主人公・ボクは、祖国と我が父のために働く一国の青年(少年か?)である。"仕事"は「天使の椅子」に決められた時間、すわり続けること。だが彼は"仕事"の最中、視界の外で天使が踊る気配を感じる。見ようにも、座っている間は窓の外を見るように決められている。だが、どうしても気になる彼は――?
外は雨だった。右手に傘を持っていたが、そのことを忘れて浴びて帰宅した。汗なのかそれとも浴びてきた小雨なのかよくわからない液体をぬぐって、適当に開いたカクヨムのトップページに並んでいたもののなかで、特に何かを意識するわけでもなく、ぼんやりとクリックしたのがこの小説だった。多分「天使」だとか「踊る」だとかそういう単語に惹かれたのかもしれない。
物語はボクの一人称で進む。だから彼ひとりの目で見えるものの範囲しか見えないため、この短編上の世界がどうなっているのか不明だ。
ただどうやらこの世界では、「国」のため「父」と呼ばれる誰かのために、身を捧げることが、"あたりまえ"なのだという。
ちなみに、この小説を読んだ人間も日々自分が“あたりまえ”だと思う日常をたんたんと流しているわけで、彼の"あたりまえ"に少し首をかしげたくなったが、もし自分が彼の立場にたったとき、果たして首を傾げるだろうか、と少し怖くなった。
自らの「生」も、「行動」も、「死」すら、ましてや「生殖」まで、奪われている。
いや、誰かに搾取されている――? それも違う。いや、あっている。確かに彼は何かに何かを奪われてしまった。けれど、ただ奪われたわけではない。自ら、捧げているのだ。
そうだ、奴隷だ。彼は奴隷になったのだ。
なにせ、この"あたりまえ"の空気を吸って吐いて彼は”あたりまえ”の行動に染まり”あたりまえ”に人間のツラをしながら、ひとりの思考停止した人形のように、ただの記号になりさがっていった。
けれど、最後のシーン、彼はそれが”あたりまえ”と口にするが、それが本当に”あたりまえ”なら、そう語るだろうか。
――父に奉仕することができて幸いです。国のために働けて幸いです。この遺伝子さえ国のために捧げることができるなんて――といういい方ではなく、
最後まで彼は、それが”あたりまえ”だから、とまるで言い訳するように、ことばを紡ぐ。
微かに残響する違和感。それがまだ彼の中に残っていると思う。
彼は完全に染まり切ってしまった。だが、その胸はまだ痛いのではないだろうか。その痛みに気がつかないように、自分を誘導しているだけで。
物語は彼が奴隷になっていく様をずっと描写するような作品で、だから読んでいて、彼の心が壊れていくのをただ見せつけられる。
だが、最後の語りの部分に、微かに「人間の香り」を見つけることができたとき、かつて彼は人間――と書いて”自分で思考することができるもの”と読む――であったこと、そのかけらがまだ眠っている、まだそれがあることに、表に出て来ないことに、あまりにもささやかで、矯正されてしまった人体に影響を与えないことに、それが希望なのか絶望なのか、わからないにせよ、何か少し、苦しいような悲しいような愛おしいような気持ちになる。
大切なのは、自分の頭で考えることだ。感じ、考える。”あたりまえ”だからなんて、理由で、自分をあきらめてほしくなかった。
天国へつれていってくれ、飛び立とうとしても、その判断さえ奪われて、最後にどこに行くというのだ。
翼なんか、きみ、生えていないじゃないか。人間らしく、一歩立ち止まって、きみが置かれた状況、きみの気持ち、きみ、もう誤魔化さないで、考えてみようよ。
本当に、それは”あたりまえ”なの? 本当に、それでいいの――?
アスファルトの上を転がるタイヤが雨を踏み付ける音がした。家の近くの道路を走り去って。
まあ、こうやって、感想なりレビューなり、なんなりを書いている人間が一番怖いのだ。何せ、彼に考えろという人間は”あたりまえ”の日常のなかにいて、自分が彼だったときのことを考えて、飛び立つことのできない想像を打ち砕けないから。
物語はボクの一人称で進む。だから彼ひとりの目で見えるものの範囲しか見えない。残念ながら、現実も、自分の一人称で進む。自分についている感覚器官から得られる情報以外は手に入らない。
その処理の最中、少しでもおかしい、違和感があると思ったら、立ち止まらなければならない。できるかな。わからん。わからなくても、やらなくちゃ。
自由に歩いていけるのなら、翼なんていらないんだから。