藍より出でて

若月 はるか

藍より出でて


 男は、若者たちの寝息が穏やかであることを確かめてから、ひっそりと気配を忍ばせて仮初の宿とした元喫茶店と思しき店舗を抜け出した。

 明かりのない街灯が並ぶ大通り、かつてこの街並みのシンボルであっただろう傾いだ電波塔と高く低く崩れたビル。住人のいなくなった町は月明かりに静まり返り――己の足音ばかりが耳についた。

 被っていた黒いマントのフードを払うと、使い込んですっかり艶やかになってしまった棍を支えに――ポケットから取り出した残り少ない煙草で一服。老人と呼ばれるにはまだ遠いが、若いと評してくれるのはそれこそ老齢に踏み込んだ者たちくらいだろう――フィルターを銜える口元や紫煙を追う目元には重ねてきた歳月が刻まれ、若い頃には青みがかって輝いていたはずの銀髪もすっかり艶を失くしてくすんでいる。伸びるに任せたフロントやサイドを後方へ流すようになったのは、頭頂部に不安を感じ始めた頃だったか……自嘲気味に振り返るのは、大通りの先から静かに歩み寄る人影を懐かしく見て取るから。月影に浮かび上がるように幅広い袖と長い裾を翻す白衣びゃくえ――古の大陸からの流れを汲む装束をまとうのは、長い黒髪の半分を白くしてもなお褪せないかつての美貌を残す愛すべき友。

「老けたな……」

 開口一番、憎まれ口をたたく――相変わらずの遠慮のなさが、いっそ心強い。

 己の後継者と共に先の廃墟で休んでいる彼の弟子を逃がす際、殿しんがりを努めた後、消息がつかめなかったと聞いていたが、いずれかに隠遁して傷を癒し力を蓄えていたと見える――華奢ではないがすらりと細身の肢体には、冴え冴えとした気迫さえまとって感じられた。

「衰えちゃいないさ」

 此方――掲げる棍には、長年をかけて流し込まれ馴染んだ術式が鈍い黄金に輝く。

「あいつらは、もうしばらく休ませてやらなきゃならねぇ……」

「そもそも、おれ達の役目だ……このくらいの役にたたなけりゃ、どの面下げて師匠だと偉ぶれる?」

 幾年ぶりか交える視線には、隣り合い背を預け合ったかつてのように――同じ思いが宿っている。

「お前も一端の師になったもんだな」

「他人事みたいに……お前こそ」

 軽口を叩き合いながら、見上げるのは――傾いた電波塔……さらにその先の空。

 月の輝きで薄明るい夜空に、ぽっかりと……鋭利な刃物で切り取ったかのような多角形を描く――それは、真に一筋の濃淡もない黒い穴。じわりじわり…浸食するに似て広がり続ける――「無」の洞。

 かつては、偶発的な自然現象でしかありえなかったそれが、意思を……否、明確な悪意を孕んで溢れ出し世界を侵し始めた理由わけを彼らは、誰よりも知っていた。

 今はもう遠い昔、突然発生した「無」に家族を呑み込まれた――たまたま、ほんの数歩駆け出していた、まだ子供だった男だけがひとり取り残された。呆然と立ち尽くす子供の前で、さらに広がろうとする「無」を押しとどめ、洞の口をふさいだのは――黒いマントを頭から被り青く輝く杖を振るう、ひとりの女性だった。男は、それから数年をかけて、その女性から「無」を退け、穴を閉じる術を教わった。

 友とは、その時期の後半を共に過ごした。男同様に身内を「無」に呑み込まれた彼は、男の師となった女性の甥弟子にあたる。彼の師事した男性が、さらに「無」に引き込まれたことから、男の師を頼りに身を寄せたのだ。出会った頃は、互いに多感な年ごろでもあり――お互い気に喰わない部分ばかりが目に付いて反目し合ったものだが、自ら顧みて無駄な意地を収めれば、隣にあることがこの上なく心強い存在となった。

