第14話 連れて行ってあげる

『わたくしを、連れて行ってください』


 アンのつま先がぬれた砂浜の上に見えては、押しよせる波に隠れる。そのスラリと伸びた足が一歩、また一歩とバランスを取ってゆっくりと前に踏み出される。足首が消えて、ひざの下まで消えた。


 遠くにはサイレンの音が聞こえる。町は海とは対称的に赤々と明らんでいてさわがしい。まぶしすぎるくらいの明かりも、砂浜の木に遮られて、浜のまんなかまでしか照らさない。


 波打ちぎわは、町とは切り離された暗闇のせかいへの入り口になっていて、波がさらったものは、暗闇のなかに引きこまれていく。暗闇とおんなじ色になって、だれの目にも止まらなくなる。


 目を覚ました人はみんな、深い夜の空にめらめらと立ち上がるオレンジ色の炎にむちゅうで、やっぱりだれも海なんて気にしていなかった。だけどほんとうは、海には頬をぬらしたアンがいて、ひとりぼっちで月を見上げていた。


 家族を失って、居場所を失ったアンを支えるものはなくって。それでも動かない足で踏んばって、歩いて、前に進もうとしている。


 目の前には行くべきところを示しているみたいに、月の光を反射した水光が曲がりくねった道のように伸びている。

 不安定で、どこまで続いているかもわからない道で、わたしにはとても進む気にはなれない道なんだけど、アンの虚ろな目に、それは一筋の希望だったんだ。


『白鳥島で、朝焼けを見るんです。ナナさんと、そしたらっ、幸せに』


 穏やかな波でも、かんたんに人は沈む。

 腰の下まで見えなくなったアンが、バランスをくずして前のめりに倒れた。つぎの瞬間には、足がつかない深い海の上。うまく浮かばないからだで水をかいて、水面に顔を出す。


『……いいえ、無理です。ナナさんごめんなさい、ごめんなさいっ』


 アンは口の端から水を垂らし、月に向かって手を伸ばした。道ははてしなく長くって、白鳥島はまだ水平線の先にある。ゴールは見えないし、道の先にわたしの姿もない。


『もう笑えないから。生きてっ、いけないから…………』


 アンの緑色の髪が光沢を失って、水のなかに浸る。後ろで結んでいた赤いリボンが波に揺られて、するりとほどけた。


 月明かりの道がいつの間にか坂道になっていて、かべのように迫った。アンは両目を見開いて、大粒の涙を散らせて、こわばった顔をゆるめた。からだじゅうから無駄な力を抜くと、すっと上体が沈む。


 笑えてはいなかった。でも、やさしい声だった。


『朝焼けの海で、待っています』


 波は影をつくって、道を黒くぬってしまった。

 暗闇が、ぜんぶ飲みこんでしまった。


 暗闇の海はただ、たくさんの波をつくって、それを砂浜に打ちよせていた。

 水しぶきの泡が弾けた。



『ボクは死神だったんだ。だからあのお嬢さまが、命を絶ってしまうことはわかっていたんだ。でもボクには、ミルことしか許されてない。…………ミトドけることしかできなかったんだ』


 西の空にはすっかり朝日が顔を出して、水面をあたたかい光で満たしている。やっと火が消された庭の近くはまだ町の人たちでさわがしいけど、涼しげな朝の風に吹かれて、日常を取り戻そうとしていた。


