私のせいで彼女は

金銀花

私のせいで彼女は

ヴーッヴーッヴーッ

鳴り続けるアラームを止めるために彼女の指がスッと私に触れた。音が止むと彼女は起きる気など最初からなかったかのように、また眠りについてしまった。夏休みに入った先週から幾度となく見てきた光景だ。どうやら私が鳴らすアラームでは彼女の寝不足には勝てないらしい。


今日はどのくらい彼女と顔を合わせるのだろうか。彼女が夢の続きを見ている頃、朝から忙しなく鳴いている蝉の声を聞きながらそんなことを考えていた。できればもう休ませて欲しい、というのが本音である。


おそらく昨日は5時間、一昨日は6時間と少し、その前はーーー

といった具合に私は彼女の左手を独占し続けていた。

しかしその時間が2時間を超えるようになったのも、私が暇を持て余すために見られる”モノ”でしかないことを自覚したのも、比較的最近になってからだった。


去年の秋、誕生日プレゼントとして彼女のもとに現れたときの弾けるような笑顔は今でも忘れられない。まだランドセルを背負っていた頃の彼女は勉強も運動も何でも器用にこなし、持ち前の優しさと明るさから沢山の友達に囲まれて、放課後は日が暮れるまで近所を駆け回っていた。私と過ごす時間はほんの数十分だったと思う。

何よりあの頃の彼女は、私が発する光なんかよりもずっと眩しいくらいの自信に満ち溢れていた。


そんな彼女が中学校に入学した4月のこと。これまで2クラス分しかなかった教室が一気に7クラスへと増え、友達とはほとんど離れ離れになってしまったようだった。

「他の小学校の子ともすぐに仲良くなるんだ!」

と、夜ご飯のときに両親の前で意気込んでいた彼女は、周りが流行りのドラマやSNSの話題に敏感であることに気づき、だんだんと私を手に取る回数を増やしていった。

まるでなにかに取り憑かれてしまったかのように食事中でも入浴中でもお構いなしに私を見続け、日に日に友達への返信とタイピングばかりが早くなっていく。SNSを開けば自分よりも才能のある人間が世の中にありふれていることを痛感させられるようで、自分はこんな風にはなれないという声が今にもこぼれ落ちてしまいそうな顔つきで私を見つめることも多くなった。

突然の彼女の変わりようには、私だけでなく両親や学校の先生も戸惑っているようだった。授業の大半を睡眠に当てており、小学生の頃から楽しみにしていた部活動には所属せず、放課後はまっすぐ家に帰ってほとんどの時間を私と過ごしているのだから当然である。笑顔の絶えなかった少女がこんな風に成長してしまうなんて誰も想像していなかった。私の光だけが反射している彼女の目を私はもう見たくない。


本当に彼女は彼女自身なのだろうか。ベッドから起き上がった彼女の手が私の方へと迫ってくるほんの数秒の間、ふとそんな疑問が浮かんできた。今の彼女に不安や恐怖が一切頭をよぎることなく、どんなときも自分を信じることのできた少女の面影は全くと言っていいほど感じられない。私はあの少女と彼女を繋ぎ止めるものをどうにか見つけ出したいと思った。


そんな心配を知るよしもない彼女は、まだ半分ほどしか開いていない眠そうな目で私と見つめ合おうとするがうまく認証されないため眉間にシワが寄り始めていた。すると彼女の部屋の扉が勢いよく開け放たれ、廊下の蒸し暑い空気が私と彼女を包みこんだ。

「今起きたの?早く支度しなさい。30分後には出発するからね。」

そう声をかけた彼女のお母さんは、いつもより少し綺麗めな格好をしている。起きたばかりの彼女はもちろんまだパジャマで、状況が理解できていないようだ。

「どうして?どこか行くの?」

「今日はおばあちゃん家に行くって夏休み前から言ってたでしょう。寝ぼけたこと言ってないで早く着替えなさい。」

彼女のとぼけ具合に呆れた様子で小さくため息をつくと、今度は静かに扉を閉めた。部屋に取り残された彼女も私をバッグに入れてのろのろと支度を始めた。


一家が車で移動する間、助手席と運転席では他愛のない会話が続く一方で、後部座席に座っている彼女は話に入ろうともせず、私ばかり眺めていた。窓の外に広がるいつもとは違う景色にさえも目もくれない。彼女が黙っているのを気にかけてか、

「車で画面ばっかり見てると酔うぞ。ほら、外の景色を見なさい。」

とお父さんが声をかけたが、彼女は生返事をしただけで決して私を離さなかった。しかしさすがに車の揺れには耐えられなかったのか、諦めて眠ってしまった。これでやっと私も到着までひと休みすることができそうだ。

やはり誰からも触れられず、誰とも顔を合わせていないこの時間が私にとっては持ち主との関係を見直すいい機会だと実感する。彼女の手に収まっている時も安心感はあるはずなのだが、何にせよ今の彼女は前とは別人のようでなんとなく落ち着かないのだ。


