堕ちゆく悪魔の祈り

道化美言-dokebigen

堕ちゆく悪魔の祈り

 いつからわたしは、価値のない無能な悪魔になったんだろう。

 ああ、そう。そうだ、生まれたときからずっと、ずっとわたしは、わたしを生み落とした両親にさえ「誇り高き悪魔を名乗るな」と言わせてしまうほど、下賤な子でした。

 だから、わたしは悪魔でもなんでもない、死に損なってるただのクロエ。

 暗い、暗い魔界で震える羽を隠して、背を丸めて、息を潜めて。先生せんせが人間たちを誑かしに孤児院を後にしたのを確認して、その後をこっそりと、気配を消してついていく。

 誰も悪魔もどきのクロエわたしに見向きもしないから。

 わたしにとって魔界はおどろおどろしくて、暗くて、逃げ出したいくらい怖かった。行くなと言われた人間界に、何度も忍び込むほど。

「はぁっ、はぁ……!」

 せんせの影に隠れて人間界に行くのも、もう何年もやってきたから慣れたこと。黒い砂と赤い空が視界を埋め尽くす魔界から、視界いっぱいに緑が広がる、人間たちが住む世界の森に降り立った。

 この国で黒髪は悪魔の象徴とされているから、ハーフアップに結った肩口までの黒髪を白いフードで覆い隠す。二対のつやつやとした……生えているだけの、せんせたちみたいに体内へしまうこともできない無意味な黒い翼も白いローブの中にしまい込んで、少し痛いけど軽いリュックを背負い背中の隆起を誤魔化した。

「こんな羽、なければ、切り落とせたら、よかったのに。そしたら、わたしも……」

 ぐるぐると回りそうになる思考を無理やり止めれば、木々の間を縫って出て、小走りで街に入って人混みに紛れる。すると、わたしなんてこの世界のどこにも存在しないような気がして、少し、心が軽くなった。

 何を買うでもなく、相変わらず店を覗くことも勇気が出なくてできないでいると、ふと、眩い市場に隠された暗い路地裏から子供の悲鳴が聞こえた。気がした。

「……ダメだからね。また、助けたいだなんて、手を伸ばしちゃ。わたしなんかじゃ、守れないから」

「や……! 助け……!」

 もう二度と、人間とは深く関わらない。

 自己満足で彼らを助けても、わたしはきっとまた、彼らを不幸にする。

「……」

 鳴らしていた足音が不規則に、速くなる。

 バカ。本当にバカ!

 人波に逆らって市場を抜け出し、わたしの足は勝手に路地裏を駆けていた。



 無力感に死にたくなった。

 いっそ処刑してほしかった。

 首元に両手をかけても、力なんて入らないし肩とお腹からはずっと血は流れ続けてる。

 いつのまにか戻ってきた毒々しい緑色のこの森で。羽を切り落として、髪を切り落として。人間を真似た姿になって、人間になったつもりで死にたくなった。

「ふ、ふっ、は!」

 わたしは何をした?

 飢えに苦しむ大人が子供を殴り、蹴り、一切れのパンを奪い取っていて。わたしみたいな弱い子供を助けなきゃって、五年ぶりに、また、懲りずに穢れた手を差し伸べた。

 悪魔のくせに人間が好きで、悪魔に成りたくもなければ、人間にも成れやしない。人間界に降りて一人で生きていく力もない。

 自己満足で人を救った気になって、結局は誰かを殺してる。

 今日もまた、わたしは片手で数えられる年齢の子供を見殺しにした。

 子供を殴っていた大人にローブを剥がされて、彼は両親や同世代のお友達みたいにわたしを蹴ってきた。

 壁に頭を打ちつけて、青い血液が流れ出たあいだに、真っ赤な人間の鮮血が宙を舞って。

「ゔ、おぇ……」

 立っていられなくてぐらり、と揺れた視界のまま地に膝をつき、倒れ込んだ。ちくり、と草が顔に突き刺さる。全身、特に頭が痛くて、もぞもぞとみっともなく体を動かしうずくまった。

 開いた口と締まった喉。

 ぼたぼた、ぼたぼたと胃液を吐き出せば、今までわたしが関わってしまった人間の子たちの顔が脳裏をよぎっていく。

「ぅ、ぁ……。たすえ、て。たすけ、せんせ……」

 思わず呼んだのは、唯一わたしを見捨てず育ててくれたひと。今、せんせは人間を食べているんだろうか。それとももう魔界に帰っているか。どちらにせよ、ここに、せんせは来てくれないのに。

「あらあらぁ? こんなところでどうしたの。あたしのクロエちゃん?」

 幻聴……。

 違う。霞んだ視界で、天使のように真っ白な人影が見えた。

「せん、せ……?」

「ぴんぽんぴんぽん! 大正解! 良い子のクロエちゃんがめそめそ泣いてる気がしたから、先生飛んで来ちゃったわぁ」

 口元に手を添えて優美に微笑むせんせは、やっぱりいつ見ても悪魔らしからぬ容姿をしてた。長くてウェーブのかかった真っ白な髪は日の光を受けてきらきらと輝いて、金の柔らかな両目は月の女神みたいに慈愛に満ちた、温かい光を宿してる。

 でも。

「あたしの可愛いベイビーちゃん? そんなに泣いてどうしたの。人間に乱暴されて痛かったの?」

 でも、緩く弧を描く唇のダークレッドは。重たい音を立てて広げられた、長身のせんせよりももっと大きい四対の真っ黒な羽は。柔和な笑みを完璧に真似た美しい顔は。怖い顔でわたしに酷いことをした両親やお友達より、ずっと「悪魔」らしい。

