を妨げたことは、事実でもありますから。だからこそ、知りたかった。彼らの正義とは、どんなものなのか。娘の死に値する価値があるのか……知らなければならなかったんです。そうこうするうちに、気持ちを圧し殺すのも慣れだと悟りました。本格的なヨガで精神をコントロールする訓練も積みましたけどね。そうして、彼らの精神構造や行動様式を探究することに専念していきました。その分、学内の業績は上がりませんでしたが、左翼団体には多くの知り合いを作ることができました』

『よく耐えられたわね。そんな暮らしをしていたからバイタルをコントロールする技も身についたんでしょう。わたしも、対話だけであなたの真意を見抜ける自信はないもの』

『苦痛は、贖罪には不可欠です。「娘の無念を晴らす方法を探しているんだ」と自分に言い聞かせる暮らしを、何年も続けましたからね。正気を保つためにも、なくてはならなかったんでしょう。自分自身を保つために苦痛を求め、苦痛に耐えるために自分を裏切る技術を学ぶ……何も生み出すことのない、虚しい堂々巡りです』

『でも教授は、こうして正気を保っている。無駄だったとはいえないでしょう?』

『今の私は、自分が正気なのかどうかも分かりません。もはや、凝り固まった欲求に駆り立てられているだけです。でも、それが生きる原動力だったことは間違いない。妻は……震災の1年後に離婚しました。彼女は、娘の死から一瞬も立ち直ることができなかったんです。実家に戻った数ヶ月後に、事故死したという知らせを受けました。私は、葬儀にも行けませんでした。事故なんかじゃない……自殺したんだと、分かっていましたから……。2人の死の原因を誰に求めればいいのか、そればかり考えて動けなかったんです……』

『奥様のことはわたしたちも調べました。不幸な出来事です。でも、自殺の兆候は現れていませんが……?』

『私には分かるんです。たとえ1年に過ぎなくても、共に娘の死に耐えたんですから……。でも、そんな不幸は日本中のいたるところに転がっている。政府がリーマンショックの対応に失敗したことで、何1000人もの自殺者が増えました。経済政策の間違いは、大量殺人に等しい。パンデミックの判断を誤れば、病院がパンクしてさらに死者が増える。政府の失策、野党の妨害、マスコミの無知、官僚の保身、企業の強欲……さまざまな要素が絡まって、私たちに襲いかかるんです。でもそんな彼らだって、誰かを傷つけたいわけじゃない。ただ、自分にとっての正義を求めているだけかもしれない。だから、そんな不幸を根絶することは不可能でしょう。でも、少なくすることはできるかもしれない。その大前提が、理不尽な不幸の存在を知ることです。私はただ、その理不尽の一欠片を知って欲しかった……それだけなんです……』

『それ、20年以上……ずっと考えていたの?』

『忘れられるはずがないんです。体に、こんなに深い傷が残っているんですから。天候によっては、まだ痛みます。傷が、忘れさせてくれません。だから、考え続けるしかなかった。それなのに、私には答えが出せない。娘の死が体に刻まれているのに……私には力が足りない……。答えが出せる誰かのために、考えるきっかけにすることしかできない……』

『そして、そのチャンスを得た?』

『成すべきことは決めました。でも、そんな方法は持ち合わせていない。悶々としていた時に、麗子さんが飛び込んで来たんです。麗子さんをリベラル系のサークルに近づければ、何かの反応を起こして官僚たちの実態を覗き見ることができるかもしれないと期待したんです。結果は、大爆発でした』

『麗子さんが弓削に感化されてしまった?』

『弓削と肉体関係を持つとまでは思いませんでした。歳も結構離れていますからね。彼がリーダー的存在であることは薄々気づいていましたし、急進的だという噂も聞いていました。ですが、左翼がモテるなんていうのは昭和半ばの死語みたいな法則です。今時の娘になら鬱陶しいだけだと決めつけていました。だが経緯はどうあれ、麗子さんは性を体験してしまった。家庭が厳格だった分、解放感も大きかったんでしょう。相手を盲信してしまう若さは、非難できないかもしれません。弓削が暴力的極左グループの秘密組織員だったことも、後に分かりました――』

