渇き

富樫 美貴

渇き

 午前5時頃、いつものように始発電車の音で目を覚ました男はのそりと起き上がり、灰色のカーテンをひっぱった。

 外にはどんよりとした雲が居座っており、これを見た男は折り畳み傘をカバンに忍ばせることを決意する。男は大きな伸びをした後に吸い込んだ空気をため息として吐き出した。

 男が寝室としている部屋は今は疎遠となった娘の部屋で、壁紙は淡い桃色だった。しかし、元の桃色を想像し難いほど壁紙は黒ずんでいる。無理もない。娘が進路について妻と揉め、この部屋が男の寝室となったのはもう10年も前のことなのだ。毎朝この黒ずみが男に娘のことを思い出させ心を一層重くしていく。

 男はある程度の身支度を終えてからリビングルームへと向かった。そこには朱色のワンピースが何着も散乱していた。妻が昨日出かけていくときにどれを着るのか迷った跡だろう。この全身につき刺さるような鮮烈な朱色は彼女が好き好んで使う色であり、最も似合う色でもあった。

 男は足元に気をつけながらトースターのある台所へと向かう。食パンを1枚取り出し、焼いている間に冷蔵庫を開いてバターを用意する。普段家にいないことが多い妻よりも男のほうが食材や食器の場所を記憶していた。男は無味に近いパンを胃へと流し込んだのち、家を出た。

 鉄製のドアが立てた重い音が誰もいないアパートの一室に低く響いた。


 夜、男はずぶ濡れの状態で家に帰ってきた。結局折り畳み傘を家に忘れたのである。コンビニエンスストアでビニール傘を買うこともできたが家にある数本の長傘のことを考えると憂鬱だった。

 朱色に染まったままのリビングを見て男は妻が家にまだ帰ってきていないことを確信した。

 近くのスーパーの、既に冷めている惣菜をつつきながらパソコンを開き、終わりきらなかった作業を片付けていく。毎日毎日毎日毎日同じように風呂を済ませ、歯を磨き、カーテンを閉め、アラームをセットしベットに潜る。男はまるで時という空白を埋めるためだけに生きているようである。


 男は常に漠然とした渇きを感じていた。そして常にそれを潤すものを追い求めていた。 



 朝、男は静寂の中で目を覚ました。アラーム音もない、電車の音もない、静寂の中である。また眠りにつこうとした彼は慌てて飛び起き、壁掛け時計を見た。いや、正確に言うと見ようとした。いつもそこにあるはずの時計がそこにはなかったのだ。彼を囲んでいるのは暗い桃色ではなく一点の曇りもない白だった。

 触るのをためらってしまうような光沢のあるカーテンを恐る恐る引っ張って見ると、窓の外に広がっていたのは深い緑の山々と吸い込まれそうな青い空であった。そこにあるはずの見慣れた住宅街は跡形もなかった。

 そして非常に自然な流れで彼の視界は部屋の隅にある縦長の鏡を捉えた。男は絶句した。鏡の中に在る像は彼の記憶している彼自身ではない、いわゆる別人であった。もともと饒舌ではない男だが、このときばかりは誰一人として彼の口を開くことは出来なかったに違いない。

 まばらにあった白髪は無くなり漆黒の頭に、シワが目立っていた顔もハリを取り戻しているように見える。端的に言うと中年に分類されていたであろう男から青年と呼ばれるに相応しい男に変化していた。しかし、ただ若返ったという訳では無い。言葉通り別人になっていたのであった。男はもう一度鏡の中の青年を静かに見つめた。そして唐突にその静寂は破られる。


「あはっ、あははははは────」


 男は笑っていた。心の底から笑っていた。彼の笑い声は高らかに部屋に響く。男に恐怖はない。動揺もない。悦び、ただそれだけだった。


 あの朝から数日が経過した。男が眼の前で起こっていることを現実として受け入れるには十分な時間である。彼はその時間で確信したことを頭の中で何度も反芻しながらソファーに腰を下ろしていた。

──今の私はこの社会における〝富裕層〟である。

 窓ガラス張りのリビングルーム、驚くほど高い天井、財布の中に入っていた何枚ものブラックカード、全部上げていたらきりがない! 家から車から身の回りの小物までが男の財産がいかに多いかを、静かに、だけど強烈に訴えかける。男の口角は自然と上がっていた。

 そんな男にも悩みはある。この数日間、ほとんど人に会っていないのだ。どうやら男の住まいは都市から離れた山々の中にあるらしい。宅配業者数名、これが彼が会った人々の全てである。いくら独りが好きな人間といえども、これほど人に会わないと逆に恋しくなるものだった。