 にもかかわらず、共にあった日々以上の歳月を――二手に分かれ「無」の穿つ穴を追い、を探し出すことに費やすことになったのは……。


 あげくに、俺達は間に合わなかった……。


 今、「無」を支配する悪意の根源は――男たちの師たる女性の胸の内で醸された嫌悪と憎悪……。

 男も友も気付かなかった、彼女は鷹揚で豪快で陽気なひとであったから――。

 彼らの師は、自身の存在をも含めた世界を厭い憎んでいた。

 「無」を退けていながら、「無」の洞を羨み恋い、「無」に近づき得ようとしていた。

 あの日、あの頃の男ひとりでは塞げないほどの穴を見つけ、師と友に救援を求めた。駆けつけた師の場違いに浮かべやった笑みに不穏を感じる間こそあれ――友ともども彼女の技に打ち据えられ、ふたり混乱したままに見上げた光景は……「無」に両手を伸ばす、師の姿。

 あり得ないことに、彼女は「無」に直に触れ――胸に抱いた。

 取り込まれるどころか抱き寄せた「無」を呑み込むと、自ら「無」の洞へと踏み込み――姿を消した。

 彼女の心に深い傷をつけた世界への呪詛を吐きながら……。

 動揺を残しながら――それでも…と、「無」を払う日々を送るうちに、感じとった。それまで、自然災害のようであった「無」の発生に、なにか別の意図が絡んでいる――と。

 信じ難くはあったが、微かに覚える気配に――結論付けないわけにはいかなかった。

 師の破棄されそびれた研究資料もそれを裏付けた。

 彼女の恨みつらみが、「無」に溶け込み……影響を与えているのだ、と。


 しかし、まだ――完全ではなかった。

 だから、まだ間に合うと……こぼれだしてくる「無」を押しとどめながら、師の悪意を止める術を求め――師に最も近い「無」を探し続けた。

 それは、おそらく……師が研究し続けただろう日々ほどもの時間。

 そして――けれども、怨念と呼んでもいいだろう彼女の害意が「無」をすっかり染めてしまうまでには……間に合わなかった。

 あふれでる「無」は、人間の憎悪と絶望の感情に引き寄せられて窓を開き――浸食を広げ始める。

 しだいに荒み始める街の様子と、消息の掴めなくなった友――さらには、自然現象とばかり思わされていた「無」がもとより、はるか昔の誰かの憎しみから生み出された厄災であると知るに至った。自分の持てる手では、もう敵わないかもしれない……心が枯れてしまいかねないさなかに、希望を抱かせてくれる若者と出会えたのは、何事にも代えがたい僥倖だった。


 彼自身は、男や友や友の弟子のように、「無」に因縁を持ち合わせてはいなかった。

 若者とは、突然現れた「無」の触手から、たまたま近くにいた親子を彼が庇い――その彼をとらえようとした触手を男が薙ぎ払った……それだけの出会いだった。

 制服姿や投げ出された学生鞄から推し量るまでもない、まるきり子供というわけではないが――中年を過ぎようとする男からすれば、まだ将来の自分自身を思い描いたこともないだろう幼い存在に思われた。向こう見ずな正義感で近寄るな……出会うたび繰り返した男の警告は、若者を侮っていたつもりなどなかったが――彼は、男の見て取るよりも深い痛みから生まれた、祈りにも似た苛烈な意志を抱いていた。

 行きがかりから「無」を退ける術を伝授するうちに――自分が、いつの間にか心を閉ざしていたことに気が付いた。師の残した悪意をどうにかしたいばかり……ただそれだけで、自分の好きだったものも何が楽しかったかも忘れてしまっていたと――若者らしく時に素直に迷い戸惑う彼の姿に、かつての自身が思い出された。

 久し振りに笑い声をあげれば、視野が開かれ身体が軽くなる思いがした。

 友の弟子とふたり――まるで子犬のようなじゃれ合いは懐かしささえ伴って微笑ましく、彼らの健やかなる未来を切実に願った。


「あいつらならきっと、お師匠の悪夢に打ち勝てる」

 ほぅ…男の吐き出す煙草のけむりには、ふふっ…思いがけず友のもらした笑みの気配が重なった。

「んだよ?」

「本当に、変わったなぁ…と、思ってさ」

 機嫌よさげな友の指摘には、まるで自覚がないわけではないだけに視線が泳ぐ。

「お前の合理主義は、自分より弱いヤツを信用しない…って意味じゃなかったか?」

 お前が『強さ』を認めるのは師匠せんせいだけかと思ってた……芝居がかって肩をすくめてみせやられ――その昔、見くびるな……殴られたことを思い出す。その後、彼とは背中を預けられる関係になったが――これまでの自分を顧みれば確かに、己より技術のないものを頼みに思うなどあり得なかっただろう。

