第5話

  金曜日、俺は朝から事の顛末を記した手紙を作っていた。俺が死んだ場合、それはあくまでも自殺で、麻弓は巻き込まれた被害者だということを書いた。遺書をダッシュボードのなかに入れて、静かに目を閉じた。

 それからハローワークに出向いてみたが、相変わらずの混雑ぶりで、それは俺の決意を固めることにしかならなかった。

 夕方になり待ち合わせ場所へ向かった。彼女の会社は駅前にあり、ここに来るたびに麻弓との身分差を感じた。それは卑屈めいた感情ではなかったが、東京に通じる社名に威光を感じていた。

 待ち合わせ場所は会社の近くに路駐。待ち合わせ場所について何も言わなかったから、新しい男は職場の人間ではなさそうだ。

 前回ふられたときは会社の人間だったから、俺は麻弓の職場には近づかないようにしていた。年下らしかったが、年度末に転勤になりあっさり終了。それからしばらくは寄りを戻すそぶりはなかったが、そのうち飲みに来るようになり、半年じらされたあげくベッドイン。

 その前の男は婚活アプリで知り合った奴らしかったが、そいつとは三ヵ月で別れてこっちに戻ってきた。そいつに関しての評価は、デートを割り勘にするせこい人間とのことだった。婚活アプリで何人かの男と会ってはみたものの、どれもしっくりせず「婚活を諦めそうになった」と言っていた。もう何がなんだか分からない。

麻弓は十八時半に俺の軽自動車の窓を叩いた。

「忙しかった?」

「まあまあかな。総務の仕事なんて、忙しいってもたかが知れてるから。拓斗はどうなの?」

「いつもと変わらず」会社が倒産したことは言っていない。

 ふーんと言って麻弓は持っていたペットボトルに口をつけた。ペットボトルには口紅が残り、化粧直しをしてきたことをうかがわせた。俺はドキリとしてその赤を見つめた。

「どしたの?飲みたいの?」麻弓は怪訝そうに俺の目を覗き込んだ。

「あ、いや、口紅が」

 不意に見つめられ、しどろもどろになる俺を見て麻弓が笑った。その笑顔を見て、俺は大きく安堵した。やっぱり俺は麻弓が好きだ。こんなことで俺はちゃんと麻弓に殺されることができるのだろうか?

「飲む?」

「飲む」俺はペットボトルを受け取り、口紅のついた飲み口を観察でもするように見た。「なんか、間接キスみたいで恥かしいね」

「なに言ってるのよ。いつも直接キスしてるじゃない」

「うん、そうだけど、なんか違うじゃん。うまく言えないけど、なんか初々しい感じっていうの?」

「ふーん、拓斗でもそんな風に思うことあるんだ」と意地の悪い目つきをして苦笑した。

 気を取り直してカーステにアートブレイキーのCDを入れた。今の俺に一番しっくりくるBGMはモーニンだ。

「なっにこの辛気臭い曲?」麻弓が言った。

「なにって、アートブレイキー。聞いたことなかった?俺の店のラストソング」

「ラストまでいたことなんかないよ。てか、もうちょっと明るい曲にしたら」

 俺は渋々CDを抜き、米津玄師を入れた。アンビリーバーズで無駄にテンションが上がったが、何曲目かにメトロノームがかかったとき、俺は危うく涙を流しそうになりCDを抜いた。

「なんで抜くのよ?」

「いや、別に。辛気臭いかなと思って」

「いいよ、米津なら」

「なんだそれ」と言いながらCDは入れなかった。

 ここはFMが入らない。無音で走る車内に煤が流れ込んできたような気まずさが充満した。


 不動滝までは一時間ほどだが、峠を一つ超えなければならない。峠を上る古い軽のエンジンが大げさに唸りを上げる。それを聞いて麻弓が「なにこれ、大丈夫なの?」と笑っている。なんだか俺が笑われてるような感じがして微妙な気分になったが、車内の空気が和むのは悪くない。