 猿橋が背筋を伸ばす。

『教授、もう一度確認させてください。本当に、何もかも正直に答えてくれるんですよね?』

 返事にためらいはない。

『ええ。思い残すことは、もうありませんから』

『では伺います。弓削と麗子さんを近づけることを、最初から企んでいたんじゃないですか?』

『なんのために?』

『南家を破壊したかった、とか?』

『娘の復讐――ですか? そうですね……例えば当時の首相とか知事になら、そんな復讐心を抱いたかもしれません。私だってただの人間ですから、今でも恨む気持ちは燻っています。ですが、今の厚労省は全く関係ない。南家はなおさら無縁です』

『でも、政府や官僚組織は嫌っているんでしょう?』

『嫌いなんじゃない。歪みを正したいだけです。省益や私欲ではなく、国民を守るという責任を全うする公僕に徹して欲しいだけです。変えるために、国民に真実を知って欲しかっただけです。決して破壊が目的だったわけじゃない』

『個人的な恨みもなかったと断言できます?』

『もちろん。そもそも、2人が恋愛関係になろうと、弓削が麗子さんを利用しようと、そこから先に何が起きるかなんて予測できません。私が何らかの目的を持って誘導しようにも、麗子さんはそれ以降カウンセリングには来ませんでしたしね』

『弓削とはどんな知り合いでしたか?』

『個人的には何も。サークルに出入りしているOBがいるという話を聞いていた程度です。顔を合わせたこともありませんでした』

 猿橋がマジックミラーを見る。

 高山が、モニターに集中する岸本に言った。

「データはどうだ?」

「嘘はないですね。あっても、私には見抜けません」

 高山がマイクを入れる。

「今のところ、明確な嘘はないようだ」

 篠原が堪え切れないように加わる。

『そのサークルは誘拐直後に調査に向かわせましたが、弓削との交友関係は全く浮かんできませんでした。なぜだと思います?』

『2人とも隠していたからですよ。弓削には、いつか南家を利用しようという魂胆がある。麗子さんは、付き合いを知られたら親に妨害される。だからサークルの仲間にも明かさなかった。それだけです』

 猿橋はかすかにうなずき、質問に戻る。

『教授はその後に麗子さんと再び会うことになった――ということですか?』

『1年ぐらいして、再び南美春さんから連絡がありました。「また娘の様子がおかしいので会って欲しい。ただし、極秘に」と。特に父親には知られないように、念を押されました。正式に病院を通すとカルテが残って世間体が悪いというので、個人的な面談のような形を希望していました』

『確かに、記録にはありませんね……なぜ秘密にしたかったのでしょう?』

『性的関係に気づいたからでしょう。母親、ですから。しかし確信が持てるまでは、父親には知らせたくなかったということです。高級官僚の娘は、一種の政略結婚の手段でもありますから』

『麗子さんが会いに来たんですか?』

『いいえ。職務外の行動でしたから、私の方から学校へ行きました。帰り道でうまく捕まえることができました』

『母親はそのことを警察には話していません。隠していたのはなぜだと思いますか?』

『そもそも、狂言誘拐を疑っていたのでしょう。そこは、警察で追求してください』

『もちろんですけど。で、あなたは麗子さんに会ってどうしたんですか?』

『顔を見た瞬間に、何か企んでいると直感しました。私を見て、明らかに怯えていましたから』

『狂言誘拐を目論んでいた、と?』

『その時は方法までは分かりませんでしたが、父親から何かを奪おうと狙っているようでした。ですから私は同情を装いながら、「娘が理不尽な世の中に殺されたことを恨んでいる」と一方的に打ち明けました。運が良ければ企みに加担できるかも、と期待したんです。加わってどうするかまでは考えませんでしたが。案の定、その後に弓削から連絡が来ました。その際に、突っ込んだ話を持ちかけたんです。「老年なのにいつまで経っても学内での地位が低い、これは差別だ、この先を考えると金が欲しい、自分を貶めた世の中に復讐して大金を奪い取りたい――」とね……。狂言誘拐の計画を打ち明けられてからは、3人で細部を煮詰めていきました。ただし、絶対に人は傷つけないことは掟にしようと、事あるごとに念を押しました。彼らの計画は行き当たりばったりで、穴だらけでしたからね。極左指向が強い弓削は仕事仲間にも馴染めず、社会を恨むと同時に破滅願望があったようです。麗子さんを道連れにしようと企んでいるようにしか見えませんでした。私が間に入ることで、2人とも冷静さを取り戻して現実的な計画を練るようになりました。弓削は極左グループの指示によって麗子さんを操っていたことも分かりました。そのグループは公安の摘発を恐れて、積極的な関与はためらっていたようでしたけど。一方で、麗子さんには並々ならない演技の才能があった。厳格な父親を満足させるために、そしてお嬢様たちと円満に付き合うために、自然と身についた処世術だったようです。しかも弓削を信じ切っていたようなので、誘拐の芝居には積極的でした』