 わたしは水にぬれた赤いリボンを握りしめて、隣に座る黒ネコさんの話をぼうぜんと聞いていた。

 最後に見せてもらった記憶は、とても直視できるようなものじゃなくて、わたしは声をあげて泣いて、暴れちゃったりしたんだけど、時間をかけて見届けたんだ。


 わたしは、間にあわなかった。

 アンのこころの傷をいっしょに受けとめてあげられなかったんだ。


「わたしにしたみたいに、声をかけてあげられなかったの」


『ふつう、ボクの声は聞こえないんだ。ナナがボクと話せるのは、その角のおかげさ』


 わたしはあらわになっている自分の角をさわって、黒ネコさんの方を向いた。黒ネコさんは、砂地におしりをつけて前脚を立てて座っていた。


「それに、ボクは運命を変えることを許されてない。ナナに声をかけたのも、ホントはダメなことだったんだけど。キミはトクベツだから、ついおせっかいをしたんだ」


「特別って、これが悪魔の角だから?」


「そう、とはいいたくないね。………うつくしくいえば、“約束”かな。ボクはトモダチとの約束をまもって、キミに関わったんだ」


「友だちって」


「これ以上は教えられないよ。それよりナナも、約束をまもらないとね」


 黒ネコさんは大きな目でウインクをして、後ろ足をあげた。ブルブルッと身ぶるいしたので、毛についた砂が飛んで、わたしの顔にぶつかった。ぬれた頬にはりついた砂は手ではらってもなかなか取れなかった。


 黒ネコさんは、かわいい足跡をこうごにつけながら波打ちぎわを歩いていく。すると、庭で火の海のなかに消えていったときのように、スーッと足もとから、からだが透明になり始めたの!


 わたしはあわてて手を伸ばした。


「待ってよ!わたしっ、いっぱいいっぱいで、ひとりにしないでよっ」


『ナナ、ボクにはつぎの役目があるから行かないといけないんだ』


「いやだっ、やだあ」


 わたしはこらえきれなくなって、迷子の子どもみたいに泣きじゃくった。これまで受けたどんな嫌がらせよりもこころに深い傷をつけた夜のできごとが、すっかりわたしから自信を失わせてしまっていたの。


 はずれびとのわたしにできた初めての友だち。

 悪魔の角をみても歩み寄ってくれたひと。希望を与えてくれたひと。隣をわたしの居場所にしてくれたひと。そんな大切なひとを、わたしはなくしてしまった。


 わたしには両脚も、空を飛ぶためのホウキだってあるのに、進むたびになにかを失ってしまいそうで、ひとりではどこにも行けない気がしたんだ。

 この角と向き合って生きていくって決めたばかりなのに、いまだれかにわるくちを言われたら、ぽっきりとこころが折れてしまいそうだった。


 黒ネコさんは困ったように顔を洗ってから、消えかけのからだでわたしの方をみた。そして、これまでどおりの落ち着いた様子でなだめるように言った。


『ボクはいっしょにはいられないけどね。つらいときは休めばいいんだよ、椅子にでも座ってさ。そしたら自信が戻ってきて、キミはまた歩き出せる』


 さいごに、「にゃあん」とネコらしく鳴いて、黒ネコさんは波にさらわれたみたいに姿を消してしまった。


 取り残されたわたしは、しばらくの間、じっと砂浜に座っていた。

 朝焼けを見ていた。止まらない涙を目が赤くなるまで手でぬぐっていた。


 腰のポーチに手をつっこんで指をうごかすと、かたいものがさわった。つまんで取りだして、手のひらにのせる。それはアンとの大切な思い出、アンがわたしにくれた白いハートの貝がらだった。


(……約束、か。わたしがアンを連れて行ってあげなくちゃね)


 放射状に広がったハートの線をそっとなでる。


 白鳥島に行こう。朝焼けの椅子に座って、朝日を見よう。

 道中はきっとつかれるから、ゆっくり、椅子に座って休みながら行こう。


 わたしはのっそりと立ち上がって、手のひらとおしりの砂をはらった。風が角のまわりを吹き抜けていくのがスース―して落ち着かないけど、頭が軽くてとってもさわやか!だけどからだは重くって、しばらく魔法は使いたくないかも。


 わたしは海岸線に沿ってザクザクと砂に足跡をつけた。


 オレンジ色のグラデーションになった海はまた別人の顔をして、打ちよせる波が泡の網をかける。明るすぎて真っ白な朝日が水面に光の帯をつくって、水平線の向こうまで、道になっていた。

 ハートの貝がらを透かせてみたら、そこに大好きな笑顔が映った。



 わたしは、歩き出した。

 ここから、わたしの旅は始まったんだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

次の更新予定

毎日 07:35 予定は変更される可能性があります

魔法士ナナは座りたい ナタでそこ @nata7na

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