 悩みは1つだけではない。それは降り積もっていく埃である。男の家は1人で暮らすにはあまりにも広すぎるのだ。屋敷と呼ぶに相応しい住まいに男は住んでいた。彼は頭をひねり、どうしたものかと思い悩んだ末、ふと1つの解決策を思いついたのであった。


 3日後、誰かがドアノッカーを打ち鳴らす音が、重く、堅く屋敷の広間に響いた。男が開けたドアの向こうには女性が1人立っていた。つややかな黒い髪を腰下まで伸ばした美女である。男はその完璧とも思える容姿に驚きながら、彼女を屋敷の中へ通した。そう、彼は人を雇ったのであった。彼の思いついた解決策とはまさにこれである。人と話す機会が設けられるうえに掃除も男自らする必要は無くなる。彼は満足げな様子であった。


 それから男は以前からは想像できないような生活を送っていた。

 生物というものは環境に大きく左右されるものである。かくいう男もそうであった。彼の肉付きは当初よりもずっと良くなっており、気性も激しくなっている。

 この生活が始まってすぐは良かったのだ。しかし、暫く経つと男はまた、あの渇きを感じていた。


 彼の女に対する態度は目に見えて悪くなっていった。彼をそうさせたのは勿論あの渇きである。女はそんな男に不満を持ちつつ、淡々と仕事をこなしていた。働かなければ賃金は支払われない。それは当たり前のことだ。

 

 金。それは人一人を動かすのに十分な力を持っている。



 その日は嵐だった。屋敷の外では激しい雨が降っており、雷鳴が轟いていた。それ故、男は気づくことが出来なかった。窓ガラスが砕け散った音に。

 

 彼はテレビを見ながら食事をしていた。それは各地の中継映像と共に嵐の被害について報じており、男の興味を引くものではなかった。彼がチャンネルを変えようとリモコンに手を伸ばしたその時、スプーンを落としてしまった。カツーンという無機質な音が響く。これでは眼の前の料理を食べることができない。

 彼は代わりのものを持ってこさせるために女を呼ぶが返事はない。いつもならば直ぐにやって来る女が姿を見せないどころか返事もしない。しばらくしても返事は帰ってこないので男は怒って女を探しに部屋を出た。



 女はなかなか見つからなかった。男はいつも女がいそうな場所を虱潰しに探したが女の姿は見えない。彼は何個目かも分からない角を曲がった先に人の影を捉えた。男はやっと女を見つけたと思ったが、それは違った。彼の知らない人間が彼の屋敷の中にいた。

 彼が驚きにより硬直したその時、すぐ近くに雷が落ちたのか凄まじい音が彼の耳を貫いた。男は一瞬目を瞑った後、直ぐに開いたが視界は戻ってこない。広がっているのは暗闇だ。屋敷は停電していた。何者かの右手に握られたものが外の光を反射し、怪しく光る。それは銀食器などではなく、ペティナイフであった。何者かはナイフを男に向けたのち、こう言った。


「金はどこだ、金をだせ」  


 それは妙に聞き慣れた女の声であった。男は恐怖で声が声にならない。彼はその覆面の女に背を向けて暗闇の中を闇雲に逃げ回った。最終的に彼は追い詰められ角部屋に入った。彼女も部屋の中に入ってくる。


「金はどこだ」


 彼女の声は苛立ちを帯びていた。男は走り回ったことで息が上がってしまい、またもや声が声にならない。彼は更に部屋の中で後退りする。その時男は足に何かが引っかかり、後ろへ尻もちをついてしまった。男が声を振り絞ると同時に停電が解消され、屋敷中の照明がついた。


「かっ、金ならある! 金は、わぁぁぁぁあぁあぁっ────」


 彼が足を引っ掛けた何か、それはつややかな黒髪の女性、つまり雇った女の足だった。女は床に横たわり、腹部と首から血を流している。そして女の目は既にもう世界を映していなかった。


 男は叫びながら強盗を押しのけて部屋を出ようとしたが、当然彼女はそれを止めようとした。その結果、取っ組み合いになった末に男はやってはならない事をしてしまった。彼女の覆面を取ってしまったのだ。男の目に映ったのはよく知った顔だった。全身に突き刺さるような鮮烈な朱色が似合う────。


 男の腹に鈍い痛みが走った。その痛みはどんどん研ぎ澄まされていく。その痛みとともに男は何かが身体から流れ出ていくのを感じた。それは、妙に温かい。もう声は枯れ果てていた。彼女はそんな男の様子を見下ろすように立ち上がり、彼に背中を向けて部屋を出ていく。彼女の後ろ姿が見えなくなると同時に彼の意識は途絶えた。


 何が男の渇きを潤し得たのか。

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渇き 富樫 美貴 @yagiya-gi

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