第4章・感想戦

10−1・引退【取調室】

 篠原にスケッチブックを奪われた中里が、言った。

「まず、お教えしておきましょう。弓削たちが作った爆弾は本物ですが、仕掛けたのは私です。彼ら、公安に捕捉されることを極端に嫌ってましたのでね。3個全て軽ワゴンに乗せて駐車場に放置しましたが、起爆装置は無力化しています。冷凍車側の発信装置も麗子さんを運んだ際に解除しました。ですから、爆発の心配はありません」

 席に戻った篠原が懇願するように言った。

「嘘ではないんでしょうね⁉」

「あと、そう……10分程度でしょうか。起爆予定の時間がくれば分かります。死傷者を出したくないということは、信じてください」

「だったら、なぜこんな人騒がせな……」

 猿橋は、タブレットで中里が書いたURLを開いていた。思わず声に出す。

「何よ、これ……」

 その先は、言葉を続けられない。あまりの不可解さに、考えが追いつかないと言った様子だ。

 画面を覗き込んだ篠原が、中里を見る。

「これ、なんの画像ですか? なぜこんなものを……?」

 タブレットには、モノクロのムービーが表示されていた。保安カメラのような無音の荒い映像で、しかも古そうだ。大きな駐車場を写しているようだ。それが、早回しになっている。まるで、サイレント時代の映画のようだ。

 だが、内容は見て取れる。

 画面のほんの片隅に、潰れた木造家屋が写っていた。誰かが下敷きになっているらしい。その人物を助け出そうとしているのか、数人が周囲を慌ただしく行ったり来たりしている。その中で1人だけが、瓦礫を排除しようと奮闘し続けている――。

 中里が穏やかに言った。

「3つのURL、全部に同じムービーを貼りました。URLはテレビで公開しましたから、一般からのアクセスもあるでしょう。数が増えれば、サーバがパンクするかもしれない。だから、複数用意したんです。3つとも見られなくなる前に、誰かが保存して公開を始めるに違いない。ちなみに、私は著作権なんか主張しません。切り貼りだろうが面白半分だろうが……残酷画像のコレクションだっていい。勝手に拡散してもらって結構。私のテレビジャックの根本原因となった映像ですから、世間の関心も高いはずです。アクセス数を稼いで広告収入にありつこうというユーチューバーもいるでしょう。この先、たとえ規制がかけられたとしても、モグラ叩きのように現れてくる……とにかく、1人でも多くの人に現実を直視してもらいたい。それが私の願いです」

 篠原が繰り返す。

「だから、なんなんだ、これは……」

 中里は淡々と続ける。

「不可解な狂言誘拐、大袈裟なテロもどきの爆発、そして次々に暴かれていく政官界の不正――報道を封じようとしても、騒ぎは当面収まらないでしょうね。というか、刺激を求める国民が情報の封殺を許さない。マスコミはそれに応えるのが商売だ。そして事件の原因は全て私のワガママで、そこにはいつもこの映像が付いて回る。だから、決して忘れられることはない。人々が事件を語る時、この映像が必ず登場する。全ての人の脳裏にこの映像を焼き付ける……それこそが私の計画の〝アガリ〟です」

 画面に見入ったまま、打ちのめされたように言葉を失っていた猿橋がつぶやく。

「この人、あなたなの……?」

「私ですよ、30年近く前の……」

 篠原が猿橋の横顔をうかがう。

「はい? どういうことですか?」

 猿橋は中里に目を移す。

「そして、瓦礫に下にいるのは……あなたの娘さん……」

 篠原にもようやく理解できる。

「阪神大震災ですか……。だが、なぜこんな映像を……?」

 中里がうなずく。

「できるだけたくさんの人に見てもらいたい……そして、考えてもらいたいからです」

「見せたいだけなら、マスコミとかに訴えればいいじゃありませんか! そもそもネットで公開してるんだし! そんなことのためにこんな大事件を起こしたんですか⁉」

「マスコミが信じられれば、それでもいいでしょう。ですが、信じられますか? 日本のマスコミは、報道しない自由を当然の権利とし、捏造さえはばからない。日本だけじゃない。アメリカの大統領選挙では、マスコミが世論操作に血道を上げていることが暴かれてしまった。今じゃ、自由な言論空間であったはずのネットにまで規制がはびこっている。そんな場所にこの映像を投げ出したところで、黙殺されることは間違いないでしょう」