『その時はすでに誘拐を利用しようと考えていたのね?』

『狂言誘拐の件を聞いたときから、次第に膨らんできた計画です。募金サイトは私のアイデアです。弓削らは寄付を装いながら支配下の団体への献金を得る。麗子さんは政官界の不正を暴くことで父親への恨みを晴らす。そして私は警察に入り込み、マスコミを操って娘の死を広く訴える――皆が満足できるプランだったと思います。もちろん、私の本心は明かしませんでしたがね。警察を恨んでいるからブチ壊したいという言い訳を、他愛なく信じてくれました。で、どんどん計画が進んでいったわけです』

『極左グループの力はどの程度使ったの?』

『私には爆弾の知識はありませんから、そこは頼りました。弓削の仲間には手製兵器としての爆発物の専門家もいました。ハッキングとか情報操作の担当もいるようです。そんな連中ですから、いつかはテロを起こすことを画策していたんでしょう。私の計画の実現性を認めて、バックアップする覚悟を決めたようでした。アメリカでさえ、極左革命もどきの暴力や領域支配がはびこっています。近々、この日本でも多くの人命を奪うテロ事件を起こしたはずです。外国勢力の介入を引き込むチャンスを窺っているようにしか思えませんでしたから』

『でも、結局はあなたが立てた計画が極左団体の正体を暴いてしまった。彼らの計画を失敗させたかったの?』

『それも私の目的ではありました。あんな危険な爆弾を作る連中を野放しにしておくわけにはいかない。活動資金を与えるもの危険だ。計画が進むうちに、組織を一掃したいと願うようになりました。私の娘のような犠牲者は、政府や官僚だけが産むわけじゃありませんから。だから警察を利用させてもらったんです』

『やっぱり計画の一部だったのね』

『背後の極左グループを見抜けるように、不自然にならない程度の手がかりを残しました。日本の警察は優秀ですから、必ず発見できると確信していました。全国の組織を動員すれば、弓削たちを一網打尽にすることもできるはずです。ましてこんな大事件を犯した後なら、逮捕に反対する世論は起きないでしょう。ですので私は、爆弾が被害者を出さないように腐心しました。人的被害があれば、世論は一瞬で逆に振れるでしょうから。今後のために爆弾の作り方を知っておきたいと言って、できるだけ仕組みを調べました。で、宅配トラックに仕掛けた起爆スイッチを何重にも無効化したんです。都内に仕掛けた爆弾自体も不活性化しています。でも彼らが私の工作に気付いて再起動した可能性はありますので、解除には気をつけてください。場所は後でお知らせします。彼らの中に入り込むことで、他の関連グループの情報も掴めました。具体的な名前や所在も、後ほどお教えしますよ。今明かして記者に知られると、逃亡を手助けされるかもしれませんから』

 篠原が間に入ってカメラをにらむ。

『話が途中ですが、記者諸君に言っておきます。この件はしばらくは報道しないで――いや、社にも漏らさないように。もしも結果的にテロリストの逃亡を幇助するようなことがあれば、あなたたち個人に対しても強烈な法的措置を取ります。逃亡したテロリストが事件を起こすなら、共犯者として同等の罪を負ってもらいます。くれぐれも、職を失うだけで済むなどとは思わないように。繰り返します。万が一の際は、今そこにいる記者個人に対して、徹底的な制裁を加えます。それが社内の出世に見合うなどという幻想は、絶対に抱かないように』そして中里を見た。『すみませんでした。続けてください』