「『強さ』にもいろいろあるってことだ――」

 三分の一ほどになった煙草をもみ消し、視線を上げる。

 再び見上げる「無」の窓は、じわじわと広がり続け――さんざん塞いでまわった常のそれより大きい。しかし、常ほどに急速に広がるわけでもなく、気紛れに閉じてしまうでもないのは――術式で空間に張り巡らせた力の網に捕らえているから。もちろん、ここに留めたからといって、他の場所に窓が開かないわけではないが――逃げられない口が開いていれば、こちらも手の打ちようが生まれようもの。

 もうずっと、男ひとりでは試そうも捕えきれなかった。

 ようやく捕らえるに至ったのは、他でもない――若者ふたりがいてこそだった。

 男が願う以前に、彼らは自ずから自分達の未来を疑っていない。それは、云わば過去の始末をつけるためだけに生きてきた男との違いであり――男の持てなかった『強さ』だった。

 こそが、「無」という憎悪の果ての害意の具現に、真に対峙することのできる『強さ』だったのだ。

 ならば――。


「俺は、布石になろう」


 そこに『強さ』を見出したとはいえ、いまだ幼い若者たちが挫けぬために……。


 男は、傾いだ塔に足を向ける。

 男の友もまた、黙って後に続いた。



 展望台だった張り出しの屋根から見れば、「無」の窓は地上よりも近くに見えた。覗き見える洞のせいで距離感がつかみづらくあるが、「無」の窓はもとより天ではなくくうに開く。時に、地上近くに開き――人や物を呑み込んで消える。

 空間に留めおいた間に多少広がったとはいえ、これほど大きな穴を見るのは――おそらく師が、その向こうの洞へ姿を消した時以来だろう。

「見ててもいいが、逃げろよ」

 フードを被りなおした男の棍が深い黄金色を帯び、横薙ぎに一閃されると、ぱきり…細い氷柱を手折るに似た硬質かつ軽快な音がはじけ、「無」の窓――その手前の空間に小さなひび割れが走る。ぽろり…朽ちた壁面が剥げるように硝子に似た破片がこぼれるのと、生じたわずかな間隙からほの暗い影のような靄が吹き出すのは同時だった。

 鞭のように伸びる靄に、男は棍を構えるが、友の袖から取り出され開かれた双扇の翻る方が早かった。手前で弾いた靄を即座に閉じた右の扇で叩き切る。

 またすぐ伸びた今少し濃さを増し質感を増した影めいた触手には、今度は男の棍が旋回した。

「逃げろと言ったぞ」

「触れるなら、もっと濃い――深い部分に繋がる腕だ。つきあう」

 次第、「無」から伸ばされる触手が明確にふたりを目指すのは、より人間を憎悪の対象として感知するせいだが――むしろ、願ってもない。

「あまり網を壊したくないんで、早めに出てきてくれるとありがたいんだがな」

 無防備に呑み込まれれば存在を消されてしまいかねないが、術式を打ち込み念を流し続けた呪具で叩けば消えてしまう靄は、いわば「無」のおこぼれだ。かつて、師が胸に抱きよせ自身を同化させた「無」は、もっとはっきり「無」の深淵から流れ出たであり――今、男が求めるのもだった。

「そろそろ、逃げたほうがいいぞ」

 やがて、触手の動きがわずかに鈍り始める。

「お目当てのご登場だ――」

 靄から影を経て――質量を感じさせないながら、粘度のある液体が見えない溝を走るかのように、触手の濃度が高まった。

 男は、棍を下ろすと――のろのろと伸びてくる「無」の一端に正対する。

 あの時、師は自身の恨みつらみを「無」に与えた。「無」は世界を害しながら、「無」を産み落とした誰かと共鳴する感情を好み、取り込み溶かし込み、増幅しあるいは濃度を増していたらしい。彼女の残した研究資料を紐解くうちに、ならば真逆の意志を呑み込ませ溶かし込むことができたなら、影響を与えられる可能性に気づかされた。もっとも、相当な精神力が必要とされるとみたが。