 街から山に近づくにつれ、遅咲きの桜の花が目立つようになってきた。街なかの桜は4月の中旬に見ごろを迎えるが、この辺りは山から吹き下ろしてくる冷たい風のせいで、一週間ほど遅れて満開になる。所々に一本立ちする桜のピンクが、月明かりに照らされ闇に浮かび上がっていた。

「私、藤って嫌いなんだよね」麻弓が唐突に言った。

「藤って、花の?よくフラワーパークとかでぶら下がってるやつでしょ?」

「そうだけど。あれは作り物だから」

「そうなんだ。てか、まだ咲いてないよね?」

「そろそろ咲くよ。藤って色々な木に蔓をからませて、絡んだ木の表面いっぱいに花咲かせて、なんか乗っ取り屋みたいじゃない」

「そうかもしれないけど」

「なんか詐欺的っていうか。拓斗、藤に絡まれてる木の幹って見たことある?」

「ない」

「怖いよ。ねじれながら幹に巻きついて、まるで締め上げられてるみたい」

「でも実際には締め上げてる訳じゃないんだろ?そんなことしたら共倒れになっちゃう」

「見た目が結構グロテスクなのよ。藤の幹ってごわごわして太さが均一じゃなくて、あっちこっちに不規則に伸びて、なんか魔女の手みたいなの。なんであんな花が咲くのか不思議なのよね」

「ふーん」意外と面白い話だ。

「藤に絡まれた木って、自分で上に延びることができない藤にとっては、骨みたいなものじゃないかしら」

「骨の髄までしゃぶりつくすってか」

「別に、しゃぶりはしないけど」麻弓はそう言って俺には見えない藤の花を眺めるように山に目を向けた。


 途中のコンビニに車を止めた。緊張のあまりトイレに行きたくなっていた。麻弓は車のなかで待っていた。俺はいつもの倍の時間トイレに籠り、無駄なものを全て置いていこうと試みた。ガムとコーヒーを買い車に戻ると、麻弓はスマホの画面を睨んでいた。

「なに怖い顔してんの?」

「別に。これが私の普通の顔。気に入らない?」

「突っかかるね。コーヒー飲む?」

「おしっこしたくなるからいらない」

 うまく会話が続かないことをもどかしく思いながら、サイドブレーキを解除した。

 峠を上るにつれガスが濃くなってきた。並ぶ電灯に薄靄がかかり、霧に反射する橙色が幻想的な光景を浮きあがらせている。霧が濃くなるにつれ視界が徐々に狭まり、今は十メートル先が見えるかどうかだ。俺は事故らないように速度を落とし、ステアリングを握る手に力を入れた。

 考えてみれば、これから殺されにいこうってのに、慎重に運転するっていうのもおかしなものだ。いっそのこと、ここで事故って、二人であの世に行くっていうのはどうだろう。俺はちらりと麻弓の横顔を盗み見た。

「なによ?」麻弓は怪訝な顔をした。

「いや、なんでもない」

「ちゃんと前見て運転してよね。事故でも起こしたらどうするのよ」

「事故ったらどうする?二人で一緒にあの世にいくとか」

「それもいいかも。なーんて、私はユーと一緒に死ぬ気なんてないからね。冗談言ってないで、ちゃんと前見て運転してよ」

「ユーってなんだよ。ミーのこと?」

 霧が更に濃くなり、視界は五メートル程になった。前後に走る車はない。俺は速度を三十キロに落とし、サイドラインを追いながら慎重に運転を続けた。ドライバーとしての孤独を感じながら。

「麻弓は生きていて楽しい?」

 今日はどうもこういう質問ばかりしたくなってしまう。

「なによ、急に。拓斗はどうなのよ?」

「質問に質問で返すのはよくないな。俺が聞いたの」

「楽しいとか楽しくないとか、考えたことないけどなぁ。考えないといけないの?そういうこと。拓斗はどうなの?」

「そうだな、正直、借金を抱えながらの生活は辛い。でもまぁ、ギリギリでもやってこれたし、俺みたいな人間でも見捨てないで一緒にいてくれる人がいたから、悪くないんじゃないか」そう言ったあとで、後半の言葉を消し去ってしまいたかった。

