第6話 完了

 駐車場に着き、辺りを見回した。昨日の雨が山間をより暗くし、ライトをつけなければまるで墨のなかに落とし込まれたような闇だ。近くに川が流れているのに、まるで耳を塞がれたような静けさが皮膚をざわつかせる。不動滝の入り口には鳥居があるが、それは赤く塗られているものではなく、木の原色そのままだったのが救いだった。でも、そこをくぐったらもう後戻りできなくなるような気がした。

 この光景を見て、戸惑いと躊躇いが襲ってきた。俺は後戻りするためにここに来たのではない。ここで全てを終わりにするために来たのだと自分に言い聞かせた。

 麻弓は先に車から降り、辺りを見回している。俺は麻弓に悟られないように、ジャケットの両方の内ポケットにナイフを忍ばせた。それからヘッドライトと懐中電灯を持ち、車外に出た。

「暗いね。月明かりが届かないからかな。ぜんぜん明るさがない」麻弓が言った。

「ほんとだね。こんなに暗いなんて思いもしなかった。山のなかでキャンプする人とかいるけど、どうかしてるね。俺には無理」

 俺は麻弓に懐中電灯を渡し、ヘッドライトを装着した。麻弓がライトを消してみようと言った。全てのライトを消すと、苦しくなるような闇に一瞬で包まれた。漆黒の闇のなかに身を置くと、ただ暗いという思考を除き、全ての身体感覚が消し去られたような気分になった。麻弓は暗い暗いと嬉しそうにはしゃいでいる。いざとなったら、男よりも女の方が肝が据わっているようだ。

 不動滝までの道を歩きながら、俺は初めてデートをしたときのことを思い出していた。

「初めてここに来たのって、秋だっけ?」俺は言った。

「そう。秋だった。滝が紅葉に包まれて絵になってた」

「あの頃はさぁ、店たたんだばかりで、本当にしんどかったんだよね。正直、麻弓がいなかったらどうなってたか分からないくらい。ほんと、感謝してる」

「うん、分かる。拓斗も大変だったよね。あの頃の話題ったら、借金のことばかりだったもん。でも、四年でだいぶ減ったんじゃない?」

「半分くらいにはなった。その間、なんとか生き永らえたって感じかな。ほんと、、、」危うく麻弓への感謝の言葉を口にしそうになり、唾を飲み込んだ。感謝の言葉を何度も口にすることで、計画がとん挫してしまうような気がした。

 不動滝への道は、昼間に見る景色とは隔絶されたものだった。ライトに照らされた巨石や巨木は、それぞれが生き物のようで、今にも襲いかかってきそうな迫力があった。

 途中、川の上に巨木が倒れてできた天然の橋があり、麻弓はそれに足をかけた。俺は危ないからと慌てて引き留めたが、彼女の度胸には恐れ入るばかりだ。

 不動滝が近づくにつれ、塞がれた耳をこじ開けられるような轟音が迫ってきた。不動滝の手前には小さな鳥居と祠があり、俺はその前で両手を合わせて、これから行う非道を詫びた。神様は無言だった。

「なに手なんか合わせてるの?宗教なんて信じてないくせに」

「あぁ、この世に神も仏もあるもんかってね。でも、この場所に神様がいるとしたら、信じていいかも」

「ふーん。でもそんな風に思えちゃうくらい凄い場所だよね、夜の不動滝って」

「あぁ凄い。ここは凄すぎる」ここで命を終わらせるのも悪くない。

不動明王が祀られているからか、祠の横には「いったいどこから持ってきたんだ?」と言いたくなるような、大小様々な刀が供えられた壇があった。どれも錆びついて切れそうにないが、日本刀、青龍刀、意匠の施された短剣、古代ローマから持ってきたような大げさな剣と、得体の知れない様々な刃物が供えられていた。もちろん、俺を殺めたナイフもここに納めて欲しい。

 鳥居を抜けると目の前に不動滝が迫ってきた。滝は幅十六メートル、高さ十メートルと横に長く、ひ弱なライトでは全貌が見渡せない。ライトに照らされた部分だけ、水のカーテンが浮かび上がる。なんだか小人にでもなったようだ。しばらく二人でライトを右に左に送り、滝の大きさを確認した。局所しか見えないことで轟音の勢いが際立った。

