第4話


「はい、こちらアパートショップお客様対応です」


 深夜三時半。糸賀昌幸いとがまさゆきは一本の電話をとった。電話といってもガラパゴス式の携帯だ。今年で二十歳になる彼は使ったことがない。ゆえに、電話に出るまで一分ほどかかってしまった。


「ああ、よかった。繋がった」


 相手の息遣いが荒い。糸賀は眉を顰める。


(これは、「お得意様」か? 勤務初日で早速、俺はコレに出会ってしまうのか?)


 今日、彼は賃貸マンション管理会社の夜勤バイト初日だった。バイト初日だというのに一人で勤務させるなんてとんでもないな、とは思いつつ、時給が他よりいいため言及しなかった。


 出勤し、上司っぽい人から業務の説明を受けているとき、真っ赤なリングファイルを渡された。


「ここにいわゆる『お得意様』への対処法が載ってる」


 ワイシャツの第一ボタンが外れた彼は言った。そこには何かとクレームを入れてくる「お得意様」への対応がケースごとに記されているらしい。


「何かあったら、そのファイル通りに行動してくれ。それじゃあ、あとはよろしく〜」


 そう言い残して上司っぽい人は帰った。結局彼が何者で、果たして自分の上司なのかどうなのか、それすらも分からずじまいだった。対面時間わずか十分。


 まあでもそんなものか、と糸賀は指定されたデスクに座り、ゲームをしたり動画を見たりして時間を潰した。出勤時には百パーセントあった充電は瞬く間に二十パーセントになった。幸いにも机上に充電器があったので、絶体絶命の状況だけは避けられた。


 勤務開始から七時間以上、電話一本かかってこなかった。暇を持て余しインスタを見ていると、好きなインフルエンサーが露出度多めの写真をアップしていた。股間がモゾモゾしてくる。誰も見ていないし、してもいいのでは。そう思ったところで電話が鳴ったのだ。


「お、おい。聞こえているのか?」


 電話先の男は慌てた口ぶりで言った。


「はい。はい。聞こえています。えーっと、どうされましたか?」


 右手で携帯を耳に当てながら、机上にある赤いファイルを取り出す。中を開くと、たくさんの文字が敷き詰められていて眩暈がした。彼の「嫌いなタイプ」のマニュアルだった。


「部屋の……、部屋の様子が、おかしいんだ」

「部屋の……ですか……」

「ああ。信じてくれないかもしれないが……」


 そこから男は止まるところを知らず話し始めた。糸賀は話をほとんど聞き流しながら適当に相槌だけを打ってマニュアルを読む。すると「まず初めに聞き取ること」と書かれた項目を見つけた。


「え、えーっと、お、お客様」


 男の話を遮って口を開ける。


「ま、まずは、えーっと、いま住んでいる建物と部屋番号を教えてもらってもいいですか」

「あ、ああ、そうだ。そうだった。いや、これは申し訳ない」


 そう言って男は建物名と部屋番号を述べた。その口調は恐ろしくゆっくりで、一瞬のミスも許されてはならないようだった。誰かに脅されているみたいだな。数日前に見た刑事ドラマのダイジェスト版を思い出しながら糸賀はデスクにあるパソコンに情報を打ち込んでいく。しばらくして、その部屋に住んでいる男の名前が出てきた。


「あ、ありがとうございます。えーっと、次は……お名前と、生年月日をお願いします」

「み、みみ、水谷、孝徳、です。えーっと、あ、あと、何が必要でしたっけ」


「生年月日です。生年月日」

「ああ、そうだった……」


 生年月日と名前。どちらも入居者本人で間違いない。水谷孝徳。これまで一度も管理会社に問い合わせをしたことがない、優良入居者として区分けされている。


「えーっと、それで、どうしましたか?」


 再びマニュアルのページを捲る。だが、どこを見ればいいか分からないため、仕草はやや適当だ。


「だから、部屋がおかしいって言っただろう」

「え、えーっと、部屋がおかしい、という問い合わせに対しては……」


 そんな都合のいいことなど記されているはずもない。


「な、何がどう、おかしいんですか?」

「何もかもだ。玄関も開かないし、窓も開かないし、それに……、それに、エアコンが電源コードを抜いたはずなのに動いているんだ。しかも……すごく冷たい空気を送り込んでくる。いや……、そうだな。急にこんなことを言って信じてくれ、なんて都合が良すぎるかもしれない。ひ、ひとまず、いい一度来てくれないか。う、内側からは、開かないかもしれないが、外側からなら、あ、開くかもしれない」


 捲し立てる水谷に糸賀はしかめっ面を浮かべた。


「え、えっとぉ……」


 ページをめくっていると、「『家に来い』と要求された際の対処法」について書かれていた。


「えっとですねぇ、『いまオフィスには自分しかおりませんので、他のお客様対応をするためにも、お客様の元へ行くことはできかねます。明日、我が社のスタッフが……』」

「そんなマニュアルを読み上げている場合じゃないんだ!」


 携帯のスピーカーを破るような声が耳をつんざく。糸賀は思わず携帯を耳から遠ざけた。


「ああ、申し訳ない。申し訳ない。気が、気が動転してしまって……」

「え、えっと……」


 何をどう進行すればいいか分からず、糸賀は黙ってしまった。


「ひ、ひとまず、頼むから、家に来てくれないか。頼む……後生だ。冷房から……冷房からものすごい冷たい風が吹き込まれてきていて、とても、寒いんだ……」


 渋る糸賀の心に最後の言葉が引っかかった。


「い、いま、冷房が止まらないって……」

「ああ、そうだ。電源コードを引っこ抜いても動き続けるんだ」




『うちのテレビ、コードを引っこ抜いても動くんだ。すごいでしょ』




 気がついた時には走り出していた。

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