九
驚いた。彼女が自分の夜勤日だけを狙って診察に来ているのではないかという疑いよりも、愛理が仕事を休んでいた一週間のあいだに化け物にならずに済んでいたことの方に、とても驚いて、思わず、口をついた言葉があった。
「お元気でしたか」
「はい」
その返答も、どうかとは思うのだが。元気じゃないから夜間診療に来るのだし。
実際、元気そうではない。他人と視線を合わせられない彼女は、自分と違う世界を生きている。他人を認識できない世界だ。閉じられた世界。そこで彼女は創造主によって作られた化け物となって、創造主の命令に従って生きていく。そこでしか生きられないと、創造主に作り替えられた哀れな化け物。皮膚の変色がそれを物語っている。彼女はもう、境目だ。あと一歩もない、足をわずかにずらせば二度と這い上がれない場所にいる。
だから愛理は尋ねた。「それで、今日は、誰にやられたんですか」
「え?」
患者と、愛理の脇で待機していた看護師が同時に声をあげた。そこまで意外そうにされると心外だが、他人の頓狂な顔というのも愉快だった。愛理は苦笑した。
「暴力に愛は宿らないんですよ。あなたも、本当はわかってるんですよね」
引き返せないところまで、彼女はまだ、落ちていない。だってまだ化け物になりきってはいない。彼女は人だ。自分がかつてそうなりかけて、そうなってしまったホンモノの化け物を、愛理は知っている。逃れる方法も、逃してくれる存在がいるということも。
「いっしょに逃げましょう。まだ間に合います」
彼女のようには、まだ、なっていないあなたなら、大丈夫。
愛理は彼女の手に自分の手を重ねた。赤く腫れた指が、熱を発している。切れた唇のすき間から、ずっと長いこと無視していたのだろう、嗚咽が漏れる。
どれも、人の証。生きている人の証だ。愛理は安心した。
患者を胸に抱き寄せて、愛理は泣きじゃくる声にいつまでも付き合った。
愛されたいとわめけばいい 篝 麦秋 @ANITYA_
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