「消せば増えるんでしょう?」

「事件を起こした今なら、爆発的に増殖するでしょう。この映像こそが根本原因なんですから」

「そうじゃなくても、誰かが広める」

「運が良ければ、ですよ。それも、宝くじを当てて家を建てるほどの強運が必要です。炎上が期待できるなら、別の方法もあったでしょう。だが阪神大震災は四半世紀以上前のことで、ほとんどの日本人はもはや関心を持っていない。しかも地味な保安カメラ映像です。事実は、その隅っこに写っているだけだ。短くて人目を引く映像が氾濫するネットでは、無視されるのがオチです。よほど注意して見なければ、その意味は理解できない。娘の死を、そんな賭けには使えない。だが今なら、大半の日本人がこの記録を目にする。誘拐事件とどんな関係があるのか、目を凝らしてくれる。全てはそのための行動でした」

「こんな映像がなぜ手に入ったんですか?」

「駐車場は、私が時々勤めていた病院のものです。管理部にも知り合いがいて、頼み込んで映像をダビングしたんです」

「なぜそんなことを……?」

「事実の記録ですから。娘を助けられなかった自分への戒めとして、持っていなければならなかったんです。今では、これは誰もが知るべき記録だと思っています」

「その望みは、これほどの犯罪を正当化できるんですか?」

「正当化など望んでいません。好きなように罰してくれて構いません。ただ、今しばらく私の言葉をテレビに流していただきたい。なぜこの画像を広めたいのか、私自身が説明します。ほんの数分で事足りますから」

「これ以上あなたの勝手を許す訳にはいきません。回線は直ちに遮断します」篠原はカメラに向かう。「記者の皆さん。中継はここまでです。高山さん、すぐに回線を遮断させて――」

 その指示が終わる前に、中里が叫ぶ。

「切ったら、私は黙秘します! 今後一切、この事件に関しては何も話しません!」

「そんなことは許されません!」

「許可など要りません。最初から処罰は覚悟してるんですから。で、あなたはどうしますか? 拷問で事実を引き出しますか? 薬物でも注射して喋らせますか? 日本の警察は、そんなことはできないんでしょう? そのための可視化なんでしょう? 結果、事実は永遠に明かされずに終わる。世間やマスコミには無責任で扇情的な憶測が溢れかえる。そして常に、警察はその無能さを嘲笑われる」

「警察を笑い物にしたいんですか⁉」

「『警視庁を崩壊させる』と宣言したはずです」

「まだそんなことを⁉」

「私は、今この場でなら、そして記者さんたちの見ている前でなら、何もかも話すと言っているんです。事件の経緯、私の本心、警察が問うことの全てに正直に答えます。どちらを選ぶか、あなたが決めてください」

