天使の椅子

下東 良雄

とある国の少年

 夜明け前。まだ外は暗い。でも仕事に行かなければ。ボクには国から任された大切な仕事がある。

 ベッドから起き上がり、井戸の冷たい水で顔を洗って目を覚ます。そして、配給されたパンを胃に落とした。おっと、カビに注意しなきゃね。

 何軒かの家が集まっている集合住宅。周囲に住んでいるひとたちを起こさないように、そっと外に出る。街灯も無い田舎道。月明かりと星のきらめきを浴びながら職場へ向かった。


 歩いて一時間ほど。荒野にポツンと建っている一軒の大きな洋館にやってきた。白亜の大豪邸、というわけではないが、結構大きな邸宅だ。玄関の鍵を開けて中に入る。誰が住んでいるわけでもないので中には何も無いが、気兼ねなく過ごせるボクだけの職場。そのまま階段で二階へと上がり、さらにもうひとつ上の階へ。木製の階段が暗闇の中でギシリギシリと音を立てる。暗いからと転ぶことはもうない。さすがに三ヶ月も毎日通っていれば、目をつぶってでも目的の場所へ辿り着ける。その目的の場所とは、屋根裏部屋だ。


 目的の場所に到着。真鍮のノブを捻って引けば、キィっと蝶番ちょうつがいが嫌な音を響かせながらドアが開く。屋根裏部屋の中は……うん、異常なし。

 部屋は二十平米(十二畳弱の広さ)くらいだろうか。身を乗り出せるくらいの窓がひとつ。そして、その窓から射す月明かりにぼんやりと照らされて、部屋の真ん中に木製の椅子が一脚。背もたれに、天使の羽のような彫刻が施されているので、ボクは『天使の椅子』って勝手に呼んでいる。それ以外は部屋の隅に木の箱らしきものがいくつか積んであるくらい。この箱には触れてはいけないと国から言われている。


 ボクの仕事は、夕方まで『天使の椅子』に座って窓の外を見ていること。椅子を移動させてはいけない。部屋の真ん中でじっと座っていなければならない。すべては国のため。ひとりひとりの規律ある行動が国の豊かさにつながっていくのだ。誰かが勝手な行動をして規律を乱せば、それによって大勢が迷惑をこうむり、やがて国が廃れていく。ボクは立派な国民のひとりとして、そして少年勤労奉仕隊のひとりとして、この仕事をしっかりとやり遂げる。


 ボクは『天使の椅子』に座り、じっと窓を見つめる。まだ外は暗い。ボクの顔がガラスに映る。だから、ボクは自分の顔をじっと見つめ続けた。

 やがて空が白み、日が昇る。窓には青い空が映り出す。今日は雲が見えるのでラッキーデー。流れる雲を眺めていられる。夏場は汗が滴るが、窓から目は離せない。

 やがて空は夕闇に染まっていく。日没をもって、ボクの一日の仕事が終わる。『天使の椅子』から立ち上がり、屋根裏部屋を出て、洋館を後にした。


 集合住宅に戻ると、ご近所さんのお出迎えだ。

「若いのに国のために奉仕して偉いね」

「奉仕隊のお仕事、今日もお疲れ様でした」

 とんでもございませんと笑顔で頭を下げるボク。お隣さんが預かってくれていた配給品を受け取り、帰宅。明日に備えて早めに休もう。明日も仕事だ。すべては国の発展のために。我らの父に栄光あれ。



 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 ――仕事を始めて半年後


 仕事という名の国への奉仕を始めてもう半年。最近疲れてきたように感じる。しかし、休むわけにはいかない。国を廃れさすわけにはいかないのだ。ボクは今日も『天使の椅子』に座り続ける。


 天使が踊っている。


 いや、見たわけではない。ボクの仕事は窓の外を見続けることなのだから。でも、ボクの足元や視界に入るか入らないかギリギリのところで、天使が踊っているようなのだ。羽の生えた赤ん坊のような三人の天使が、楽しそうに踊っているのだ。間違いない。でも、それをボクは見ることができない。これは一体何なのか。


 こんなことがほぼ毎日続いているのだ。

 ご近所さんの励ましにうまく笑えているだろうか。疲れを見せたりしていないだろうか。これ以上弱いところを見せられない。もっと、もっと頑張らねば。我らの父に栄光あれ。



 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 ――仕事を始めて九ヶ月後



 今日も『天使の椅子』に座り続ける。

 今日も天使が踊っている。

 今日もボクは葛藤する。


 その姿を見たい、でも窓から目を離してしまうことになる。悩んだボクは――


 ――天使のひとりに目を向けた。


 天使たちはその瞬間に姿を消した。部屋の中には誰もいない。やっぱり幻覚だったのか。ボクは疲れているのか。

 でも天使は、その姿を消す瞬間にひとつだけ気になる行動をした。部屋の窓の下の部分を指差したのだ。そこには汚れがあり、実はボクも少し気になっていた。


「仕事を完遂するためにも綺麗にしておこう」


 誰が聞いているわけでもないのに、そんな言い訳を口にして『天使の椅子』から立ち上がり、窓の下の汚れに近づくボク。


「えっ!?」


 驚くボク。汚れじゃなかった。小さな文字が彫られていたのだ。

 ボクは顔を近づけて文字を読み取った。



『Have You Forgotten Something?(何か忘れていないか?)』



 ハッとするボク。そうだ仕事をしなければ!

