青色

珊瑚水瀬

青色

—感受性が豊かな者は不幸である。なぜなら、人が感じなくても良い痛みまで感じてしまうからである—―

 異国の小説にある悲しみに筆を滲ませた一文は僕の中ですんなりと腑に落ちた。 

 そのセリフを砕いて飲み込む代わりに最近買った青マーカーで刻印することを決めた。

 というのも、僕がその典型例であったからだ。この世界は感受性が豊かなものには優しくないということは幼少期の記憶からQEⅮを導き出していた。


「おい、お前変なことしてるやん」

「みて、何なんその表現、こんなん見ても意味わからんねんけど」


 お笑いのコントのような会話が好まれるこの地では、むしろ茶化すことが友情の証となっていた。それ自体否定はしないが、僕のような「変」な表現をするものには、その劇に加わる面白いマクガフィンの一つとして取り上げられるのもおかしくはない。


木漏れ日が差し込む木の下で優雅に洋書を読みながら木を椅子の代わりにして時が流れていくのを皮膚から紡ぎだす。


 僕の見えていた世界はそんな世界だったのに、簡素な言葉で、There is a boy who reads the book under the tree.と簡単な英語の訳になったような気分を覚えた。一つの笑いの要素と化した「それ」を外に出さないと決めたのは、君は外の存在者であると世界から拒絶されることを知ったあの日、木陰にあった本を無様に取り上げられたあの日からだった。その時に見上げた空の青さの無常さはあまりにも鮮明に僕の記憶の脳裏にこびりついて離れることはない。

 それから青をしきりに気にするようになった。あの時蓋をした概念を物理的存在へと変換する為にそうなったのかもしれない。

 青にもたくさん種類があることを知った。心が一気に冷えていく真夏のかき氷のブルーハワイのような冷ややかな青。全てを飲み込んでいく空のキャンパスに描いた夏雲の青。どこにも行けないような深い海の中の宝物が隠されているような秘密の青。誰にも口に出せない代わりに食べたものをすべて吐き出すときに出てくる表情の青。

 どんな青も空虚な中身を具現化するように僕のそばに居続けた。そうすると僕は僕であるとあの日捨てきった感受性の事実がそばにいてくれているような気がした。だから僕は青を偏屈な意味でまとうことを是としていたのだ。

 でも、そのおかげでひときわ聡明で理知的な君が雨の滴る藤棚の下で不自然に浮いたガーメント生地の青いワンピースを着て一人で佇んでいたのを見つけることが出来たのだと思う。学部が一緒で顔だけは見たことあるような印象にはほとんど残らない子。頭が良いというのは風のうわさでは聞いていたが、普段は女の子たちの中の一人のような印象しかない子。しかし、ひたすら滴りくる雨粒に濡れ続けるのは構わないというようにただ、空の向こう側を見つめている彼女があの日の僕を彷彿させた。 


「やあ、どうしたの?このままそこにいると雨に濡れてしまうよ」

「ええ。濡れるためにここにいるのだから私はそれで構わないの」


 僕に話しかけられたことを驚くわけでもなく、ただすんなりとその事実を受け入れた。

「そう。じゃあ僕もここにいるよ」

「変な人ねえ」

「君も今そうやってしているじゃないか」

「そうね」

「そうだね」

 彼女を真似したような僕の語りは不思議と彼女の内側に響くことが出来たみたいで、横に座っても嫌がられることはなかった。暗い底にためていた青にたどり着けるようなそんな彼女の長いため息を真横で感じながら、この雨は霧雨か驟雨かと考えるぼくはただ呼吸を繰り返した。

「脱毛」

突然彼女はありきたりな言葉を吐き出したかと思うと、一息に話し始める。

その言葉を何度も心の中で復唱して今やっと紡ぎだせたみたいに。


「わたしね、わからないの。ずっと。毛をそることは女性になることなの?それは義務ではないのに私たちはどこかそれはしなくてはいけないことで常識と化しているじゃない」


「そうだね」


「私聞いたのよ。なぜそうするのかって。もしこの世界に女性しか存在しなくてもそれはするのかしら」


「そうだね」


「私はね、普通のふりはしたわ。そうねえって。でも本当は気持ち悪かったの。初めはミソジニーなのかと思ったわ。でもそうじゃない。毛をそる人が気持ち悪いのではなくて、毛をそらない人が気持ち良いのではなくて、理由もなくただそうするべきだと考えているその思考回路にこの違和感の正体があったの」