「あなたの言葉は何も信用できません」

 猿橋がポツリと言った。

「嘘じゃないと思います……いえ、嘘ではないと断定します」

 篠原が猿橋をにらむ。

「何度も騙されたでしょう⁉ 散々振り回されたのに⁉」

 その大袈裟な態度は、猿橋の能力を信じて追求を任せるという指示に等しかった。

「隠し事は多かったし、騙されもしました。でもここが最後の目的地なら、もう嘘の意味はない。教授が全てに答えると口にしたなら、それもまた嘘ではないでしょう」

 篠原は何かを言いかけたが、言葉を呑み込む。わずかに考えた末に、中里に向かう。

 それもまた、マスコミの前で猿橋を対決させるための下準備だ。

「これ以上、誰かに危害を加えることはないですね?」

「もちろんです」

「猿橋さんの言い分を信じていいですか?」

「それ、私に聞くんですか?」

「答えてください。1つでも嘘をつけば、テレビの視聴者が目撃します。あなたが何を訴えようと、誰も信じなくなりますよ」

「問われたことには、全て隠し事なく答えます」

「誰かを告発したいんですか?」

「いいえ。世の中にはびこる不正はただしたいですが、私ができる仕事は全て終わりました。あとは、こんな事態を引き起こした理由を説明したいだけです」

 篠原の目が猿橋に向かう。

「猿橋さん、あなたは賭けられますか?」

「何を?」

「全てを」

「わたしが決めるってこと?」

「そうです。犯罪心理学に関しては、あなたの方が多く現場を知っていますから」

 猿橋が間髪入れずに繰り返す。

「問題ないと断言します。どっちみち動機の解明は必要ですし、それが分かれば記者発表もしなければなりませんから。変に隠せば、世間から追及されるし、不用意な憶測も生むでしょう。もし動機が解明できなければ、警察が無能扱いされます。そもそも、犯罪自体がすでに公衆の面前に晒されています。ここに及んで隠蔽など図れば、余計に収拾がつかなくなります」

 篠原は猿橋の本心を読んでいたようだった。

「あなた……こいつの頭の中が知りたいだけなんじゃないんですか?」

 猿橋は悪びれない。

「いけませんか? それ、あたしの仕事なんで」

 篠原が苦笑する。

「いや……あなたはそんな人でしたね。確かに、動機を明らかにしなければ捜査も完結しません。ただし、記者の前で何を喋られるか分からないのはまずいかも……」

 イヤホンで岸本が言った。

『中里に「嘘は言っていない」と断言させてください。データを確認します』

 篠原が中里に向かう。

「嘘は言っていないと、断言してください」そして加える。「鏡の向こうで、FBI出身の天才がデータを読んでいます。少しでも嘘があれば、必ず見抜きます。あなたの言いなりにはなれませんので」

 それは、中里に心理的圧力をかけるためにあえて選んだ言葉だった。常人なら、少しでも嘘が混じれば緊張は避けられない。緊張を見せまいと意識すれば、余計に拡大される。その効果を狙ったのだ。

 だが、これまで一貫して自制心を失うことがなかった中里に、ありきたりな手法が通じるかは未知数だ。

 中里にも篠原の意図が読めたようだった。

「嘘は言っていません。だから緊張とも無縁です。ようやく辿り着いた最後の障壁ですから、ここまで来られただけで安堵しています。繰り返しましょう。私は嘘は言っていない。また、今後も嘘はつかない――そう、断言します」

 わずかな間を置いて、岸本が答える。

『嘘の兆候はありません。私もサルさんに賛成です』

 篠原がうなずく。

「分かりました」

 それでも篠原の表情は、曇ったままだ。

 篠原の迷いが、中里にも伝わる。

「5分、ください。それが終われば、回線を切って構いません。それ以後の質問にも、全て隠し事なく答えますから」

 イヤホンに高山の声が入る。

『上はカンカンだぞ。すぐに中継を切れと言ってきてる』

 猿橋が、すがるように篠原の腕を掴む。ひたすらに、中里の本心を解明することを願っているのだ。同時にそれは、警察が成すべき仕事の一環でもある。

 大爆発のリミットが近づいていた。その時点を過ぎれば、中里の言葉は裏付けを得る。

 篠原は決断した。

「爆発が起きるなら、もう防ぐ余裕はないですね。あと……」そして時刻が表示されているテレビ画面を確認してから、中里に目を移す。「3分です。余裕を見て、5分間待ちます。そこで爆発が起きなければ、あなたを信じます。ただし、あらかじめ警告しておきます。あなたの発言が犯罪被害を拡大する恐れがあると判断したら、即座に、そして強制的に中継を遮断します。それは構いませんね?」

