第5話

『うちのテレビ、コードを引っこ抜いても動くんだ。すごいでしょ』




 気がついた時には走り出していた。オフィスの一番奥にあるデスク。その奥に鍵の束がかかっている。そこからありったけの鍵を掴むと、スマホと携帯を持って建物を出た。


 地図アプリに水谷がいるマンション名を打ち込む。幸いにも走れば五分ほどの距離だ。


「水谷さん、いま行きますね」

「い、急いでくれ。寒さでもう限界だ」


「ひとまず、毛布などで寒さを凌いで……」

「もうやってる。何枚も着込んで毛布にもくるまってる。けど、毛布の毛先に霜が降り始めている。凍えるのも時間の問題だ」


 冷房で霜なんか降りるはずがない。糸賀の脳裏に一人の少女の顔が浮かんだ。彼女と糸賀は同い年。家も近く、いわば幼馴染という間柄だった。ところが小学生の頃、少女はなんの前触れもなしに行方不明になった。しかも一家全員。行方不明になる前、少女は糸賀にこう言っていたのだ。


『うちのテレビ、コードを引っこ抜いても動くんだ。すごいでしょ』


 いま水谷に起きていることが少女の失踪と関係があるのか、糸賀には分からない。けれども、首の裏を撫でられるような感覚がする。二十年生きてきた彼にとって、動く理由はそれだけで十分だった。


「水谷さん、大丈夫ですか?」

「寒い……、寒い……」


 声が最初よりも弱くなっていることがわかる。もっと速く、もっと速く、と自らの足に言い聞かせる。


 街は、もう間もなく朝を迎える。日は出ていないものの、徐々に空は明るくなり始めていた。車はまだ少ない。赤信号も無視して走り続ける。


 ついに彼の住むマンションにたどり着いた。息も切れ切れにオートロックを開け、階段を駆け上がる。彼の部屋が三階であることが幸いした。最上階だったら心が折れてたかもしれない。


「ハァ……ハァ……ハァ…………。着きました。着きましたよ、水谷さん」


 扉の前で肩を上下させる。こんなに本気で走ったのは高校の体育祭以来だ。胸が苦しい。


 息を整えていると、異変に気づく。電話口から声がしない。かろうじて風が吹く音と、か弱い息づかいだけが聞こえる。


「ま、待っててください。いま、開けますから!」


 急いで玄関の鍵を開けようとする。しかし事務所にあった合鍵をまとめて持ってきてしまった。何がどの建物のどの部屋の鍵かわからぬまま、十数回の試行錯誤が行われる。


「待っててください。もう少しですから、待っててください」


 そう声をかけることしかできないのがもどかしい。けど、自分はまだ救えることができる。あのとき、声を上げることすらできなかった自分よりもまだマシだ。


 鍵が————開いた!


 ノックすらせずに扉を開ける。極寒の風が吹き付けるとか、誰かがいるかもとか、そんな可能性を考慮する暇はなかった。ただ勢いよく扉を開けた!


 ——だが、開けた先を見て糸賀は立ち止まった。何も考えられなくなった。まるで宇宙に飛ばされてしまったかのように、思考が「無」になった。



 目の前の部屋には何もなかったのだ。文字通り、何も。



「どうして……、どうして……」


 藁にもすがる思いで中に入る。だが、リビングにもダイニングにもキッチンにも。凍える水谷や、荒れ狂う冷房や、生活した痕跡さえ見当たらない。内覧待ちとでも言いたげな1LDKの部屋がそこにあるだけだった。


「み……水谷さん、水谷さん!」


 急いで携帯を耳に当てる。しかし、その先から聞こえてきた音に反応してすぐに手を離した。携帯は造作もなく床に落ち、ピシッと画面にヒビが入る音がした。


 ——音量が上がる。


「クハハハハ、クハハハハ」


 電話口からは何者かの「声」がした。水谷の声ではない。暗く、低く、くぐもった「誰か」の声。


「うわっ」


 糸賀は思わず飛び上がり、携帯を置いたまま玄関まで後退りした。



 ひび割れたガラケーは、ひとしきり笑い終えると、


 ツー、ツー、ツー、ツー、———————

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矢加部御霊 名無之権兵衛 @nanashino0313

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