 不動滝は水のカーテンの裏側に七十センチくらいの空間があり、そこに入ることができる。できればそこを死に場所にしたかった。俺は麻弓に滝の裏に入ろうと言ったが、それは嫌だと断られた。暗くて足場もおぼつかない場所で、怪我でもしたら困るし、入ろうとすればどうしたってミストを浴びてしまうので、風邪でも引いたらどうすると麻弓が言った。ここは素直に麻弓に従うことにした。

「ところで、寸劇ってなぁに?」

「あ、それね」と答えながら、動悸が上がってくるのを感じた。俺は平静を装って「火曜サスペンス風の寸劇がしてみたかったんだよね。不動滝殺人事件!」と言った。

「なーにそれ?罰が当たりそう」

「寸劇だから平気だよ。麻弓にセリフはないから、適当に受け流して。じゃあ始めよう」

 俺は麻弓に背を向け、両頬を二度叩き、深刻な表情を作り振り向いた。

一世一代の寸劇の幕が上がった。


「お前さぁ、ほんと、お人よしだよな。こんなとこまでのこのこついてきて。俺のこと安全な人間だと思ってナメてんだ。なんにも分かってないよな」

「・・・」

「ここさぁ、夜中に人なんて来ないし、携帯の電波だって入らない。ここで襲われたら誰も助けになんて来てくれない」

 俺はジャケットの左ポケットからナイフを取り出した。百円ショップのおもちゃコーナーにあった、刃がプラスチックで刺すと引っ込むやつだ。

 麻弓は目を見張って驚いた表情になり後ずさりした。恐怖のためか声が出せないようだった。俺は彼女の背後に回り、首に刃を這わせた。全身をこわ張らせ、震えていた。それから麻弓の左肩を引き、身体の向きを反転させた。俺と麻弓は再び正面から対峙した。

「さよなら麻弓。俺のために死んでくれ」と言い、心臓めがけてナイフを突き出した。

 次の瞬間、麻弓の膝が崩れ、身体が俺にもたれかかってきた。俺は慌てて麻弓を支え、近くにあったベンチに座らせた。頬を軽く叩いてみたが、反応がない。念のため麻弓の胸部を確認したが、もちろん血は出ていなかった。ナイフを確認したが、刃を押すと引っ込み、それは確かにおもちゃのナイフだった。口もとに耳を寄せてみたが、滝の轟音が響き、息をしてるかどうか定かでない。もう一度、頬を叩いたが反応はなかった。俺は全身を鳥肌にくるまれ、動悸が走り、手が震えだしたのを感じた。

「麻弓、おい麻弓、冗談だよ。目を覚ましてくれ。こんなところで死なれちゃ困るよ」俺は泣きそうな声で麻弓に懇願した。暗闇のなかライトで照らされた顔を見ると、本当に死んでいるようにしか見えなかった。

 闇が速度を増して迫ってきた。不動滝の発する轟音が二人を包み込み、この世ではないどこか別の世界に連れ去られたようだった。

 俺は麻弓をおぶり、車に戻ることにした。足もとがおぼつかず、途中で何度も転びそうになりながら、なんとか車に到着した。人間を背負って二百メートルも歩いたことで、全身が滝を浴びたように汗で湿っていた。

助手席を開け麻弓を座らせシートを倒した。頬を叩いたが反応がない。息をしているかどうかも定かでない。

 こんな筈じゃなかった。死ぬのは麻弓じゃなくて俺の筈だった。さっきとは別の、苦い味のする汗が滲んできた。

 俺には麻弓を助ける術なんてない。急いで運転席に入りエンジンをかけようとしたが、手が震えてキーがうまく刺さらない。口が酷く乾いていた。舌が粘膜に張り付き、唾を飲み込むことができない。