「放送、認めてもらえますか?」

「認めましょう」

 イヤホンに高山の悲鳴が入る。

『総監から中止要求だ! 考え直せ!』

 篠原はテーブル角のカメラを見据えた。その視線は記者ではなく、モニターを注視する総監たちに向かっている。だが同時にこの画面がリアルタイムでテレビ画面に映されていることも理解していた。

 その言葉に迷いはなかった。

「僕に委ねられた権限をもって、中里氏の中継を継続します。それは、国民全てが知るべき内容が語られるだろうと推測するからです。もしもこの判断に異議がありましたら、即刻僕の権限を停止してください。責任を持つ立場からの然るべき命令が下されるなら、僕は一公務員として無条件に従います。直ちにこの取調室に来て、公開の場で僕を解任してください」

 そして篠原は椅子にもたれて目を閉じた。

 篠原に実質的に命令を下せるのは、捜査一課長、刑事部部長だ。副総監や総監から直接指示されることは、まずない。

 しかし課長が解任を命じれば、それは総監の了解の下に行われたと理解される。事件が全国的な注目を集めている以上、それは避け難い。結果的に警察行政のトップである国務大臣、国家公安委員長の責任まで追及されることになる。現内閣を揺るがす〝大事件〟に発展しかねない。

 篠原は、中止命令が下ることを覚悟していた。それは同時に、厳しい懲戒処分を伴うはずだ。だが、上官の誰かが国の命運を左右する責任を負う覚悟を持っているかどうかは、予測がつかない。

 高山がイヤホンでつぶやく。

『本気かよ……これまで積み上げた努力を無にする気か……?』

 篠原はかすかに微笑む。

「ヤマさん……なんででしょうね。ここで日和ったら、僕を支えてくれる仲間たちが許してくれないような気がするんだ……」

『そんなことして、なんの得がある……? あなたには、まだやって欲しい仕事があるのに……』

 誰もが口を開けないまま、時間が過ぎていく――。

 篠原は呼吸を整え、再び時刻を確認する。

 そして、長い3分間が過ぎた。

 高山が言った。

『爆発の報告はない。上からの中止命令も止まってる……。また総監室と連絡が取れなくなったそうだ……』

 それは、上層部が方針を決定したことを意味した。

 全責任を篠原管理官に委ねたまま、事態を終わらせる――ということだ。総監たちの沈黙をいいことに、部長も課長も動きを取らない。

 取れないのだ。

 篠原は再び目を閉じた。さらに時が過ぎる。

 中里が沈黙を破る。

「あれから5分、過ぎましたよ」

 イヤホンに高山の声。

『相変わらず上は沈黙だ。最後の忠告だ。中継を止めろ』

 篠原はマジックミラーを見た。そして、迷いが晴れたように言い切った。

「それって本心じゃないでしょう?」

『あなたのためなんだ!』

「今さら中断しても、国民も記者も納得しませんよ。中里氏の言い分は、いずれ発表を求められます。だったら、止めても無意味でしょう? 警察は国民からの支持も失います」

『あんたこそ職を失うぞ』

「次の仕事を探す自信はありますから。そうと決まったわけでもないですしね」

『俺たちも道連れにする気か?』

 これまで沈黙していた猿橋が肩をすくめる。

「大事にはならない。それが犯罪心理学者としての意見」

『サルはこいつの話を聞きたいだけなんだろう? ……だが、実は俺も聞きたい』

「共犯ね」

『どうせ退職間近だし、俺は構わん』

 篠原が中里を見つめた。

「あと5分間だけ中継を続けます。その後はテレビとの回線は切って、記者クラブのみへの公開とします。ただし、その後も中継を続けるような社があれば、今後一切クラブへの出入りは禁止します。それでどうですか?」

