あのころ

ハナビシトモエ

ただ思い出しただけ

 ペインティングされた駅の通路で男の子と女の子が写真を撮っていた。それを目の端で追った私は男の子の顔をとらえた。何が楽しいのか分からないけど、楽しそうに笑って、口角が少し上がっているのを見て、そういえば昔付き合った男もそんな奴だったなって思った。


 写真をよく撮りたがって、大したことないのに彼のフレームに収まることが好きだった。後から見直して、あんなことあったね。とか、寒かったねなんて言って、ベッドで笑いながら暮らした貧しい日々。


 避妊具を買うことにお金をかけるなら、もやしや鶏肉を買った方がいいよって言うのに、生でいいよって言っても、する時は絶対に避妊具を使ってくれた。大切にされていると思って、嬉しかった。


 私が喘息持ちなのを知って、付き合った当初、煙草をやめた。いつも煙草が入っていただろうジーパンの右後ろポケットを彼の右手がかすめた。


 いいよ、吸ってもなんて言っても彼は煙草を買わなかった。事後に煙草を吸う彼を見てみたかった。随分、様になっていたかもしれない。


 今まで彼と付き合った彼女は彼の煙草を吸う姿をベッドからみていたのだろうか。それが少し悔しかった。思い詰めると頭をなぜてくれた大きな右手。

 

 未練は無い。

 ただ思い出しただけ、私がまだ幼くて子どもだった日々をさっき通りかがったカップルを見て思い出した。


 フリーターだった彼が「結婚資金を貯める」と言って就職活動を始めた。嬉しかったけど、そのうち私の修士論文で距離が開いた。


 私は家でダラダラする彼が好きだったのに変に小綺麗になって、ちゃんとした彼を見ると焦燥感にかられることが多くなった。


 もしかして浮気をされているのではと思って、喧嘩が増えた。ある時、お前の為に稼いでると言われて、カチンときた。今思えば若かったと思う。


「そんなの私は望んでない。一緒に幸せになりたいのに何で一緒にいてくれないの?」


 好きだからそばにいて欲しいという気持ちしか乗っていなかった。当時の私なりにちゃんとこっちを見てを伝えたつもりだった。彼は一言。


「お前、前から思っていたけど、重い」


 そうだ。この通路だったかもしれない。あべこべに走って、彼いや現実から逃げて数日、彼にごめんねが言えないまま修士論文が仕上がり福祉職に内定となった。


 友達はおめでとうと言ってくれたけど、私が一番先に報告したいと思ったのは彼だった。ちゃんとごめんねが言えるようになった。今更だけど、前の関係には戻らなくても、あの大きな手で「よく頑張ったね」って言って欲しかった。


 前に貰っていた鍵はいとも簡単に開いた。中に入ると彼の寝息と煙草の匂いがした。


 私は鍵を玄関に置いて、彼の部屋を出た。


 もう数年前になる。

 あの通路で彼と似た男の子とすれ違って、隣に楽しそうな女の子がいて、写真を撮る時のクセが似ているだけで、昔の私に戻る。


 若かったあの頃を心のマンホールの中に大切に。


「お帰り、まーちゃん。ご飯? お風呂? おやすみ?」

 私をそう呼ぶ旦那がいる部屋に戻って、男の子の記憶がなくなった。それでも旦那が見えないところに初恋は眠っている。

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あのころ ハナビシトモエ @sikasann

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