 ボクは『天使の椅子』に座り、もう一度窓の外を見つめ続けた。


『Have You Forgotten Something?(何か忘れていないか?)』


 忘れていない。国のためにボクは仕事をしなければならない。


『Have You Forgotten Something?(何か忘れていないか?)』


 忘れていない! ボクは、ボクは!


『Have You Forgotten Something?(何か忘れていないか?)』


 ……仕事より……規律より……国の発展より……我らの父よりも大切なこと、ということなのか? それをボクが忘れているというのか?


『Have You Forgotten Something?(何か忘れていないか?)』


 うるさい! 何も忘れていない!


『Have You Forgotten Something?(何か忘れていないか?)』


「だまれーっ!」


 ボクは思わず大声を出し、『天使の椅子』をひっくり返して立ち上がった。

 心臓の動悸が激しい。胸が苦しい。それでもボクは『天使の椅子』を元に戻してもう一度座り、窓の外を見続けた。

 滲む窓に何度も自分の目をぬぐう。そして、心の奥底に隠していた思いがゆっくりと浮かび上がってくる。


(ボクは何をやっているんだろう……)



 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 ――仕事を始めて一年後



 今日も『天使の椅子』に座り続ける。

 今日も天使が踊っている。

 ボクはもう葛藤しなくなっていた。


 疲れていたボクは、天使へと目を向けるが、天使たちはいつものようにその瞬間に姿を消す。部屋には誰もいない。

 でも、ふたりの天使が姿を消す瞬間に気になる行動をした。あの時と同じだ。ひとりはボクの足元の床を指差し、もうひとりは部屋の隅に積まれた木箱を指差した。

 ボクは足元の床をよく見てみた。埃が積もっていて気付かなかったが、ペンか何かで文字が書かれている。ボクは床に膝をついて、その文字を読み取った。



『Stigmata is here. Look up above your head.(聖痕スティグマータはここにあり。頭上を見上げよ)』



 ボクは上を見上げてみた。屋根裏部屋ということもあり、屋根を支える太いはりが見えた。


「ん?」


 よく見ると太いはりに傷がある。あれが聖痕スティグマータか?

 そして、部屋の隅に積まれている木箱を見てみた。国から触れてはいけないと言われた木箱。よく見てみると、丈夫そうな荒縄が木箱の上に置かれている。



 ボクは天使が訴えたかったことをすべて理解した。



 天使が何者なのかは分からない。天からの使いか、ボクの心が生み出した幻影か。ただ、天使はボクを解放したかったのだろう。

 個人の自由は一切なく、思想すら統制される我が国。「我らの父」が誰なのかも知らない。見たこともない。でも、それにすべてを捧げることを強制する我が国。集合住宅でお互いを監視させ合うことで密告が横行する我が国。


『Have You Forgotten Something?(何か忘れていないか?)』


 ボクが忘れていたのは、人間らしい生き方。そして、自分の頭で思考することだ……。


『Stigmata is here. Look up above your head.(聖痕スティグマータはここにあり。頭上を見上げよ)』


 そして『天使の椅子』は、ボクをここから解放させてくれる最後のアイテム。背もたれにある天使の羽は、きっと解放を暗喩していたのだ。

 ボクは荒縄を手に『天使の椅子』の座面に登った。聖痕の位置は『天使の椅子』が置かれていた真上。聖痕に合わせて荒縄をかける。荒縄で輪っかを作り、重みで締まるように結んだ。

 縄を首にかけ、あとは『天使の椅子』を倒すだけ。天使がボクを天国へと運んでくれる。この国に明るい未来はない。どこにも逃げられない。だからボクは天使の手を借りて飛び立つのだ。自由の空へ!


 ガチャリ


「動くな! 危険思想防止法および労働義務遺棄罪、国家逃亡罪の罪状にて逮捕する! これは我らの父への裏切りだ! 貴様には三年間の教育施設強制入院が科せられる! これ以上の罪を重ねるな!」



 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 ――十年後


 ボクは今日も洋館の屋根裏部屋で窓の外を見続けている。座っている木の椅子の背もたれに、もう天使の羽の彫刻はない。

 ボクの胸にはたくさんの勲章が輝いている。入院生活後、ボクの国への奉仕意識は著しく高まり、なぜ死のうとしたのか思い出すこともできない。そう、あの三年間の入院生活での経験自体、ボクの記憶の奥底に封じ込めた。ボクは今、我らの父の忠実な使徒なのだ。

 退院後、ボクの仕事の頑張りが我らの父にも認められ、こんなにたくさんの勲章をいただくことができた。集合住宅でもボクは女性たちの垂涎の的だ。でも、ボクの心は我らの父のもの。あくまでも国の発展のために、その女性たちの中に精を放った。女性たちは嬉し涙を流していた。身籠らなければ、それは国への、そして我らの父への忠誠が足りない証拠。ボクと同じように教育施設へと入院してもらおう。


 国への奉仕こそがボクの幸せ。

 これからもずっと、ボクは屋根裏部屋で木の椅子に腰掛け、たったひとりで窓の外を見続ける。

 あぁ、我らの父に栄光あれ。






 天使たちは今日も踊り続けていた。



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