 中里が小さく肩をすくめる。

『もう付け加えることはないかもしれませんね。質問があればお答えしますが』

『記者たちも、ここまで分かれば満足でしょう。警察としては細々した情報の裏付けが必要なので、当分は付き合っていただきます』そして篠原はマジックミラーを見る。『記者クラブとの回線を切断してください』

 岸本がうなづく。

「ようやく通常業務に復帰……ですか」

 そして、コンソールを操作して回線を切る。マジックミラーの向こうでも、記者クラブ内を映していたモニターが真っ黒に変わった。

 高山が長いため息をもらす。

「長かった……」腕時計を見る。「たった数時間なのにな……。警察の頂点、警視庁本部がこうも容易く陥落させられるとは……」

「お疲れ様でした」

「大変なのはこれからかもな。篠原さんはしばらくあっちに籠るだろう。つまり、俺がお偉方をなだめるしかないってことだ」

「苦情対応は通常業務でしょう? 現場上がりの迫力をちらつかせれば、黙るんじゃないんですか?」

「まあ、こっちにも手駒ができたからな。キャリアさんたちにとっては、お仲間の身の安全が一番の関心事だ。マスコミに持ち込まれる不正事案を精査すれば、中には地雷も混じってるに違いない。そいつがあれば、現場を守るための交渉も可能だろうよ」

「うわ……政治家みたいじゃないですか」

「政治なんだよ。上に行けば行くほど、な。それが現実だ。篠原さんは風邪だとか言ってたが、たぶん嘘だ。何度かやり過ぎを責められていたようだし、板挟みに苦しんでいたんだろう」

「理系の天才なんでしょう? 警察なんてやめちゃえばいいのに」

「そうしたくない〝何か〟を見つけたんだろうよ。俺だって、いつの間にかどっぷりだしな……。ほんと、人間てのは不思議なものだ。中里が現実にブチ切れてこんな荒技に出たって気持ち、分からんでもない。まるで、悲鳴をあげてるみたいだったな……」

 じっと取調室を観察していたシナバーが、言った。

「今度は最初から声をかけてくださいね」

 高山がうんざりしたように見つめる。

「ぐーたら眠ってたんだろう? 携帯切ってるから、居場所を探すのも苦労したんだぞ」

「もう電源は切らないから、叩き起こして。こんな珍しい事件、見逃したなんて悔しくて。しのさんが折られそうになるなんて、次にいつあるか分かんないもの」

 岸本も加わる。

「自分はもうたくさんです。自信、失っちゃいますから……」

 シナバーが身を乗り出す。

「だったら、ここの機材の使い方教えて! 次からあたしが担当する!」

 高山がため息をもらす。

「篠原さんの周りには、どうしてこんなぶっ飛んだ連中ばかり集まるんだかな……」

 取調室の中では、篠原がぐったりとうつむいていた。精魂尽き果て、話す気力も失っているようだ。

 中里も、穏やかな表情で目を閉じていた。座ったまま眠っているようにも見える。だが、かすかに浮かべた笑顔が、満足感を現している。

 猿橋が、何かを考え込みながらつぶやく。

『やっぱり目的は、娘さんに関係することだったのね』

 中里は目も開かずに答えた。

『分かってましたか? まあ、同業者なら当然ですかね……』

『確信はなかったけど、教授は思想的に一貫性がなかったから。お金にも執着していない。なのに、娘さんのことだけはやけにはっきり否定していた。あの事件が鍵だってことは、最初から感じていた。なかなか鍵穴が見つからなかったけど』

『だったら、なぜ止めなかったんですか? あなたが中止だと言えば、中継だって止められたかもしれないのに』

『止めて欲しかった?』

『いいえ。それでは何もかも無駄になります』

『でしょう? わたしも、止めたくなかったから』

『なぜ?』

『最後まで見届けないとね。教授の心は、それほど興味深いの』

『警察なのに?』

『職場は警察だけど、警官じゃないし。それに、あなたが人を傷つけないことは確信していたから』

 中里は沈黙した。

 高山が不穏な気配を察してつぶやく。

「サル……お前、今さら何をしようとしている?」

 岸本はモニターから目を離さないまま応えた。

「あいつの心の底を暴こうとしてるんでしょう……ほら、動揺がモニターに出てきました。あれ……? なんだろう……また初めての反応です。自分までドキドキしてきた。人の心って、どうしてこんなに不思議なんだろう……」

