「ここが君の家だ」

@k823D_K

売れ残るくらいなら自分が買ってやってもいい。

 「ここが君の家だ」

悠斗は玄関のドアを開け、レオを家に迎え入れると冷たい声でそう言った。レオは一歩足を踏み入れ、目の前に広がる見知らぬ空間に不安そうに立ち止まる。期待と少しの不安を抱え、その大きな目で悠斗の顔を見上げた。悠斗はほんの一瞬だけ見つめたが、すぐに視線を逸らした。彼の目から、愛情や温もりは感じられない。

 その日。悠斗はいつものように無機質な部屋に帰宅した。仕事で疲れ切った彼は、椅子に座り、深いため息をつく。無音の部屋は、彼の孤独をさらに際立たせた。部屋の中にあるのは、機械的な生活の道具だけ。心を満たすものは何もなかった。

「これではだめだ」

悠斗はつぶやいた。何か心を満たすものが欲しい。突然彼は考えた。「ペットを飼おう」。すぐに財布とスマートフォンを手に取り、近くのペットショップへと向かった。

 気づけば悠斗は、犬たちが並ぶガラスケースの前に立っていた。犬たちが無邪気に遊んでいる姿を見て、ほんの少しだけ心が和んだ気がしたが、それ以上の感情は湧いてこなかった。ふと、端のケースの中にいる小さな犬に目が留まった。茶色の毛並みが柔らかそうで、その瞳はどこか不安げだった。

「この犬、なんて名前?」

と悠斗は店員に尋ねた。店員は

「この子はレオです」

と笑顔で答えたが、悠斗がそれ以上の説明を求めることはなかった。レオが自分の心を満たしてくれる確信はなかった。だが、この犬も売れ残るくらいなら自分が買ってやってもいい。軽い気持ちでレオの購入を決めた。レオは新しい家に連れて行かれることに期待を抱いていたが、悠斗の心にはその期待を受け止める余裕は全くなかった。レオを手に入れた悠斗は、無言で車に乗り込んだ。「これで少しは自分の生活も変わるだろう」慣れない環境に不安そうなレオを横目に悠斗は車を走らせた。

 悠斗は玄関で冷たく言い放つ。

「ここが君の家だ」

しかし、その言葉には愛情も、期待もなく、ただ空虚な響きだけが残った。レオは、期待を込めて見つめる瞳の先に、冷たい現実が待ち受けていることをまだ知らなかった。

 ある日、仕事で疲れた悠斗が帰宅すると、レオが嬉しそうに近寄ってきた。しかし、悠斗はそれを鬱陶しく感じ、

「邪魔だ」

と冷たく言い放ち、レオを足で押しのけた。それでもレオは、健気にその大きな目で悠斗を見上げる。

 日が経つにつれ、悠斗のストレスは増し、それが苛立ちとなって現れた。レオが吠えたり、物音を立てるたびに悠斗は

「うるさい!」

と怒鳴り、最初は軽く叩くだけだった手が、次第に力を増していった。虐待は止まず、悠斗は意図的にレオに食事を与えなかったり、ケージに閉じ込めて放置するようになった。レオは次第に元気を失い、怯えた目で悠斗の顔色を伺うようになった。

 ある晩、仕事帰りの悠斗の苛立ちは頂点に達した。レオが近づいてきた瞬間、手に持っていた鞄を床に叩きつけ、

「お前が全部悪いんだ!」

と叫び、激しくレオを叩いた。レオは震えながら隅に逃げ込んだ。レオが自分を怖がることに微かな優越感を感じつつも、その姿がますます鬱陶しく感じられ、レオを床に投げつけた。レオは、恐怖で縮こまり、悲しそうな目で悠斗を見つめた。悠斗はぐったりしたレオをケージに押し込むと、寝室に向かい、怒りと疲れの中で眠りに落ちた。だが、すぐに彼は奇妙な夢の中に引き込まれた。悠斗は見知らぬ場所に立っており、周囲が不気味な光に包まれている。突然、視界が暗くなった。体が重くなり、意識が遠のく感覚に襲われた。夢の中で、悠斗の体は縮み、視界が低くなっていく。彼は四つん這いになり、自分の手が毛に覆われた足に変わっていることに気づいた。恐怖に駆られた悠斗は叫ぼうとしたが、口から出たのは犬の鳴き声だった。悠斗は、レオの姿に変わってしまったことに気づき、暗闇の中で絶望に凍りついた。悠斗が目を開けると、見慣れたはずの部屋がまるで異世界のように感じられた。家具はすべてが巨大にそびえ立ち、彼を取り囲んでいる。テーブルの脚はまるで木の幹のように太く見え、ソファの影は暗く、まるでそこに何かが潜んでいるかのようだった。彼は自分が突然、あまりに小さく、無力な存在になってしまったことに気づく。悠斗は自分の足元を見下ろし、毛に覆われた小さな足が自分のものだという事実に戦慄を覚えた。恐怖が彼の心を支配し、背中を冷たいものが駆け抜けた。夢だろう。そう思おうとしたが、感覚はあまりにリアルで、現実との境界が曖昧になっていくのを感じた。悠斗はレオの視点から世界を見ているのだと悟った。彼は混乱しながらも、再び目を閉じ、目覚めることを願ったが、開けた先に待っていたのは、夢ではなく現実の恐怖だった。悠斗はレオの体のまま、再び目覚めたのだ。現実と夢のどちらが本物なのかもわからなくなる中、彼はただ震えながら、自分が体験していることの意味を必死に理解しようとした。

