ひどく暑い雨の夜
藤泉都理
ひどく暑い雨の夜
八月も下旬を迎えたが、今年一番の最高気温を叩き出すなど、まだまだ残暑は厳しい。
夜になってもほら。
こんなにも汗が滴り、水飴のような熱が身体にへばりついて、暑苦しい。
いっその事、傘など放り出して、全身に雨を浴びたいと思うほど。
けれど。
傘を手放してはいけないよ。
決して。
ええええ、そんな事をしてしまっては。
イロワケアメイルカに連れ去られて、この世から存在が消えてしまうよ。
「っていう噂が流れてて。嘘だってみんなで笑い話にしてたんですけど。それがまさか現実にあるなんてびっくりして。気が動転したって言うんですか?ええ。わかります。突進するならイロワケアメイルカにですよね。でも、あなたを逃がさないとって使命感に駆られて。あなたをイロワケアメイルカから遠ざけないとって。だからあなたに突進したんです。引きずろうとしたんです。ご理解いただけましたか?」
「はい。納得しました」
「ありがとうございます」
女子高校生の
正座の者しかこの空間には存在してはいけない雰囲気が、この高級和食店にはあったのだ。
周囲はもう暗い午後九時。
夏休みの塾の帰り道の事だ。
雨の神様に嫌われているんじゃないかと本気で疑うくらい、八月の前半は雨とは無縁だったけれど、後半になって漸く雨が降って来た。
光琉が帰宅している時も、雨が降ってきていたので、傘をさした。
傘なんか畳んで雨に降られた方が涼しいのではないかとも思ったが、濡れたら濡れたで服を脱ぐ時に面倒なので止めた。
決して、噂を信じたからではない。
塾でできた噂好きの友達に聞かされたのだ。
夏の特に暑く、しかも雨が降っている日にだけ出現するイロワケアメイルカの話を。
イロワケアメイルカは傘をさしていない人間を銜えると、天空に連れ去って、一生おもちゃにしてしまうという噂話を。
友達のヤダ怖いと笑い合いながら言ったまさに直後の帰り道。
傘をさしていない和装の少年か少女か判別がつかない人が、今まさに、空に浮くイロワケアメイルカに銜えられようとする現場を目撃してしまったのだ。
周囲に助けを求めようという考えは何故か思いつかなかった。
助けなくちゃ。
その一心だった。
気が動転していたのだ。
光琉は和装の人に突進して、地面に倒れ込んだその人をそのまま引きずって走り出した。
走り出そうとした。
けれど。
重くてできなかった。
全身鉛でできているのではと疑ってしまうくらい、重かったのだ。
それでも、光琉は諦めなかった。
頑張って、引きずって逃げようとした。
(それで、結局引きずれなくて、この人が立ち上がって、あれよあれよという間にこの高級和食店に連れて行かれて。説明してくださいってにこやかに言われて。今に至る)
「散歩をしていたんですよ。この子はひどく暑い夜の雨の日にしか、散歩に行こうとしない変わったイロワケアメイルカですから」
「なるほど」
イルカは海の中しか散歩しませんよ空中に浮きませんよ。
そんな心の自分の声は粉砕して、神妙に答えた。
何か食べませんか奢りますよと言われたが、とんでもないと断ったので、ぐうぐう腹の音を出しながら。
塾で軽く食べたが、頭をいっぱい使ったので、お腹が減る事減る事。
家でたくさん食べようと思っていたところに遭遇したので、こんなに腹の音が出るのは致し方ないのだ。
「本当は僕は暑いのが苦手なので嫌なのですが、このこが可愛いので、ついついわがままを聞いちゃうんですよね」
「なるほど」
確かに可愛い。
青と白の二色のイロワケアメイルカは、愛らしい顔と二色の体色も相まって、可愛い。鳴き声も可愛い。キュウキュウ。およそ自分と同じ身長だけれど、可愛い。くるくる回転している、可愛い。
可愛いけれど、今は空腹の方にどうしても意識が傾いている。
帰りたい。帰って、ご飯をお腹いっぱい食べたい。
いつ解放されるんだろう。早く解放してほしい。突進して引きずろうとしたのは謝ったので多分もうお金とかそういうのは請求されないと思うけれどどうなんだろう。
(………両親に連絡しないと心配しますのでって言って、お母さんたちに来てもらった方がいいかも)
「「あの」」
光琉と同時に言葉を発した和装の人は、お先に失礼します遅くなりましたがと前置きをして、名前を言った。
「
「え?あ。ちょ。その前に。えっと。私、名前、言いましたっけ?」
「ええ。僕を引きずろうとしている時に。身分証明をしたかったのか。お名前とご自身が通われている高校名を叫んでおられました。不用心なのでお止めなった方がよろしいですよ」
まったく記憶にございません。
「はい。えっと。それで。何故私を散歩にお誘いになられたのでしょうか?」
「ええ。このこがこんなにも長く姿を見せ続けるのは、初めてなので。異種間交流はこのこの為にも、そしてきっと、光琉さんの為にもなると思って、お誘いしました」
ええ確かに異種間交流でしょうが。
「左様ですか。ええっと。お返事は。またの機会にでも。よろしいでしょうか。それと。両親が心配しているので、連絡も取りたいのですが」
「ああ。そうですね。配慮を欠いていました。申し訳ありません。どうぞ今日はこのままお帰り下さい。あ。危ないので送りますよ」
「いえいえ。両親に迎えに来てもらうので。はい。大丈夫でございます」
「そうですか。では。僕もご両親にご挨拶をして、今日は失礼しますね」
「え。あ。はい。わかりました。では」
光琉はポケットにしまっていたスマホを取り出すと、両親に連絡を取った。
心配は全くしていなかったようだが、迎えに行くとは言ってくれた。
(………こういう場合って、お母さんとお父さんには、イロワケアメイルカの姿が見えなくって、一洋さんの話を信じなくて、一洋さんに一喝して、私をここから連れ出すんだよね。もう関わるなって。まあ、どちらかって言うと、そっちの方を望んでいるんだけど)
楽しそうだなとは思う。
想像するだけで、わくわくする。
暑さなんてまったく気にしないだろう。
雨の中で自由自在に、生き生きと泳いで、雨と戯れるイロワケアメイルカと一緒に散歩できるのは、その姿を見ていられるのは、そのとても幻想的な光景を見られるのは、とても楽しいのだろう。癒されるだろう。
「本当に、何も食べませんか?」
「はい」
優しさの塊だ。
透明感のある優しさ。
一洋さんとも一緒に居られたら、楽しいだろう、癒されるだろう。
願うかもしれない。
もっとずっと一緒に居たい。このまま、
(連れ出してほしい。なんて、ね)
早く両親に来てほしい。
遅く両親に来てほしい。
私がこの不思議な存在たちに連れ出されてしまう前に。
イロワケアメイルカと一洋に釘付けになっている光琉の耳には、微かに雷と豪雨の音が届いていた。
(2024.8.23)
ひどく暑い雨の夜 藤泉都理 @fujitori
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