 高山のつぶやきは、ほとんど泣き声だ。

「まだ終わってないのか……? これ以上何が出てくるっていうんだ……?」

 猿橋は何か決意したかのように、不意に厳しい眼光を放った。そして、断言した。

『教授……あなた、まだ隠し事してますよね?』

 中里はまだ目を開かない。

『何が聞きたいんですか?』

『娘さんの、死』

 中里はピクリとも動かない。

『娘の死の、何が知りたいんです? 必要なことは話したはずです。話したことに、嘘はありません』

『知りたいのは、教授が話さなかったこと。単にわたしの好奇心だと思って。教授をここまで追い込んだ本当の理由が知りたいだけだから』

 篠原が顔を上げ、猿橋を見る。

 猿橋は、意外にも目にかすかな涙を浮かべていた。

 篠原には、その理由が理解できない様子だ。

 中里は依然、目を閉じたままだ。

『猿橋さん……もう分かっているんでしょう?』

『たぶん……。あなたの火傷……背中にばっかりあること、見ちゃったから……。それが〝鍵穴〟だって、気付いちゃったから……』

 中里が観念したかのように重たいため息をもらす。

『当然ですよ……。私は、泣き叫ぶ娘に覆いかぶさって炎を遮っていたんですから……』

『でも、あなたは生きている……』

『どうしても私の口から言わせたいんですか?』

『処罰は受け入れるんでしょう?』

『むしろ、願っています。でも、やはり話すのはつらい……今はまだ、気持ちが……』

『覚悟は決めているんでしょう?』

『でなければ、ここには来られません』

『だったら――』

『分かっているなら、ためらう理由も察してください。もう少し……少しだけでいいですから、時間をください』

『隠し通す気?』

『とんでもない。必ず話します。そのために来たんです。当時の映像だって、動かぬ証拠になるからこそ公開したんです……』

『それなら、これもカウンセリングよ。処罰を受け入れるなら、自分の心も救ってあげて。事実を口に出せば、それと折り合うことも可能かもしれない。もう記者たちだって聞いていないんだから』

『だけど、それ……知ってしまったら、本当に警視庁が崩壊するかも……ですけど?』

『どういうこと?』

『今のあなた方にも、関係がないわけではない……そういうことです』

 猿橋の表情が引き締まる。わずかな間の後に、決意を口に出す。

『それでも、確かめないわけにはいかない……。なぜ、あなたがこんなに追い詰められたのか……警察は、もう知らずに済ますことはできない……。教えてください。あなたの火傷の意味を』

 中里はかすかに、引きつった笑みを浮かべる。

『カウンセリングっていうのは……やっぱり受ける側にとってつらいものですね……』

『でも、あなたはそのつらさを求めている』

『お見通し……ですか』中里はようやく目を開いて、猿橋を見つめた。無表情に戻って、つぶやく。『……娘は、懇願するような目で私を見上げていました。仲が良かった父親が、自分の首を締めていることが理解できないようでした。私が泣いている理由も分からないようでした。まだ幼かったですからね……。お父さん、やめてって……声が聞こえたようでした。それでも、手を離すわけにはいかなかった。私の背中は焼けている。娘の足も焼けている。もはや救ける力は残っていない。でも娘には、まだ息も感覚もある。生きながら焼かれていく……そんな苦痛を娘に与えたい父親がいますか……? 私は……まだ息がある娘を、殺したんです。力一杯首を絞めて、殺したんです。自分の手で……娘を締め殺したんです。娘の最後の記憶は、父親に殺される恐怖でしかなかったんです。そして妻は、一部始終を見ていた……。何もできずに、言葉も出せずに……ただ立ちすくんでいた……。あの場で一緒に死んでいれば……少なくとも私は、そのつもりだった……。他に選択肢なんかないじゃないですか……。だけど、どこからか現れた自衛官に掴まれて引き剥がされてしまった。彼らが10分早く来てくれれば、娘は助かったかもしれない。重傷を負っても、命は助かったかもしれない。10分遅く来てくれれば、私は一緒に死ねたかもしれない。なのに、こんな結果に……。火傷の治療がひと段落したのちに、娘を手にかけたことを警察に話しました。私は罰せられなければならなかったんです。しかし現場の狂乱状態の中で、まともに相手にされませんでした。警察は、やらなければならないことが多過ぎたんです。事態が落ち着いて、改めて出頭しました。皆、話は聞いてくれました。同情もしてくれました。そして結局、警察の一室に招かれました。そこで若い本部長から頼まれたんです。この話が事実だとしても、一切口外しないでほしい……私を罰したくはない、と……。そうでなくても、おびただしい死者が出ていましたからね。信じてくれなかったのか、娘を殺したと言う私に同情したのか……。だから私は、映像を探したんです。病院の知り合いに頼み込んで、ようやく手にすることができました。ですが警察は、その記録を見ようともしませんでした。ほとんどの警官も何かしら失っていましたから、早く忘れてしまいたかったんでしょう。あるいは、警察の能力不足を糾弾されたくないとか、一種の不祥事の扱いだったのか……。現場を知らない日本中の野次馬にとっては、政府を非難する格好の口実になったりするでしょうから……。結果として、記録さえ残さなかったようです。事実がどうだったのかは、私には分かりません。それ以上考える力も行動する気力も失っていたんです……。だから私も、易々諾々と従ってしまったんです。その結果が、今なんです……』