 コトッと音がした。胃がせり上がり、心臓が逆回転を始めたような感覚を覚えた。恐る恐る麻弓の顔を覗き込んだが、なんの変化もない。

キーがうまく入らない。

もう一度コトッっと音がした。俺は恐怖に包まれ頭を抱え込み、「ごめん麻弓、ごめん麻弓」と何度も繰り返した。心臓と肺の周期が狂っているようで、うまく空気を吸い込むことができない。俺はポンプでも動かすように両肩を大きく上下させ、無理やり酸素を吸い込もうとした。次第に手足と唇が痺れてきて、頭を抱えるようにしてハンドルにもたれかかった。

 忍ぶような笑い声が聞こえてきた。俺は死神にでも憑りつかれたと思い、恐怖心からきつく目を閉じた。

 次の瞬間、「恨めしやー」と言いながら麻弓が抱きついてきた。

 狐にでもつままれた思いで麻弓の顔を見て、「あれ、生きてたの?」と間抜けな声を発した。

「眩しいからヘッドライト切ってよ。あー苦しかった。呼吸止めるのも楽じゃないわ」

「そんな」全身から力が抜けていく。

「てか、なに泣いてんの、情けない。あなた、あたしに殺されるつもりだったんでしょ?」

「・・・」

「右の内ポケットに入ってるの何?」

「なんで分かったの?」俺は右胸に触り、本物のナイフのシルエットを確認した。それは確かにそこにあった。

「どうせ、次は麻弓が俺を刺す番とかなんとか言って、おもちゃのナイフじゃなくて本物のナイフをくれて、それで本当に刺されようと思ったんでしょ」

「・・・」図星だった。

「やめてよね。私のこと殺人犯なんかにしないでよ。私、人殺しになんてなりたくない」

 真剣な表情で真っすぐに見つめてくる、怒りとも呆れとも違う瞳の重さに圧し潰されそうになった。もし本当に俺が麻弓に殺されていたとしたら、麻弓に大変な十字架を背負わせてしまっていたことに、今更ながら気づかされた。俺はこの気違いじみた身勝手さを悔やんだ。人を殺す、殺されるということについて甘く考えすぎていた。一時の感情に赴くまま、なにか甘美でロマンチックなものであるかのように錯覚していたと言ってもいい。

「ごめん」後悔、羞恥、屈辱といった感情がない交ぜになり、俺は自分にとどめを刺したいという思いに駆られた。

「ちょっと、そのナイフ貸しなさいよ。自殺でもされたら気分悪いから」と言うなり麻弓はジャケットに手を突っ込みナイフを奪い取り、窓を開け川に投げ込んだ。闇のなか放物線を描いて飛んで行くナイフの軌跡は見えるはずもなく、ポチャっという音だけが耳に飛び込んだ。

「ちょっと、そっちのナイフも貸して。そんなに死にたいなら、刺してあげるから」と言うなり、俺の胸にそれを突き刺した。

 俺の心臓は逆回転を止め、緩やかに正常の動きを取り戻していった。後悔はとめどなく流れる涙と共に、身体から流れ出すようだった。

 俺はおもちゃのナイフを突き刺されたまま麻弓を強く抱きしめた。どうにか絞り出した言葉は「愛してる」の一言だけだった。

「待ってたよ」

「えっ?」

「待ってた」

 思えば、俺は麻弓に対して初めてその言葉を口にした。

 命をかけた寸劇は失敗に終わった。


 俺は冷静さを取り戻そうと一度深くため息をつき、それから数回深呼吸をした。コーヒーを口に流し込むと、勢いがつきすぎてむせ込んでしまい、麻弓に「大丈夫?」と背中をさすられた。疲労と脱力感からシートを倒して目を閉じた。

「拓斗、運転できる?変わろうか?」麻弓が柔らかい声で言った。「こんなところにいつまでもいたら、ほんとに祟られちゃうかも」

「ほんとだね」俺は落ち着きを取り戻し、シートを戻してキーを差し込んだ。今度は簡単に入った。エンジンをかけ、オーディオに麻弓の好きなリップスライムのCDを入れた。車内は闇を追い払うように賑やかになった。