「そうだね」


「理由もなくその行為をやっていることにおぞましさを感じたのよ」


「そうなんだね」


「ええ」


 彼女はたまっていた埃を全て掃ってしまって心の掃除をし終えたかのように顔を徐に上げた。そしてあどけない少女の顔で僕をまじまじと見つめた。


「あなたは聞くのが上手ね。私こんなこと話すつもりなかったのに」


 僕は相槌を繰り返して、その声色を上手に変えることにたけていた。藍と言う言葉にも逢、愛、哀、会い、相と「あい」と言う言葉にたくさんの意味が付随することが僕の中で定義されているように、そのような現象は彼女の中でも理解に値したようだった。

 人は、あまりに多くの言葉を紡ぎすぎる。アドバイスや自分の思っている感情を言葉に乗せて、その人の心のうちまで食い物にしようとバリバリと食べつくしてしまう。その1音の先にあるその人が本当に口にしたい初めのリズムを理解しようとする前に。

 あの日、僕が閉じてしまった世界への感受性を僕以外の人が失わないようにその思いを飲み込み続けることを僕は好んだ。


「どうしてあなたはこんな私と話そうと思ったの?」


 ふとふいに我に返ったかのように彼女はありきたりな質問をした。音階で言えば初めに来るのメジャーコードのような普遍的な質問。それを鳴らさなければ曲が始まらないと言わんばかりのようなありきたりな質問。僕は普段自分のことをなるべく話さないようにしている。「君は優しくって冷たい人間だ」とたまに鋭い質問を浴びせられることもあるけれども、それは僕の内を守る防衛手段であったことは、気が付いていたが見ないふりをした。しかし、今僕を見つめる彼女の真剣な瞳はあの日見た、彼らの嘲笑した眩いほどの素直さとはまた違う印象を僕に与えていた。それは僕の閉じかかっていた貝の口を開かせるような率直な空気を持っていた。だからかもしれない。次の質問はいつもと違う行動をしていた。


「君はさっきずっと空を見つめていたじゃない?どうしてみていたの?」


「意味ね。私は内と外について考えていた。私と言う人間は薄い膜に覆われていてどこまでも実態をつかめない存在であって、人はその表面に見えた何かで私を「私」であると表現する。色や形や造形でね。その奥には確かに違うものが見えているのにそれに触れてくることがない。まるでそれに触れることを恐れているように。空も一緒じゃない。私に触れることなくそこにあるだけ。手を少しだけ伸ばしたら届きそうなのに本質はもっと遠くにある。そういう無力感を覚えたからみているの」


 僕は濡れた服が薄い膜を作り、そのまま透き通って中身まで無くなりそうな彼女をただ横で見守るしかなかった。透き通る青。雨に濡れたから透き通っているのではなく彼女自身が青をまとっていることに気が付いたのは、僕と同じようなことを考えていたからだろうか。空で感じたあの無常さは、彼女の無力感と似ているのではなかろうかと。現象として導いた結論は一緒なのに証明の仕方は全く違う不可思議さ。しかし、僕は彼女の回答が甚く気に入った。


「僕もそう思ったことがあるんだ」

「そうなのね」


何でもない相槌。落ちる空の先に見える、雨模様。明日は晴天。飛行機雲は雨の切れ間からもう見えない。しとしとととめどなく流れる雨音。藤棚の甘さと混じる草木の香り。この雨は冷雨だ。きっと。

 色々な言葉が僕の脳裏に浮かんでは消え、浮かんでは消えた。そして何もなくなった世界。

 ――閉じた世界に必要だったのは、沈黙であったのかもしれない。なにか言葉をつむがないとといつも焦り感じていた僕はどこにもいない。今までしていたこの相槌こそ、感受性の一種であったことに気が付いた。感受性の広がりは一種のゆとりによって紡がれていくのかもしれない。

と思えるほどには僕の世界に本当の青が、無力感の青を通じて戻ってきたみたいだった。


「もう晴れてきた。入道雲が東の空に浮かんでいたものね」

「ああ」


 空を見上げた時、無力感とあの時の閉塞感は、前ほど感じなかった。

僕が今まで自己を守るために身に着けた相槌も結局僕の中の感受性から紡ぎ生成されたものに過ぎなかったのだ。あなたのことを理解したいと心の中が震えた瞬間に確かに僕の中にたまっていた湖の水が放出される音をこの耳で聞いた。

人の話を聞くことにも感受性が僕を守るべくして包み込み、ずっとそれを繰り返していたんだと。沈黙が心地よい人を何千年も前から待っていてその為にこの技術を密かに磨き続けていたんだんだということが。

この青さをほどくには、簡単なことであったが気が付かない盲点が存在したのだった。


「「共感」」


僕が、いや、彼女がまた次の話を始めようと一言紡ぎだしたこの言葉の内に今までしたためてきたものを解くものがあるのだと僕は思うんだ。

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青色 珊瑚水瀬 @sheme

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