『当時の県警本部長って……』

『あなた方の上司……今の警視総監ですよ……』

 猿橋が一瞬、息を呑む。

『まさか……』

 篠原がつぶやいた。

『……だから、警視庁を狙ったんですか……?』

 中里は淡々と応えた。

『たまたま……ですよ。別に、恨みとか悪意があるわけじゃありません。これが、私の国なんだ……というだけのことです。願いを叶えるには、こうするしかなかっただけです。私の弱さが招いた結果です。誰が悪いわけじゃありません。全部、信念や善意が折り重なって出来上がった偶然なんです。自衛隊の投入に反対したのも、彼らなりの信念かもしれない。私を救い出したのも、彼らなりの善意でしょう。私の罪を無かったことにしたのも、思いやりだったのでしょう。でもその偶然が、こんな結果を生むんです……。善意は、心を明るく照らす光だという人も多い。それはきっと、そうなのでしょう。だけど光は、闇を作る。たまたまその闇に呑まれたからといって、誰も恨むことはできない。でも、自分を許すこともできない。だからといって、自殺しただけじゃ何も変わらない……。娘の死が、無意味になってしまう。私は、私自身の手で娘を殺した。なぜそうしなければならなかったか……最後まで見て欲しかった。そして考えて欲しかった。闇は光を作れないけれど……ここに闇があることだけは知らせられる。知って欲しかったんです。闇の中に何があるかを、考えるために。今の日本に、同じような悲劇を起こさないという覚悟があるのか……。我が子を手にかけずに済む強さがあるのか……。あなたがたは、私がこんな犯罪を犯した本当の理由が知りたいんでしょう? 現実を知らせたい……それが動機の半分です。私の人生は、そのためだけにありました。幸い、望みは叶えられた。あと半分も、ようやく叶えられる――』

 途切れた言葉の先を、猿橋が促す。

『それは……?』

『それは……あなたの仕事です』

『は? わたしに何を?』

『私を罰してください。娘を殺した父親として、正当に処罰されなければならないんです……。そんなことをしても、自分は許せません。だけど……自分は許せなくとも、娘に謝りに行ける……私が支えられなかった妻に……謝りに行ける……』

 そして中里は言葉を終えた。

 わずかな沈黙の後に、篠原がうめく。

『そうだったのか……』

 中里は涙を浮かべた目で、篠原を見た。

『監視カメラの映像、不鮮明ですけど。分析すればきっと事実が分かると思います。あとのことは、全部お任せしますよ。法に従い、あなたが満足できるように、裁いてください。ぜひ今度こそ、正義の処罰を――。私には……そんな権利はないかもしれないけど……私を……闇から連れ出してください』

 そして中里は、再びゆっくりと目を閉じた。目尻に光る涙は、消えなかった。

                                                         

                                  ――了

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【理系警視3】警視庁、陥落。 岡 辰郎 @cathands

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