「いいでしょう。今から5分、私にください」

「記者諸君、今のを聞きましたね。くれぐれも、その約束を守ってください。では、今から開始です。中里さん、お話をどうぞ」

 中里は数回の深呼吸で気持ちを鎮めてから、ゆっくりと話し始めた。

「私は、ある大学の助教です。公開したURLに貼った映像は、阪神大震災の被害の様子です。潰れた家の下には私の娘がいて、それを助けようとしているのが私です……。地震は単なる災害です。特に阪神大震災は、専門の学者ですら予見できなかった――いってみれば、事件にも等しい出来事です。たまたま娘が、私が関わっている病院の近くの友人の家に泊まっていた……たまたまその家が木造で一部が崩壊した……たまたまその家族は全員かすり傷も負わずに助かり……たまたま私の娘は倒れた柱に足を挟まれて動けなくなった……何もかも偶然の積み重ねで起きた不幸です。だが私は、娘のもとに辿り着いたのに、瓦礫を取り除くことができなかった。人間1人の力では、到底不可能だったんです。妻は助けを求めて奔走したが、手を貸す余裕のある人間は見つけられなかった……。娘を泊めた家族は、いつの間にか避難所を探して去っていた……。そして周囲に火の手が上がり、瓦礫にまで燃え移り……娘は炎に巻かれて死んだ……。足だけの切断で救出できたのなら、あるいは試みていたかもしれません。でも瓦礫が邪魔をしていて、やるなら胴体の真ん中を切るしかなかった……。何もかも、偶然で……不運な偶然に過ぎません……。被災直後は、そう考えて……そう考えるしか、ありませんでした」

 そして中里は、言葉を切って息を整えた。話を続けるには、覚悟が必要なようだった。

 イヤホンで岸本が言った。

『いよいよ本心を見せるようです……』

 中里の口調は、淡々としている。

「しかし、次第に事実が明らかになっていきました。娘が焼け死んでいった時、すでに神戸港には海上自衛隊が待機していた。出動要請さえあれば、いつでも救助に向かえる体制だった。だが、首相は指示をためらい、知事は自衛隊の介入を嫌い、労働組合は『戦争の手先を招き入れるな』と反対した……。陸上自衛隊は潰れた車すら撤去できずに、足を止められた。個人の財産は侵せないという法律に阻まれて、強制的に排除することすらできなかった……。それらが事実なのか、ただの噂話や組織の言い訳なのか、私には確かめようがなかった。誰が娘の救助を邪魔したのか、邪魔が入らなければ娘は助かったのか、それすらも分からない。一介の大学教員では、知りようがない……。だから私は娘を見殺しにした世の中の仕組みを解明したくて、臨床心理士の資格を取りました。東京キャンパスへの転属も願い出ました。実績を上げて名声を獲得し、官僚や実力者たちに浸透して情報を得ようと……。権力者の家族の秘密を手に入れるための手段として……」

 苦しげに言葉を飲み込む中里に、猿橋が先を促す。

「それで、何か掴めましたか?」

「何も。私のような下っ端には重要人物の関係者は回ってきませんでしたから。欲しい情報は、もっぱら公の報道に頼るしかなかった。実際、自衛隊は体制の不備を謝罪し、政治家や役人も全力を尽くしたと主張しました。保身かもしれないし、本当に彼らが正しいのかもしれない。誰1人、被害を拡大させようなどとは考えていなかったでしょう。だが、娘は死んだ。自衛隊があと1時間早く行動できていれば、多分娘は助かっていた。たとえ一生歩けなくなったとしても、生きていたでしょう。娘の死は、ただの不運に過ぎない……そう心から信じられれば、どんなに良かったか。だが日本は、私にその平穏を与えてはくれなかった。震災が大きく報道されるたびに、日本という国の歪みが娘を殺したのだとしか思えなくなった。関わった人々が自分の正しさを主張するたびに、迷いが深まっていった。たぶん、地震は来ない……問題があると分かっていても、口に出しちゃいけない……そんなことは他の誰かが考えればいいんだ……悪いのは他の誰かだ……。そんな他人任せで卑劣な考えが蔓延し、日本を弱くし、そして娘のような犠牲者を生み出していったんだと……」