「ふーん」と言うなり、麻弓はジェルネイルで飾られた爪に視線を落とし、親指で擦りだした。

 いつもなら掛け合うように弾む会話が、まるでガス欠の車のように、途切れ途切れにどん詰まる。原因が俺にあるのか、それとも麻弓にあるのか分からない。ひょっとしたら生理かもしれない。

 トンネルに入ると、曇りガラスにクーラーをあてた様に、霧は一瞬にして消え視界が開けた。真っすぐに伸びたトンネルの先まで見通せる安心感と、照明の明るさに安堵した。麻弓に対する感情とは大違いだ。

 トンネルを抜けると下り坂になる。また濃霧が現れるものだと思ったが、予想に反して視界はクリアだった。峠を境にこれだけ霧の状態が違うのはなんでだろうと考えながら、のろのろ運転で生じた遅れを取り戻すように軽快に下った。反動で飛ばしすぎたようで、怖いからスピードを落とせと麻弓が抗議した。

 大きくうねる峠道には、街灯がない。上りに街灯があったのは市側で、下りに無いのは町側だからか。

 麻弓がふいに言った。

「こんなところに人が歩いていたら轢いちゃうね」

麻弓は死にまつわる言葉を軽く口にするところがあった。

「いや、こんな時間に歩いてないでしょ。家ないし」

「それもそうか。でも動物が出てきたら危ないね」

「狸とかハクビシンの死骸はよく見るからね」

「街灯もないから、車の明かりがなかったら、ほんとに真っ暗だろうね」

直線になったところで一瞬ライトを消してみた。

「ちょっとなにしてるの。危ないから止めてよね」

「直線だから平気だよ」とは言ってみたものの、暗い空間にメーターとオーディオのイルミネーションだけが浮かび上がった状態で進むのは、相当にスリルのあることだった。

「そろそろ熊が出る季節かな?」俺は言った。

「そうかも。熊に襲われて三人死んだってニュースもあったから、大丈夫かしら」

「それいつの話?」俺は首を傾げた。熊に関するそんなに派手なニュースを最近聞いた覚えがなかった。

「私が小学生のときだから二十年くらい前かな」

「よくそんなニュース覚えてるね」

「だって、地元のことだったから、衝撃的だったんだもん」

「あー、麻弓は山奥の出身だからな」

「なにそれ。今だって時々熊に襲われたってニュースがあるじゃない。おじいさんが農具で戦ったとか」と言って笑った。

「確かに、人里に熊が下りて来てるってニュース、多いかもね。山のなかよりも食べ物が豊富だからって」

「不動滝なんかに行って大丈夫かしら」麻弓は不安気な声音で言った。

「うーん、大丈夫じゃない。夜だからたぶん寝てるよ。あれ、熊って夜行性だっけ?」ちょっと自信がなくなってきたが、それを打ち消すように「まぁライトも持ってくし、なんならスマホで音楽かけながら歩いてもいいし」と言った。

「ほんとかなぁ」

「山のなかでキャンプする人もいるし、最近じゃトレイルランて山を夜通し走るスポーツもあるくらいだから、平気じゃない?」

 そうかなぁと言うと麻弓は無言になった。不動滝は山間にあると言っても、人里からそれほど離れてはなく、すぐ近くまで車で行ける。近くに温泉宿もあるし、いざとなったら駆け込めばいい。

 峠を下ったところで国道から県道に入り、辺りは一層静けさを増した。こんな山間部にも家はある。観光客向けなのか、カフェの看板があった。数件の古びた家屋を抜け林道に入ると、高い杉の木が空に蓋をするように並んでいた。これでは月明かりも入らない。静けさが不気味さを伴って覆い被さってきた。

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