 サイドブレーキを解除し、ゆっくりとアクセルを踏んだ。バックミラーのなかには闇が広がり、それ以上見てはいけない気がした。

杉の並木を抜けると月明かりが射し込んできた。俺はちらっと麻弓の横顔を見た。相変わらず透き通ったように白い肌だった。しばらくのろのろ走り、明かりの点いた民家が見えてくると、二人して安堵のため息をついた。不動滝の闇に緊張していたのは、俺だけでなく麻弓も同じようだった。

「あのさ、今回の計画、分かってたの?」

「拓斗の考えそうなことなんて、ぜんぶお見通し」そういうと麻弓はダッシュボードを開けて封筒を取り出した。

「なにこれ?」と汚いものでも触るように、人差し指と親指で端をつまんでひらひらさせた。

「いや、それは、ほら」遺書だった。「だって、俺が死んだら、麻弓が疑われるでしょ。だから、麻弓は無罪だって証明するための手紙」

「つくづく馬鹿だよね。そんなもので警察が許してくれる訳ないじゃん」そう言ってため息をついた。「何日も拘留されて、マスコミには殺人者呼ばわりされてさ、裁判で無罪になったとしても私の人生終わりだよ」

「ごめんなさい」俺は何度も頭を下げた。

「運転中に下向かないでよ。危ないから」

 俺は「ごめん」と言ってまた頭を下げた。

 麻弓は「あなたって馬鹿だね」と言い小さく笑った。

 その笑い声を聞いて俺は微かに安堵した。それは、許してもらえたのか、単に俺の馬鹿さ加減に呆れただけなのか分からなかったけど、ひとまず心を落ち着かせるには十分なものだった。

「さっき「待ってた」って言ったじゃない?あれ、なに待ってたの?」

「そんなことも分からないの?最低」と言うなりそっぽを向いた。

 俺は今まで自分のプライドとか、傷つきたくないとか、そんなことばかりを優先させてきた。そんなものはゴミでしかない。伝えるべきことを伝えなければならない。

「俺ね、麻弓のこと凄く愛してるし、今までも愛してた。だけど、あまりそういうこと表に出すのが苦手っていうか」

「分からないよ。新しい男ができたって言っても、慌てもしないで。妙に物分かりがよくて、私のことなんて遊びなんだと思ってたんだよ」

「そんなことないよ。俺は麻弓にふられたあとで、食欲がなくなったり、他人に当たり散らしたりして、すごく辛かった。今回だって」

「そうなの?なんで言ってくれないの?」

「いや、だから、そういうの前面に出すのってカッコ悪いと思って」

「自意識過剰なんだよ」

 俺は路肩に車を停め、麻弓の顔を見た。

「分かった。正直になります。俺は麻弓のこと愛してる。もう二度と離れたくない。俺と一緒に暮らして下さい」

 麻弓はふーんとニヤつき、俺に抱きついた。耳元で「いいよ」と囁くと、腕に力を込めてきた。

 俺は麻弓の腕をほどき、距離をとって瞳を見つめた。俺の目は何色に見えるのだろう?

「あのさ、言っておかなければならないことがあるんだけど」

「なによ?」

「会社、倒産した」

「なっにそれ」と言ってふき出した。「それで死にたくなったの?」

「まぁ、それだけじゃないけど」俺は視線を足もとに落とした。そのあとで麻弓の胸に視線を移し、手を合わせ「八万円、貸してもらえない?」と言って頭を下げた。呆れられ、今度こそ本当にふられることも覚悟した。

 何秒過ぎたか分からない。ノーでもイエスでもどっちでもいいから、早く返事が欲しかった。

「早く言ってよ。少しは私のこと頼ってよ」麻弓は怒気を込めて言った。

俺は頭を垂れて「ごめん」と力なく言った。

 麻弓は俺の耳もとで「いいよ。だからもう馬鹿なこと考えないで」と囁いた。

俺にはもう死ぬ理由がなくなった。明日は朝からハローワークに行くことに決めた。

 それからシートを倒して長い長いキスをした。月明かりが優しく二人を包み込んでいた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

彼女に殺される方法を考えたが、ほんとに逝くことはできるのか? @kujira_23

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る