ユウゴの精子は、まだバンクに残っていた。体の丈夫な子どもを求める女性からは人気が高かったが、容姿を重視するとなると考え込む人が多かったらしい。デザインベビーなんて人工的な響きが好きじゃないと職場でこぼしたとき、たしかあの補佐役が言った。人工的ではない子どもは怖くないですか、と。自然的に発生したら、女性は自らの都合なんてまったく無視されていきなり子どもを宿されるんですよ、と。まったく、あのヒューマノイドは監察医の補佐なんてしているせいか、その辺は並みの人間よりよっぽど肥えた価値観を持っていた。ヒューマノイドは苦手だったけれど、あの個体と会話をするのは楽しかった。


 病院から提供してもらったユウゴの精子を家に持って帰った晴子は、それを彼に手渡した。十年以上も前に、小遣い稼ぎのために排出した自らの精子を見る気分は、きっと女には一生解せないのだろうと思いながら。


 彼は、容器を床に投げつけた。


 ガラス製の容器は、いともたやすく粉々に砕け散る。白かった液体は投げつけられた衝撃で薄く伸ばされて、フローリングの色と同化するほど透明になってしまう。ユウゴの精子とガラス片を踏みつけて、痛いとも言わずにヒューマノイドが迫ってくる。


 晴子は、それが誰なのかすぐにわかった。それでもあえて聞いた。


「なんで、こんなことするの」

「なんで、なんて、聞く必要あるんですか」


 光希は、彼の助手だったころの口調で、けれどせっぱ詰まって、それでいて宝物をなくした子どものように、泣きそうな声で答えた。晴子を抱きすくめては、頭をわしづかみにして無理やりに唇を求めてくる。彼のそれじゃないことは明白だった。キスは、光希のやり方だった。


「あなたは笑うでしょう」と、あの人妻のように、光希は言った。「機械が、人を求めて嫉妬をするなんて」と、あのヒューマノイドの補佐のように、光希は言った。

 酸素なんて必要ないのに、とても、とても息苦しそうに。


「ずっとだましていたのね」


 光希は首を振った。それでも晴子は、自分に抱きついていたヒューマノイドを力任せに突き飛ばした。


「私はあの人だと思っていたからあなたとセックスしたのに!」


 割れたガラス片を拾って、手が精子と血でべたつくのもかまわずに、光希に投げつけた。彼は腕で顔をかばう。人の動作だった。それがよけい晴子の癪に障って、同じ行為を何度も繰り返させた。自分を守りながらも、光希はやめるように言わなかった。


「自分は、ずっとあなたを」

「黙って!」


 叫んで、今さらとは思っても、床の上に彼の精子を集めた。そのまま両手ですくって、今すぐ自分の膣に押し込みたかった。


 目の前でごとりと音がした。けれど、そんなことにかまっていられない。今すぐこれを、仕事でしているように、顕微鏡でのぞきたかった。生きている精子だけ選別して、子宮の中に入れてあげたい。卵子と会わせてあげたい。この体にユウゴの細胞を、受け入れてあげたい。

 それなのに、精子には細かなガラス片と晴子の血が混ざっていて、とうてい使えそうにはなかった。すでに雑菌で冒されてしまっただろう。


 これが残りすべてですと言われていたのに。

 最初で最後のチャンスだったのに。

 ユウゴの子どもを授かれる、唯一の希望だったのに!


「光希!」


 倒れているヒューマノイドに近づかないわけにはいかなかった。光希は目を閉じたまま、ぴくりとも動かない。怒りに任せて体を揺すっても、人体が発熱したように、金属の体は熱かった。


「こんなときにフリーズしたっていうの、冗談でしょう……ねえ……」


 記憶がフラッシュバックする。ヒューマノイドの補佐が言っていた、いつかの過去を思い出す。


 ――愛玩用として疑似生殖器をつけた個体は、主人が人間と結婚するとなるとフリーズを起こす現象が少なくないそうです


 なんて、そんなの、冗談でしょう。機械が、嫉妬なんてそんなの、するはずないじゃない。だって機械には、嫉妬を感じる心もなければ、嫉妬を生み出す心だってないじゃない。


 心があるのは、私のはずで。人間のはずで。

 だからこそ胸に沸き起こるこの気持ちの名前も、私は知っている。いつもいつも、後から知らん顔でやってきて人をあざ笑う。この感情を、私たちはいつも殺意を持って睨むのに、後悔というやつを殺せた人間はひとりもいない。


 動かない光希を再起動させようと、首に腕をまわして抱き上げてみた。その体がなぜか、ほんの少し軽く感じられた。

 晴子は、急に胸が苦しくなった。呼吸がままならなくなった。


 嘘よ。


 それはきっと、ほんの何十グラムの世界の話。


「ねえ、ねえ光希、起きて、起きてよ、再起動……ねえ、ねえってば」


 フリーズする直前、光希は何か言おうとしていた。


 自分は、ずっとあなたを――。


 その続きを、ねえ、聞かせてよ。その口を動かして、あの造られた美声で、お願い。聞かせて。その先に、何があったの。

 私は、私は。

 私だって。

 いまならわかる。

 いまやっと、わかった。

 いまさらやっと、わかったところで、お願い、遅いなんていわないで。


 機械の体から、次第に熱が消えていく。

 それはまるで、死んだ人間のように。


「いやあっ……」


 まるで光希が、死ぬようで。

 死ぬ。

 機械が死ぬ。

 機械は死なないはずなのに。

 晴子は、その体を必死に抱きしめた。死なせまいとして、自分の命を削り出して作る体温で、彼をあたためたかった。もう一度、こんどこそやり直したい。出来るでしょう? だってあなたは死なない機械なんだから。

 けれども、その体の熱の急下降は止まらない。

 どうあがいても。

 止められない。


 嘘だ、そんなの、嘘よ、ねえ、嘘でしょう、ねえ光希。

 あなたまでいなくなったら、私、どうすればいいの。


 光がない。


「光希……生き返ってよ、ねえ、お願い……」


 人は死ぬと、ほんの少しだけ軽くなる。

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未來のアダム 篝 麦秋 @ANITYA_

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