シュカの眼鏡

@bokegamiya

第1話

ある日、目を覚ますと身体が動かなかった。金縛りか何かだと最初は思った。しかし、奇妙なことに周りに誰も見当たらないのだが、寝息が背後から聞こえるのである。振り返ろうとしても、振り返ることは出来なかった。異変に気づいたのは次の瞬間であった。自分の体を動かしていないのにも関わらず、立ち上がったのだ。夢を見ているのだと思い、現実から逃げようと思った。しかし、目も閉じれなかった。家には、大人が2人いた。こちらを見ると、話しかけてきた。すると、すぐ背後から声がして返答した。この時、私は悟った。自分だと思っていた人は自分ではなかった。自分はその人の眼鏡であると解った。焦りを覚えた。何故私は眼鏡になっているのだろう。体を動かせなかったこともすべて自分が眼鏡であったなら説明がついた。認めたくはなかったが、この悪夢は覚めることはなかった。持ち主と親との会話を聞き、持ち主の正体が分かった。名前はシュカといい、自分がいじめていた同級生だった。そいつの眼鏡に自分がなるとは思いもしなかったというか、なるはずが無かった。意味がわからなかった。ところで、目を覚ましてから非常に気になっていたのだが、不快な匂いがするのである。そうだ。こいつは臭かったのだ。臭かったし、眼鏡をしていて、まさにイジメの代表みたいな男であった。よく眼鏡がダサいことでいじっていた。今、寒気がした。眼鏡をいじっていた。それがこの事件の引き金になっているのかもしれないと思った。だからといって、反省する気にはあまりなれなかった。シュカは臭いし、鼻息も荒かった。すぐ曇る。この男に対し、苛立ちが溜まってきた。苛立ちは次第に恐怖と混じり合い、体(というより、レンズ)全体を震わせた。シュカの視界を通じて世界を見なければならないという現実が、重くのしかかってくる。彼が見るもの、感じるものがすべて自分の感覚に直結してしまうのだ。これまで何気なく見下していたその姿勢が、今は自分自身を苦しめていた。


シュカは部屋を出て、階段を下り始めた。眼鏡としての自分は、彼が歩くたびに微妙に揺れる視界の変化を感じ取るしかなかった。そのたびに不安が増していく。彼がどこに行くのか、何をするのかを知る術もなく、ただ彼の意志に従うしかない自分が、無力で惨めに思えた。


階段を下りたシュカは、家のリビングに向かい、そこにいる母親と何かを話し始めた。彼女の声は優しいが、シュカに対する心配と憂慮が滲んでいるのがわかった。自分のせいでシュカがこんなにも悩んでいたのだろうか? ふとした疑問が浮かぶが、すぐにそれは打ち消された。そんなことを考えても仕方がない。今はとにかく、この異常な状況から抜け出さなければならない。


「学校はどう? 誰かとトラブルはない?」母親が尋ねた。


シュカは一瞬黙り込んだ後、「大丈夫だよ」と短く答えた。だがその言葉には、明らかに嘘の匂いが漂っていた。それを感じ取った自分は、罪悪感に苛まれた。シュカがこの眼鏡をかけるたびに、彼の辛さや孤独がじわじわと伝わってくるようだった。彼が自分のせいでどれだけ苦しんでいたのかを、初めて実感したのだ。

会話が終わると、シュカは再び自分の部屋に戻り、机の上に置かれた教科書を開いた。勉強を始めたようだが、彼の視線はページを追うことなく、ただ虚ろにレンズ越しに一点を見つめていた。集中できないのは明らかだった。

突然、シュカの手が眼鏡に伸びた。驚愕と恐怖が走り、何が起こるのか理解する暇もなく、眼鏡はその手によって外された。視界が暗転し、何も見えなくなった。その瞬間、自分は本当に存在しているのかさえわからなくなった。

音だけが響いてくる。シュカが眼鏡を机に置く音、彼が深く息をつく音。だが、自分には何もできない。ただその場に留まり、音の世界の中に閉じ込められていた。

時間がどれほど経ったのかもわからない。暗闇の中でひたすら待ち続けるしかないのだ。シュカが再び眼鏡を手に取るまで、自分はただの無機物として存在し続けるしかないという無力感が、心を覆っていた。

突然、ドアが開く音がした。新たな足音が部屋に近づいてくる。それはシュカのものではない、別の誰かの足音だった。母親かもしれない、あるいは父親か? だが、それが誰であろうと、自分には関係ない。ただ、その足音が近づくにつれて、何か不穏なものを感じ取っていた。

「シュカ、もうやめなさい」と厳しい声が聞こえた。母親の声だ。彼女の声は鋭く、シュカに対する怒りが込められていた。

「でも、これは僕の唯一の方法なんだ」とシュカが言い返した。その言葉には必死さが滲んでいた。

母親は何かを見つけたのだろうか? それとも何かに気づいたのか? それを知る術はなかったが、ただ事ではないという感覚が増していった。状況が悪化しているのか、それともここで何かが終わるのか、その結末を知ることができない恐怖が、暗闇の中で重くのしかかる。

次の瞬間、再び視界が開けた。シュカが眼鏡を手に取ったのだ。だが、その視線は母親の方を向いていた。母親は険しい表情をしており、手には何かを握っていた。よく見ると、それは鋏だった。

「これ以上、あなたを苦しませるわけにはいかない」と母親が言った。そして、シュカの手から眼鏡を奪い取ると、迷うことなく鋏を振り下ろした。

ガラスが割れる音と共に、視界が再び暗転した。しかし、今回は単なる暗闇ではなかった。鋏がガラスを貫いた瞬間、自分の存在そのものが断たれたかのような感覚が襲ってきた。音も感覚も、すべてが遠のき、やがて完全な無が広がった。

目覚めた時、自分は床に横たわっていた。身体が重い。しかし、今度はちゃんと自分の身体として感じることができた。眼鏡ではない、自分の人間としての体を取り戻していた。

辺りを見回すと、部屋の中には誰もいなかった。シュカも、彼の母親も、すべてが消えていた。ただ、自分が床に倒れているだけだった。夢だったのか? それとも現実だったのか? それすらも分からない。ただ、胸の奥に一つの冷たい感情が残っていた。

この経験が何を意味していたのかを考える余裕もなく、ただその場で立ち尽くしていた。恐怖と安堵が入り混じり、自分が何をすべきかさえ分からなかった。シュカのことを考えると、何かをしなければならないという思いがよぎるが、それが何かも分からない。

一つだけ確かなのは、このままではいけないということだった。自分が変わらなければならない。今までの自分を捨て、何か新しいものに生まれ変わらなければならない。シュカとの間に起こったことが何であれ、それは自分にとっての警告だったのだ。

そして、再び歩き出すために足を踏み出した。しかし、今度は自分の意志で。

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