自分が夜勤の日を選んでいるのだろうかと首を傾げるほど、愛理は例の患者の診察にあたった。右目のあざは黄みがかって回復に精を出しているというのに、今度は左目だった。鼻血を出しているのでレントゲンを撮れば、見事に軟骨は折れていた。いよいよ来るところまで来ている。

 それで今日は、どういう言い分なのだろうかと、愛理は興味本位もさることながら、医療人らしく尋ねた。


「どうされたんですか」


 患者はうつむきながら、ももの上で握りしめた両手にさらにぎゅっと力をこめる。手の甲にはギザギザ模様がついている。それと、円型のやけどが連続してつながっていて、何かしらの形を……アルファベットだ。たぶん、S。患者のイニシャルではない。


 蚊よりささやかで、蚊よりイラつく、絞り出された声が放つ。


「痛くて……」


 シャツを脱がせた上半身は、ぞくにいう「肌色」がなかった。そこかしこに見目の悪い青が生まれ、茶に成長し、黄みがかる。どこかの皮膚はどこも、いずれかの段階だった。桃のような柔肌と女の肌を表現するが、とんでもない。熟れすぎた桃の行き当たる先を、知らない口が言っているのだ。そのあとどうなるかなんて、どうせ興味もないんでしょう。


「痛いでしょう、こんなにあざを作って。どうしたんですか」


 愛理の問いかけに、しかし患者は「痛い」としか答えない。ついに頭もやられているなと感じつつも、その先には踏み込まない。踏み込めない。だって、二人きりの世界から引き離されたら、その世界の外に世界があると知らないうちに他人に世界の外に引きずり出されたら、人は簡単に死ぬ。私に患者は殺せない。


 でも、彼女はどうだろうか。


 愛理はその日も夜勤を終えて、彼のアパートに向かった。

 私は彼女を殺せるだろうか。きちんと、死なせることができるだろうか。どうしてそんなことを思うようになったんだろう。いいや当然。だって今まで振るっていたあの暴力が、憎しみが、生と死の境で反転して、愛になっていただなんて知らなかったから。知ってしまったら、もう、どうすればいい。包帯を巻いた私の手は、どうあればいいの。


 部屋には彼の書き置きが残されていた。今日の昼頃には帰ってくるらしい。彼がどこで何をしているかなんて、電話をすれば判明する。でも、彼女はどうだ。目の前にいるのに、声をかけても返事もない。死んでいるのだから当然。じゃあ死んでいるのに暴力を愛と変換して受け取る根拠はなんだ? 死んだら価値観が反転する? いったいだれが言い出したそんなこと。しょせん都市伝説のたぐいの話。否定するなら鼻で笑えばいいのに、愛理にはそれができなかった。


 愛理はその日、ベッドに乗って、彼女のそばで居住まいを正した。


 今までの暴力を、愛として受け取っていたのなら――本当、なんてバカな女だろう。だって私のそれは、私から彼を奪ったあなたへの憎しみだったのだ。それを愛と勘違いしていたのなら、させたのは、こっち側の人間の責任になる。それは私。けれど、それすら真実かわからない。だって彼女は死んでいる。死人は反応を示さない。それこそが死人の証。その証が、今は、愛理にとげのように突き刺さる。

 勘違いを、したの、させたの。どっちなの。

 バカはだれなの。


「何か言ってよ」


 もし今まで自分が振るっていた暴力を、ねえ、愛だと感じて受け取っていたのなら、何か、返してよ。愛されるだけなんて、ずるい、不平等じゃない。一方的に殴っていたのはこっちだ。けれど、それは憎しみを暴力という形に変えて発散していたからだ。

 それをあろうことか、愛、愛だなんて! 愛を受け取っていたというのなら、そんな、ずるい。愛されるだけなんて、そんな不平等ってないじゃない。憎しみなら殴れた。けれど、殴られた彼女がこの拳の与える痛みを愛として受け取るのなら、殴れない。だってそんなの愛じゃない。そうでしょう。いくら意味をなくし、力を失ったとしても、愛はそんな姿に形を変えたりはしない。絶対。


 死んでからじゃ遅い。生きているうちに、叫べばよかったのに。愛理は彼女を殴った。空っぽな音がした。中身がないのは自分の拳。スッカラカンの軽い音。あったはずの憎しみが、もう、過去の遺物になっていた。どうして。力が入らない。私は彼女が憎かった。違う。今でも憎んでいる。なぜ。彼を奪ったから。それで憎しみを抱いていたか? 答えはノーだ。彼と引き離されたことで、愛理は暴力を振るうような男と縁を切れた。DV野郎だった彼と、手を離せた。二人きりの世界から抜け出したら、そこには女としてではなくて、人として生きる道が選べた。当たり前にあったはずの道から勝手に彼との世界に迷い込んで、出て行こうともしなくて、他人の手を振り払っていた過去の自分。そんな自分にさようならと手を振らせてくれたのは、紛れもない、彼女だった。


 どうして私は彼女を憎んでいると思わされたんだろう。


 彼のささやく言葉に惑わされるなんて、本当、バカみたい。彼は世界の住人が、彼女が死んでいなくなったことで、代理を立てようとしたのだ。二人しか住めない世界には、彼ともうひとりが必須だ。彼女亡き今、白羽の矢が立てられたのが自分だったのだ。勝手に彼女を憎んでいると思わされた自分が、愛理はこっけいで、生きている人間らしく悲しみを目からこぼした。熱いしずくが彼女の体に散ったところで、きっとなんにも思ってもらえない。彼女にとってはこんなの、愛なんかじゃない。


 私はいったい何をしていたんだろうか。


 部屋をあさった。探し求めたのは海外旅行に使うような、サイズの大きなキャリーケース。人を一人、つめ込めるようなやつ。彼に頼まれて愛理が買ったもの。

 それに彼女を入れた。膝を抱えるような、そう、それはまるで胎児のような格好にさせて、彼女をケースにつめ込んだ。チャックが閉じるか心配だったけれど、杞憂に過ぎなかった。

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