 中里が再び声を詰まらせる。

 猿橋がささやいた。

「お気の毒でした……。あの地震では、本当にたくさんの犠牲者が出ましたから……」

 中里が呆けたようにつぶやく。

「あれでも、運がいい方でしたよ。発生がもう少し遅くて、神戸駅の通勤ラッシュが始まっていたら、何10倍もの人が亡くなったでしょう。それもまた、偶然です。あるいは、神の采配かもしれない……」

「神様?」

「私はね、あの地震は〝神様の警告〟なんだと考えて気持ちをなだめようとしたんです。直後は落ち込んで、娘の葬儀さえまともにできずに、何ヶ月もカウンセリングを受ける立場にありましたから……」

「だったら、こんな犯罪を起こしたのも〝神の意志〟だというんですか?」

「ある意味、そうだと思います。私と娘は、きっと今日のために選ばれたんです。神様の意思だと信じることで、なんとか心の均衡を取り戻せたんです。少なくとも、死のうとは考えないようになりました……」

 篠原が言った。

「それはあながち間違いじゃありません。東日本大震災では、当時の経験が生かされて多くの人が助かりましたから。あなたの娘さんの犠牲は、決して無駄とは言えません」

 中里の声に生気が戻る。

「本当にそうでしょうか? 確かに自衛隊の活躍は賞賛されました。被災者の統制が取れた行動も、忍耐強さも、見事でした。現場の力は、世界に誇っていい。だが、あの時もまた、民主党政権だった。政府は混乱し、事態を複雑にし、被災後は国全体が深い傷を負ってしまった。結果として原発事故まで招いてしまった。直後にアメリカ軍に援助を依頼していれば、最悪は回避できたかもしれません。原子炉は元々アメリカ製だし、空母には原子力事故に対処する人員と装備が揃えられていますから。知識も見識も胆力もないくせに体面にこだわった政治家たちが、日本を今も悲惨な状況に陥れている。そもそも阪神大震災を警告として捉えていれば、メルトダウンなど許さなかったはずです。近隣の原発が無事だったことがそれを証明しています。何より、あの時も自衛隊の活動は憲法に縛られた。『個人の所有権を犯さない』という建前のために、道を塞いだ車の残骸さえ撤去できなかったと聞きます。そこで浪費した数時間で、助けられるはずの人命がどれだけ失われていったか……。私の娘と同じ悲劇が、どれほどたくさん繰り返されていたか……。誰に分かりますか? 阪神の悲劇を活かしさえすれば、もっとましな準備ができたはずです。いえ、しなければならなかったんです。確かに災害が起きるたびにシステムや法を手直しし、少しずつでもマシになってきています。でもそれは、ただの対症療法だ。政治家にも官僚にも、国民を守ろうという根本的な意思が欠けている。なにより彼らを選ぶ国民に、自分自身や家族を守ろうという自覚がない。国を脅かす危険は、自然災害だけじゃないんだから……。今でさえ、地震で倒壊するビルや古い家屋が放置され、被害を起こしています。広範な緊急事態に対応できる体制とは到底いえない。神様は公平です。変えられるだけの時間を与えてくれました。『変えろ』と、行き先を示してくれました。なのに日本は、変えようとしなかった……その能力に欠けていた……現実から目を逸らして……」

 猿橋がうなずく。

「教授の考えは間違っていないかもしれない。与党も野党も、政治家たちは足元の些細な抗争に気を取られて、本質的な問題解決から逃げてばかり。問題はないかのように、見ないフリばかり。だから教授は、政官界の不正を暴こうとしたの?」

