さよならの装束

@QuantumQuill

さよならの装束

ゆく当てもなく歩き続けて、見たことも、聞いたこともない幽境のもの寂しい村にたどり着いた。

世俗から切り離されたようで、よく見る機械や、いまどきのデザインなんてない。昼間なのに人気が一切なく、奥行きを感じさせる、乾いた棚田が目立つ。

ゆるんだ風が頬をねでまわした。風の行方に、荘厳な屋敷があった。


近づくと、遠くから見るよりもずっと大きくて、厳格に見える。黒い門には、立派な彫刻が施してある。奥の母屋の中に、微かに金がのぞき見える。

私はこの神妙不可思議に立ち尽くしていた。

「こんにちは。こんなところへ、何か用ですか」

朗らかな声だった。優しいせせらぎの声の方へは、ほど高い背の女性がいた。妖艶な顔つき、華やかな着物。みな、屋敷には合っていたけれど、村には合っていなかった。

「私は旅の者です。一度文明から離れて自ら道を開くような旅がしてみたく、ここへ来た者です」

「そうですか。それはそれは大変だったでしょうに。お茶を出しましょう。どうか中へどうぞ」

彼女の足遣いは上品で、音が出ていなかった。それどころか、彼女のどこからも音が出ていないとすら思える。この静寂の屋敷に一つの自分という異物がいる。


ゆっくり休んでください、と茶を渡された。

「この村の、ほかの住民はどうされたんですか」

「みんな今は外で仕事です。田植えの時期ですから。立派な棚田だったでしょう」

「来るときに見落としたようです。案内してくださいませんか」

「いいえ。体を休めてください」

「慈しみ深い人の活動を見つけるのも、旅の醍醐味です。そのための活力は底なしですよ」


外に出ると、思わず目をつぶった。空が春色になって、空気が澄んでいた。

丘の田は水に浸って、点々と小さい青い稲穂が見える。あぜ道の水路に澄んだ水が流れて、おたまじゃくしが泳いでいた。

「ちよさん!お客さんですよ!」

ちよさん、とは田植えをしている老婆のことのようだ。

「奥さま!こりゃ珍しい、いつの間にいらしたんですか。私らにゃ気づけませんでした」

「棚田の見学をご所望です。ひととおり案内してさしあげててください」


ちよさんからいろいろなことを聞いた。この村は、言い伝えでは四百年前から続いていること。今は若々しい棚田だが、少しすればすぐに立派な金色の穂に覆われること。男たちは街に出稼ぎに出ていて、戻るのは年に数回ということ。

「つまらない所ですが、楽しんでいただけましたかね」

ありがとう、と言うと、屋敷の女房が戻ってきた。

「満足されましたか。少し奥まったところに、麗姿の滝がありますゆえ、そこへ行きましょう」


私たちは二人、しんしんと鳴りやむ森の中を歩いた。土は湿って、腐り始めた八橋が、ぎしぎしと音を立てる。日は落ち、誰が灯したのだろうか、橋に沿って連なる灯篭に見える炎が、あたりの輪郭をぼやかした。表の村とは一線を画した、神話の世界。

「かの滝は、私たちの鎮守神様なんです。言い伝えの昔日からここを見守る神様」

「なぜよそ者の私を、そんなところまで」

「分かりません。でもそうしたくなったのです。これも、鎮守神様のご意向だと私は思います。私たち村民にも、神の心を読むことはできませんよ」

その滝は、勇ましく屹立していた。いつか見た大きな一軒家よりもずっと高く、水は水面ではねて、一帯が雨の降っているように涼んでいた。滝が降るあたりは、突然空が開いて、月明かりがきっぱり差し込んでいる。まるで、滝と一緒に夜が降り注いでいるようで、すっかり見ほれた。

「美しい。吸い込まれるような麗らかさだ」

爽快さを浴びるように、上着を脱ぎ、大きく腕を開き、胸を掲げた。そして深い呼吸をした。

「そうでしょう。私も、いや、村の皆が愛してやまない風景です。ずうっとここにいられる、そんな気がします」

「神様は、私をここに呼び、何を望まれたのでしょうか」

「ここに来ると、考えるんです。遠い未来について。今、私たちはこうして、何も変わらない日々を営んでいる。きっと、これからも、変わらない。でも、どんなものでも終わりは来ます。もし、私たちを語り継ぐ者がいなくなったら、私たちが生きていたことは、もはや元から存在しないのです」

私はこの村の中で、俗世を離れている。俗世から見たら、私は無いも同然なのだろうか。


鳥のさえずり。虫の音。木の声。つまり、自然の息遣い。

私はそれにおぼれて、深く、ふかく、目を閉じた。

ずっと深く、いつまでも覚めない夢の底に落ちていく心地がする。


次に目を開けたときに、夜は明けていた。

昨晩隣にいた女性も、風流のある灯篭もなかった。

残るのは、悠然とした滝だけ。

でも、なにか、それとは別に、大きく違う部分がある気がする。

じっくりと耳を澄ますと、ずっと聞いていなかった、鈍い機械の駆動音が聞こえる。

その音の方へ、かつて歩いた橋を戻る。不自然に、きしまない。沼や、木や、土を見ても、いつかの自然の芽吹きが感じられない。

空気も、淀んで感じた。

森を抜けると、道路が走っていた。よく見る高速道路で、昨日で良く見知った土地を走っている。しかし、昨日見た美しい、永遠に住まいたくなる景色はなかった。棚田は枯れ果てて、あの立派だった屋敷は屋根が抜け落ちていた。

かつての人の脈動が消えていた。

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