アパートの敷地を出て、駅に向かおうと体を傾けた。そのとき、愛理はいつかの視線を思い出した。コーヒーをもらったことが彼に知られて、軽く謝ろうとしたのに出来なかったとき。「お前さ、他人のものを勝手に盗るって泥棒だよ」。彼はそうつぶやいて、握った拳を愛理の顔に向けてきた。


 後方から――住宅街の奥から歩いてくる彼と目が合ったとき、愛理はとっさに駆けだしていた。


「おい!」


 キャリーケースを引きずって、愛理は走った。彼女へ与える震動すら気づかっていられなかった。

 逃げなければと思った。逃げなければ、逃げなければ……どこに? なんて、そんなもの、考えてすらいなかったけれど、きっと、なんとかなるし、どうにかする。どうにかした。だから叫ぶ。


「来ないで!」

「お前ふざけんなよ!」


 呼び方が変わった。彼が怒っている証だ。だからといって、愛理は脚を止めるつもりはなかった。逃げたかった。彼女と、どこか遠くに。そこで彼女を、死なせてやりたかった。私だけの力で……私を救ってくれた彼女を、今度は私が救いたかった。


 背中にほとばしる衝撃が、愛理を前に向かわせる。それは望んでいた疾走の力とはまったく別で、彼に蹴り飛ばされたせいで、つんのめって転んだだけだった。頭やら肩やら腹部やら、あちこちに痛みが続く。肺がくすぐったく感じた。げほげほとむせった。アスファルトにひたいをこすりつけた衝撃で鼻血を出していたが、終わりじゃないと直感が訴える。物理的な痛みが愛理を襲う。後頭部に加わる圧力、唇が地面と愛を誓う。彼からの暴力が降ってくる。怖い。痛い。痛い。怖い。痛い。けれど、暴力とは本来そういうものだ。力を誇示したって、現代ではなんの役にも立たない。これが愛だなんて、ふざけないで。そうだ。ふざけているのだって彼女の方なのだ。暴力が愛だなんて、そんな幻の世界があっていいはずがない。そんな姿で生きるのはもう終わらせてあげないといけない。


 私が、彼女を終わらせてやる。


 襟をつかまれた愛理は、顔をあげるまもなく、彼の拳をくらった。左の頬。口の中に血の味が広がっていく。おいしくない。人の血っておいしくない。それでも、私は食い物にされていた。脳裏をよぎる、あの患者と、彼女と、自分が重なる。私たちはみんな同じ。食われて、虐げられて、化け物のように扱われて、いつしか身も心も変わっていく。変わり果ててしまった彼女と、変わっていく途中のあの患者と……私は、私は……どの段階にいる?


「お前それ中身、あれなんだろ」


 クリップが壊れたせいで、愛理の伸びた髪が広がった。それが彼にはちょうどよかった。髪に手を絡ませるのには、長い方が便利だった。髪をつかまれた愛理は、頭をアスファルトにたたきつけられた。ひたい、ひたい、こめかみ、痛い。皮膚が、破ける。脳が、揺れる。思考が、ぶれる。彼は、答える余裕すら、くれない。だって、彼は私の答えを知りたい動機がない。彼のやりたいことはひとつだけ。彼は創造主。愛理の髪をつかんだまま、頭を踏みつけてくるスニーカーのラバーが皮膚を剥こうとする。人の皮膚の下に隠している、化け物の正体をあらわにしようとしてくる。このしつこい痛みさえ、創造主に創られた彼女はきっと愛に感じる。


 かつての私はそうだった。あと一歩で、人の皮をすべて剥ぎとられそうだった。


 ああ私こそが彼に作られた化け物だったんだと気づいたら、愛理は自らの牙の存在に気づけた。

 開いた目がとらえたものが、彼の拳だったときにはもう、決意は遅かったけれど。

 左目の受けた暴力が大きすぎて、化け物は創造主には決して逆らえないのだと、思えてしまったけれど。


「おい、そこっ」


 世界に響く声が、愛理の耳にも届いた。それは少なくとも、愛理と彼だけの世界にはいなかった存在だった。青空とは違う青い服が近づいてくる。彼が何か、言い訳を連ねている。愛理の耳はそれを雑音としか認識しない。愛理は咳こんだ。鼻からの出血がのどに下りていた。口からげふりと血を吹き出し、仰向けだった体を横転させる。キャリーケースのある方へ、手を伸ばした。左目が見る世界は赤い。右目で見る世界はゆがんでいた。頭がおかしくなりつつある証拠だ。ということは、私は頭が正常な人間だったという証でもある。愛理はホッとした。キャリーケースに手を伸ばしたところで、視界が途切れ途切れになった。側溝が近いせいか、腐ったようなにおいが鼻血のあいだを分け入ってきた。


 最後に見たのは、真っ赤な世界の中、近づいてくる花屋の店員だった。

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