彼女が変わってしまった原因が自分自身であることは考えなくてもわかっている。ただ、どうして良いかわからないのだ。声をあげることもできない私に一体何ができるのだろう。そんなことを考えている間にプツッと糸が切れたようで、私は真っ暗な世界に落ちていった。


次に目が覚めたときには見慣れない天井が広がっていた。聞いた事のない話し声もする。しばらくの間、会話に耳を澄ましているとここがおばあちゃん家であることやハキハキとした声の持ち主がおばあちゃんであること、そして彼女が雰囲気に合わせて相槌をしているだけで、実際は私が使えるようになるのをチラチラと気にかけていることが分かった。


おばあちゃんとお母さんが学生時代の話で盛り上がり始めたチャンスを逃さず、彼女は私のそばに寄ってきて私をポケットに押し込んだ。

「ちょっとトイレ行ってくる。」

とその場をあとにした彼女は、階段を上って少し歩くと居心地のいい場所でも見つけたのかそこに座り込んでまた私を見始めてしまった。おばあちゃん家にいる間は休めるだろうと思っていたが、そういうわけでもなさそうだ。私にはどうすることもできないので、大人しく彼女に身を委ねるしかなかった。


結局「夕飯できたわよー。」というお母さんの声が聞こえるまで、私は彼女の左手から解放されなかった。あたりはもうすっかり暗くなっている。いつもなら私も食卓に持っていかれるところだが、おばあちゃんがいる手前さすがに気が引けたのか、私は二階の部屋で彼女を待つことになった。


思っていたタイミングよりも少し早く、彼女の足音が聞こえてきた。トントンと響くテンポの良い音に彼女が急いでいるような雰囲気を感じたが、その予想は間違っていなかったらしい。彼女は乱暴に私を掴むとすぐさまポケットに入れて一階へ下り、ガラガラとなる玄関の扉を勢いよく開けた。

「お、来たね。じゃあ行こうか。」

聞こえてきたのはおばあちゃんの声だ。

「うん。」

彼女が小さく返事をすると、二人は並んでゆっくりと歩き始めた。

二人の他に足音はなく、虫の音色が聞こえる静かな夜だ。互いに何も言わない緊張混じりの空気をほどいたのはおばあちゃんだった。

「あんた、なんで私が外に連れ出したかわかるかい?」

「....わからない。けどなんだか大切な場所に向かっているような気がする。」

「そうかい。そういう気持ちが残っててくれて良かったわ。」

「....?」

彼女は黙り込んだ。おばあちゃんの言葉の意味を理解しようとしているような沈黙だった。「お母さんから聞いたよ。あんたずっとスマホを見ているそうじゃないか。私に言ってくるくらいだから、どんなもんだと思って様子を見てたら二階に上がったきり戻ってこなくて驚いたよ。今も持ってきてるんだろう?」

「....うん。」

彼女は消え入るような声で頷き、遠慮がちにポケットから私を取り出した。

「何をそんなに必死になって見るものがあるんだい。スマホなんてなくたって何一つ困らないよ。」

私を握る手に力がこもった。

「そんなことない!スマホがなきゃダメなんだよ!!友達の話にだってついていけないし、それに....」

ムキになって必死で言い訳をする彼女をおばちゃんは遮った。

「今を見なさい!今この瞬間は”二度と”ないんだ。機械を見続けても、友達ができるわけじゃないだろう?それにあんたは、スマホのせいで自信を失ったんじゃないのかい。スマホなんて持っていなかった去年までのあんたは、いつも自分のすごいところを私に話してくれたじゃないか。自分に自信を持つことって口で言うのは簡単でも、実際は難しいんだよ。」

おばあちゃんは彼女の変化を半日ほどで見抜いてしまったようだ。彼女の手がさらに力強く私を握る。

「何もすごくない。私は何事も中途半端で、得意だって言えるものなんか一つもない。自信なんて持てるわけないの。上には上がいるのに、何を理由に頑張るのよ。」

「上には上がいる?そんなのは当たり前だよ。だから自分自身が自分はできるって一番信じてあげなきゃいけないんだ。自分が夢中になれる、自分を好きでいられる瞬間に出会うために私達は今この瞬間を大事にしなきゃいけないんだよ。ほら、空を見てご覧なさい。」

彼女はそれ以上何も言わなかった。いや、おそらく泣いているのだと思う。

ようやく「綺麗」とつぶやいた彼女の手は私をとてつもなく安心させた。


二日後の朝、おばあちゃん家を出発する直前に彼女は記念写真を撮ることを提案した。たまたま家の前を通りかかった近所の人に声をかけ、彼女は私を預ける。

もしかしたら私にできることは、おばあちゃんが言っていた今この”瞬間”を彼女が忘れてしまわぬように切り取ることなのかもしれない。そんなことを思っている間に

「いきますよー。はい、チーズ!」

心地よいシャッター音が切られた。

カメラ越しでもわかるほど彼女の笑顔は眩しく、あの夜の星たちよりもずっと光り輝いていた。

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