 レオとして過ごし始めた悠斗は、まだ現実感のない感覚の中で、恐怖に怯えながら毎日を過ごしていた。彼はレオの体で見る世界がいかに威圧的で恐ろしいかを痛感していた。足音が近づくたびに、彼の心臓は激しく鼓動し、体が硬直して動けなくなる。

 ある日、レオ(悠斗)は、何気なくカーペットの上にいた。飼い主である悠斗が、苛立ちとストレスを抱えて帰宅してくる気配を感じ、恐怖が彼を一層深く支配した。悠斗は玄関を乱暴に開け、レオが視界に入るや否や、目を細めて怒りをぶつけるかのように歩み寄った。

「邪魔だ!」

と一喝し、レオを見下ろす。レオの小さな体は、恐怖に震えていた。悠斗は怒りを抑えきれず、何も考えずに足を振り上げ、レオの体を乱暴に蹴り飛ばした。レオは、痛みと衝撃で壁にぶつかりながら倒れ込んだ。体に激痛が走る。彼は苦しみの中で小さく震える体をどうにか起こそうとするが、力が入らない。レオは混乱し、痛みで涙がにじむ瞳で悠斗を見上げた。しかし、その瞳にはただ冷たく無関心な視線が返ってくるだけだった。悠斗はさらに激怒し、

「なんでこんなに手間がかかるんだ!」

と叫びながら、再びレオに暴力を加えようとした。レオはなんとか立ち上がり、悲しげな目で悠斗を見つめたが、次の瞬間にはまた床に叩きつけられていた。悠斗は、自分がどれほど無力で脆弱な存在であるかを痛感し、ただ耐えることしかできなかった。彼はこの瞬間、かつて自分が行っていた虐待の意味を、全身で理解した。そして、自分が与えていた苦しみがどれほど深かったのかを、今、痛みを通して知ることとなった。

 ある日、レオは飼い主である悠斗の都合で、おばあちゃんの家に預けられることになった。ケージに押し込まれ、家に向かう車内、レオは不安と恐怖で体を小さく縮めていた。どんな新しい場所でも安心できるわけではないと知っていたからだろう。

 車が停まり、玄関のドアが開かれた瞬間、おばあちゃんが微笑みながら出迎えてくれた。彼女はレオを見て、優しく迎え入れた。おばあちゃんの手が震えるレオの体に触れると、穏やかな声で「大丈夫よ、怖くないわ」と、頭を撫でてくれた。その優しい声と温かい手の感触に、レオは安らぎを感じた。

 おばあちゃんは、レオをまるで家族のように愛情を込めて接してくれた。彼女はレオを膝に乗せ、ゆっくりと撫で続けた。レオはその温かさに包まれ、これまで感じたことのない心地よさと安心感を味わった。おばあちゃんの家は、まぎれもなく心を満たしてくれる場所だった。おばあちゃんがそばにいるだけで、安心し、幸福感に満たされた。彼の大きな目には、これまでにない光が宿っていた。

 しかし、幸せな時間はあまりにも短かった。飼い主である悠斗が出張から戻り、レオは再び元の家に連れ戻されることになった。レオはおばあちゃんの家から離れたくないと強く願い、足を踏ん張ったが、無情にも車に押し込まれ、冷たい現実へと引き戻されていった。

 家に戻った瞬間、レオは再びあの冷たい空気に包まれた。悠斗は、レオを迎え入れる際に何の感情も見せず、再びケージに押し込んだ。レオは、またしても悠斗からの暴力を受け、床に倒れ込んでいた。体中に広がる激痛と恐怖で、彼は震えながら立ち上がろうとするが、力が入らず、再び床に倒れ込んだ。

 夜になると、レオはおばあちゃんの家で過ごした幸福な時間を夢に見るが、目が覚めると再び冷たい現実に引き戻される。その繰り返しが続く中で、レオは次第に希望を失い、無力感に支配されていった。おばあちゃんの家で芽生えた暖かな記憶は、今や彼にとって最も苦しいものとなり、心を蝕んでいく。彼の心に強烈な後悔が襲ってきた。自分がかつて行なってきた虐待がどれほど残酷であったかを痛感していたのだ。これまで自分が無意識に与えていた苦しみがどれだけ深いものだったのか、絶望がどれほど大きなものかを、今や全身で理解していた。「もうやめてくれ!」と心の中で叫び、彼は大きな目から涙をこぼした。自分が何をしてしまったのか、その重みが彼の胸を締め付けた。彼はもう二度と、誰かをこんなふうに傷つけたくないと、心の底から誓った。

 ある夜、レオは再び悪夢にうなされ、強烈な光に包まれた。混乱と恐怖の中で、いくらか懐かしいような感覚がある。目が覚めた瞬間、自分が人間に戻っていることに気づいた。しかし、レオとして過ごした恐怖と孤独、愛情の記憶は、強烈な感情と共に鮮明に記憶に刻まれていた。深い後悔と罪悪感に苛まれた。彼は涙を浮かべながらその場に膝をついた。涙が止まらなかった。怯えるレオに向かってゆっくりと歩み寄り、その体に強く抱きついた。「ごめん…本当にごめん…」

声を詰まらせながら泣き続けた。そして誓った。レオの心を満たせる場所を創る、そう。

「ここが君の家だ」

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