 心の底から畏怖と憧憬を抱き、震えてしまうほど。

「せんせ、わたし……」

「うん」

「また、できなかったの。ダメな子だから、わたし……っ」

 言ってしまえば楽になると思った。それなのに、詰まった言葉と、溢れ出す涙に一層自分が嫌になる。

「う、ぅ〜……」

「あらあら、ほら、泣かないでクロエ。大丈夫、君はちゃあんと、あたしの大事なベイビーちゃんよ」

 柔らかいハンカチで口元を拭われ、魔法で出されたティーカップに水が注がれて口元に差し出された。そっと口をつけて、ゆっくりと嚥下する。ぐちゃぐちゃに溶けて混ざった思考も段々と落ち着いてきて、上体を支えてくれていたせんせの腕をぎゅっと握った。

「せんせ、だめって言われたのに、勝手について行って、ごめんなさい」

 人間界に行けるのは、「立派な大人の悪魔」になれてから。わたしはもう、人間界に行く資格を持てる年月は生きてるけど、出来損ないだから、孤児院で大人しくしてないといけないのに。

 せんせとの約束すら破って、その理由が人間と仲良くなりたかったからなんて、どうしてこんなにだめな子なんだろう。そのうえ、わたしが悪魔だからなのか、関われば救いたいはずの人間のことも不幸にしちゃう。

 せんせにも、そろそろ見捨てられたっておかしくないのに。

「んーん、ふふっ。いいのよ、クロエ。あたしたち悪魔にとって好奇心はとっても大事でしょ? 君はあたしにとって一番のお気に入りなの。勝手に死んじゃわなければなんだって許してあげる」

「え……?」

「前から知ってたわよ? 可愛い可愛いクロエが、てくてくあたしの後をついてくるんだもの、見守りたくなっちゃうじゃない?」

 天使みたいな、綺麗な顔でせんせは笑う。わたしの持っていたティーカップを絡め取られれば緑の上に放られ、グラスの割れた音が響く。

「せんせ——」

「それで? 今日は久しぶりに人間と関わっていたみたいだけど、どうだったの? 楽しかった?」

 わたしの前にしゃがんだせんせは、わたしの頭をあやすみたいに撫でてくれて、冷たいのに温かい、細長くて綺麗な手に力んでいた体の力が抜け始めた。

「……わたし、またね」

「うん」

「人間の子を殺しちゃって」

「うん」

「他の、前に殺しちゃった子のことを思い出して」

「うん」

「わたし、怖くて」

「うん」

「なのに、まだ人間と仲良くなってみたくて、一度でも、助けてみたくて」

「うん」

「それで……」

 どうしたいのか、自分でもよく分からなかった。人間と仲良くしたいけど、人間を助けたいけど、わたしが関われば子供たちはみんな死んじゃって。

 俯いて、黒く尖った悪魔の爪が目に入る。手のひらで隠そうとしても消えてはくれないそれ。

「あ……」

 わたしは悪魔であって、人間じゃない。

 だから、人間と関わるなんてできっこない。

「……」

「クロエ〜? もう、そんな悲しそうな顔しないの」

 ふと、両頬がせんせの白い手で挟まれて持ち上げられる。綺麗な金色と、目が合った。

「クロエ、あたしに良い案があるの」

「……?」

「あたしが君を鍛えてあげる。魔法の使い方も教えてあげるわ。だから、一緒に『悪い人間』に罰を与えましょ? そうしたら、クロエの守りたい人間の子供たちだって守ることができるはずよ」

 優しく笑ったせんせの言ったことは、妙案だと思えた。良い人間の子を見殺しにしないで救えるようになったら、中途半端なわたしにも、価値が生まれるような気がした。

「せん、せ……」

 甘美で、毒みたいな禁断の言葉。せんせの言葉は、いつもじんわりと心に沁みる。

 目と鼻の先で、白い悪魔がにっこりと笑う。

 差し出された白く細い手に、気づいたら手を重ねてた。



「ねえ、せんせ!」

 数年前よりも明瞭で、ワントーン上がったベイビーちゃんの甘い声が湿った路地裏に反響して溶け込む。

「クロエ、終わったの?」

「うん、せんせ、いつもありがと」

「いいのよ、も〜! 可愛いベイビーちゃんの頼みならいつでも連れてきてあげる」

 人間の鮮血で頬を赤く染め、恍惚とした笑みを浮かべるいつまでも純粋無垢なベイビーちゃん。けれどもやはり、どこか違和感を覚えるのか、それは困ったような笑みに変わってしまう。

「……せんせ、わたし、なんで泣いてるんだろ。だって、役に立てて、嬉しいのに……」

 ここ数年でクロエが着こなすようになった黒いワンピースの裾を縋るものを求めた両手が掴み、漆黒の翼を震わせた。笑っているのに冷たい青の双眸から次々に涙がこぼされる。

 あの日から、何も変わっていない。

 あたしの鳥籠に囚われ続ける可哀想で可愛い子。

 地に伏せた大柄な男と、怯えて震える子供をあたしの背で隠すように歩み寄る。

「大丈夫。少し疲れてしまったんでしょう。早く帰ろっか」

 手を差し出せば、路地裏を後に、冷たい手を握り歩き出す。

「……ふふっ。ベイビーちゃん、安心して。君はもう、十分立派な悪魔よ」

「せんせ?」

「ううん、なんでもなぁい」

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