「違いますよ」

 猿橋は意外そうに首をかしげた。

「違うの?」

「私の目的は、娘の死を――その姿を多くの人に見せることだと言いましたよね。不正を暴くというのは、そのための手段の1つに過ぎません」

「だったら、目的を叶えたその先は? 何を望んでいるの?」

「すべての日本人に、考えてもらいたいんです。政治家や役人は、国民が望んだ以上の働きはしません。望まなければ、できません。彼らが何もしないのは、国民が望まないからです。憲法の制約で瓦礫の除去がままならないなら、憲法を変えればいい。緊急時なら、些細な主権は制限されても止むを得ないという常識を書き込めばすむことです。なのにパンデミックが起きてさえ、責任をなすりつけ合って何も変えられない。責任を負うべき人間が、主権を言い訳にして逃げ回るばかりです。目的は、問題の解決でしょう? なのに、傍観が許されてしまう……。役割を果たさないことが、処世術になってしまう……。強制力を持って機動的な対策が取れれば、パンデミックの医療崩壊だって防げたはずです。防がなければならない責任が生じたはずです。憲法に緊急事態条項を盛り込もうという動きはずっと続いています。それさえあれば、臨機応変な対応が可能です。責任者は言い逃れが許されなくなります。でなければ、また同じことの繰り返し……天災が人災になり、偶然が必然になります。分かりきっているのに、何1つ動かない。天災だけじゃない。日本は核保有国に取り囲まれているし、恫喝してくる国さえある。拡張をやめない中国がいつ領土を奪いにくるかも分からない。北朝鮮のミサイルが日本を超えた時、国民は怯えました。だが今は、何も変わらないまま、全てを忘れている。首相が『専守防衛ならミサイル1発は甘受しなければならない』と言い切ったのに、騒ぎにすらならなかった。その1発が東京への核攻撃ならどうなるか……そんな想像力すら持てない。しかも、そう発言した元首相が暗殺されるなんて……。おかしいとは思いませんか? 見えないフリをしていれば危機は来ない……考えなければ地震も来ない……日本人の多くはそれで満足しているとしか思えないじゃないですか。何度も襲いかかってきた地震や台風の犠牲者は、それで浮かばれるんですか? せめて、自分の死を役に立てて欲しい……次の犠牲者は少なくしたい……。そう願っているのではないでしょうか? 経済の失政だって、自殺者を増やします。それを防ぐ手段には全力で取り組むべきです。中には、たゆまずに警告を発している人々もいます。せめて、彼らに耳を傾けるべきです。彼らに反対して、その考えを否定する人々も多い。どちらが正しいのかは、私ごときには分かりません。正解があるのかどうかも、分からない。だが、否定するにしても肯定するにしても、現実を直視してください。現実は常に目の前にあり、消え去りはしません。無視しないでください。そして考えてください。真実を見極めてください。成り行きに流されずに、日本の行き先を自分で選んでください。1人1人の決断がなければ、政治は動きません。政治が動かなければ、官僚も動きません。国が変われなければ、災害も戦争も被害を減らすことはできないでしょう。私の娘の映像は、たった1人の小学生に襲いかかった悲劇に過ぎません。1億数千万分の1の死、でしかありません。でもそれは、明日のあなた自身かもしれない。あなたの家族や友人かもしれないんです。これは日本という国が抱えた弱点が可視化された現実なんです。だから私は、みんなにこの映像を見てもらいたかった。そして考えて欲しかった。それさえ叶うなら、娘の死は決して無駄ではないと信じることができる。これは私のではなく、あなた自身の問題なんです……。だから事実を――事実だけを知って欲しい。私の娘は死んだ。助けられたはずなのに、死ななければならなかった。その理由をみんなで考えて欲しい。東北大震災でも能登半島でも、自衛隊は活躍できました。でも、それは同じ自然災害だったからに過ぎない。北朝鮮に拉致された子供たちは、まだ生きていたとしても、いつ死んでもおかしくない。それを阻止する体制は、いまだに整えられていない。他国が日本の領土を、資源を、技術を盗もうとしているのに、対策は穴だらけだ。その結果どれだけ多くの企業が潰され、家庭が破壊され、その子供たちや家族が苦境に追いやられていくかを見ようともしない。なぜだ? なぜ日本は、日本人を守れない? その理由を考えて欲しい――お願いだ。映像は最後まで見て欲しい。そうすれば、私がこうまでしてあなた方に見せたかった理由が分かるかもしれない……ただ、考えてほしいんだ……」

 そして中里は、ぐったりと顔を伏せた。長いため息がもれる。

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