 よもやまさか、他人に任せられることではないし――おそらく、若者らと出会い己が師となる以前の自分には無理だったろう。今でもおそらくは荷が重い――それでも幾ばくか、若者たちに利のある道を残してやることはできるだろう。

「あとは、頼む」

 「無」から目を逸らさず、背後にいるだろう友に告げるが――期待した返事は返らなかった。

 代わりに――。


「莫迦か……」

「言ったろ? つきあう…って」


 かつてのように、肩を並べる友――隣り合った側の手が温かい。

「それに、おれだって師匠面したいからな」

 お前が呑まれないように、発破かけてやる……揶揄に似た軽口は、耳に心地よく。

「礼は――言っとくか……?」

 友の手を――握り返した。


 眼前に迫る「無」の表面は、小刻みに震えているように見えた。

 ふと、その震えを哀れに思った……。

 おそらくは、友もまた――同じ思いだったのだろう、繋いだ手を互い同時に握りしめていた。


 なるほど、あいつらなら、これに負けることはないか……。


 状況とは裏腹に、不思議と胸が安らいだ。

 今なら、「無」に触れても容易に呑み込まれてしまうことはないと思えた。

 ただ静かに、胸元に迫る「無」を受け止めようと思った――しかし。


 青い光が翻り――触手が跳ねる。

 男たちと「無」の間に、白い影が割り込んだ。

「なにやってんだ! おっさん」

 青白く光る棔を構え、肩越しに叫ぶ――白いのは、若者のポロシャツの背中。

「坊主こそ、邪魔すんな!」

 昨今の学生の夏服は、通気性の高いポロシャツを採用している学校が多いとは、彼らと過ごしていて知ったことだったか。

「『坊主』言うな! 『オッサン』のくせに!」

「お前みたいなクソガキは、『坊主』で充分だ!」

 とっさ、打ち損ねられ若者に伸びる「無」の触手を棔を閃かせ、払う。

 しかめた視線の端で、友の唇が笑みを浮かべた。

「いい教育だなぁ……」

「うるせぇよ」

 いつまで握ってやがる? お前こそ!……手を振りほどきあって、若者の隣に踏み出せば――「無」の窓を捕らえた編みの亀裂に向かい、柄の尻に房飾りのついた大剣を掲げて、なんらかの術の構成を打ち込む華奢な少年――男の友の弟子の姿が見えた。

 視線だけで示しあって、友はそちらに向かわせる。

「で? お前ら、何をしに……」

「あんたが言ったんだ」

 来た?……まで言わせない、若者の声。

「あんたが言ったんだからな――俺たちの力は、あんたとは違う…って」

 だから……と、若者は告げる。

「だから、俺たちは俺たちのやり方でやる――そのやり方の中に、あんたの自己犠牲なんか認めない!」

 宣言する若者に、覚えず目を見張る――と、同時に……。


 あぁ、そうだな……。


 確かに――自分が、何度も言っていた。

 そして、今しがたも思ったばかりではないか――。


 彼らなら――。


「わかった」

 短く諾を告げ、心を決める。

「お前に任せる――」

 若者の瞳に驚愕の気色いろが浮かぶのがわかったが、もう一歩前に出て背を預けることで視線は合わせないでおいた。

「指示を出せ。お前の望むように動いてやる」

 せいぜい、こき使ってみろ……言葉だけは煽ってみせながら。

「あんたにやれることは容赦なく全部やってもらうからな――」

 応える若者の声に微かにこもる強がりの気配は――少々気恥しくなっているらしい。そういうところが、可愛い弟子だ。


 こいつらと一緒に、この先のことを考えるのも悪くないだろう。


「いいぜ。遠慮すんな」

 構えた棔が、鈍く黄金色に輝いた。




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