理不尽な笑顔

色街アゲハ

理不尽な笑顔

 ジリジリ、ジリジリ。


 纏い付く様な湿気の籠った空気が肌に貼り付いて、其処から茹だる様な熱気がジリジリと身体に沁み込んで来る。


 休み時間の教室の中は、ガヤガヤと人の声が入り混じり、意味の無い雑音になって、それは熱気と同じ様に僕の身体の中に入り込もうとして、ただでさえ苛立たしい気分に更に拍車を掛けようとしていた。


 黒板の上に掛けられた時計がグルグル回り、かと思ったら、今度はピタッと止まったきり動かなくなって、そんな気紛れな文字盤を眺めている内に時間の感覚がすっかりなくなって、何時しか僕の視界は時計の中から滲み出してきた黒い煤の様な、陰鬱を視覚化した様なものにすっかり覆われて、真っ暗になって行った。


 何一つ見えない暗闇の中で浮かび上がった一つのイメージが、僕の中で大きな位置を占めて行く。

 

 それは深海の世界でしかお目に懸かれない様な、口だけの生き物。そいつはめいいっぱい口を開いて、その中に入る物だったら何だって呑み込もうとするんだ。いや、もしかしたら、入らない位大きな物だって呑み込んでしまうのかも知れないな。そいつに呑み込めない物なんてこの世に存在しないんだ。


 ガヤガヤ、ガヤガヤ。


 煩いな。何だってそんなに喋繰るんだ。どうせ、その中の一つだって意味のある言葉なんて有りはしない癖に。


 ああ、煩い、煩い、煩い。


 無くなってしまえ。何一つみんな無くなってしまえばいいんだ。そんな風に思っていると、目の前の口だけの怪物が大風呂敷を広げでもしたのか、とでも云う様に大きく口を開けて次の瞬間には、バクンッと口を閉じ、ゴクンと呑み込む音。


 ………………。


 静かになった。これは良い。清々した。そうさ、その調子で不快な物全部呑み込んでくれ。


 続けざまに、件の怪物は僕の身体を一呑みに。先程から感じていた茹だる様な暑さももう感じない。


 次に呑み込んだのは僕の過去。良いさ、どうせ良い思い出なんか、何一つだって在りはしないんだから。


 続いて手を付けたのは、いや、口に付けたのは、現在いま。構わないさ。退屈と気怠さだけの現在何て、無くなって呉れてくれた方がいっそ有難いと云う物さ。


 最後に奴が呑み込もうとするのは、僕の未来。これを吞まれたら完全に僕と云う存在は無くなって、この口だけの得体の知れない奴に取って代わるという事か。


 何を躊躇うと云うのか。何も変わりやしない。退屈なだけの時間をただただ引き延ばしただけの無意味な時間がだらだらと続いて行くだけの未来なんて、むしろこっちから願い下げだ。


 ああ、何て無意味。むしろ遅過ぎた位じゃあないか? 後は任せたよ、名前の無い口だけの化け物。この無意味な世界丸ごと全部呑み込んでくれ。


 それにしても、こうして見ているとコイツ、角度によっては何だか笑っている様に見えるな。一体何がそんなに可笑しいんだか。こっちは疾うに可笑しい事なんか何一つ無くなってしまったと云うのに。


 徐々に迫る口。その奥は何も無い、真っ暗なだけの空間。そうか、考えてみれば、僕その物がこんな感じだったのかも知れないな。


 何も無い、何にも無い、なあんにもなあい。あはは、何だか可笑しいや。最後に笑えたんだから、まあ良いか。サヨナラ、詰まらないだけだった僕。サヨナラ、詰まらないだけだった世界。






「ちょっと! 聞いてるの!?」


 不意に肩を揺さ振られて、意識が戻る。


 目の前にいるのは、


「沙織さん。」

「はい、沙織さんですよ。」


 クラスメイトの沙織さんだった。何で名前呼びなのかって、何故か名前で呼ばないと怒るから。


「どうしたの? さっきからやたら難しい顔してブツブツ言ってるし、何だか最後ら辺、泣きそうな顔してたし。」

「泣いてない。」

「ええ~、ほんとにござるかぁ~?」

「泣いてない。」


「そんな泣き虫の君に聞くけど、一体何考えていたの? ん? あっ、それともポンポン痛くなっちゃった?」


 言う事が一々癇に障るが、どうするか、言おうか言うまいか一瞬だけ考えて、


「忘れた。」


 と、それだけ言った。


「あははっ、なにそれ? へ~んなの!」


 そう言って二へへ、と笑うその顔を見て、


 それまで考えていた事、感じていた事が、まるでまるっきり他人事の様な、何処か遠い所へ遠ざかって行くのを感じていた。


 ジリジリ、ガヤガヤ。教室の中は、変わらず暑苦しいし、騒がしい。詰らない退屈なくだらないこの世界。けれども、あんな、もっと詰らない物で塗り潰す程詰らない物でもない。


 目の前で頬をだらしなく緩ませながら笑いかける沙織さんの顔を眺めながら、そんな事を考えていた。

 

 全く、一体何がそんなに可笑しいんだか。





 人の目の届かない、光も差さず暗い沈黙だけが支配する深海の底で、一匹の口だけの化け物が僅かに身動ぎをする。


 地上に蔓延る生き物の意識を乗っ取り、その身体でそこに在る全ての物を飲み込もうと密かに、これまで幾度となく試みて来たこの化け物の思惑は、又してもあの地上の生き物特有の持つ、あの表情に断ち切られてしまった。


 あれだけは駄目だ。光の射さない深い深い海の底に生きる化け物にとって、あの表情の放つ光は、余りに眩くて、それ以上存在を溜めていられない。


 今度こそ上手く行くと思われた思惑が、又しても外れてしまった事に、化け物は一瞬だけ苛立たし気に身を震わせるが、それも束の間、この他に生きる者の気配も無い暗い世界に、僅かばかりに降って来る他の生き物の残渣を受け止めるべく、上に向けその口を大きく広げるのだった。


 時間や機会はこの先幾らでも有る。遠いあの世界では生き物同士の諍いや、それすらも呑み込んでしまう災厄などが絶えず起きている。それは止めようとしても止められる物ではない。何時だってそれ等は唐突に、理由も無く理不尽なまでに起きる物なのだから。自分はただそれに紛れて潜り込めば良いだけの話。他に聞く者の無い、クツクツと笑う声が深海の底に、それはゆっくりと波紋の様に広がって行った。


 しかし、かの化け物の思惑が成就する事は決して無いだろう。確かにこの世界の至る処に起きる諍いや災厄、それ等は理由も無く理不尽なまでに、人々を苛む。


 けれども、空に星が瞬く様に、地上に花が満ちる様に、誰かに向けられる笑顔、それも又これと言った特別な理由も必要なく、唐突に、それは理不尽なまでに時も場所も関係なく齎される物なのだから。



                             終



 


 


 









 

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