第3話

「んん?」


 確かにボタンを押している感触はある。なのにエアコンはちっとも止まる気配を見せない。むしろ風量が強くなっている気がする。カチカチカチとボタンを連打してみても止まる気配はない。考えられる理由はただ一つ。


「マジかよ……」


 水谷はあからさまに舌打ちをした。別に誰かいるわけではないからあからさまも何もないのだが、きっと人がいたとしても彼は盛大に舌打ちをしたことだろう。このマンションに備え付けられたエアコンは五年前に発売されたモデルだ。決して古くはない。人工知能だって搭載されている。なのに、もう故障してしまったというのか。大体エアコンは十年以上使える長寿家電だ。それがたった五年でお陀仏になってしまうとは、不良品認定してもおかしくないのではないか。なんならまだ保証期間内の可能性だってある。どっちみち、明日は管理会社に問い合わせなくてはならなくなった。


「あぁ、仕方ない」


 もうすぐ午前三時になろうとしている。眠気もマックスだ。気だるそうに彼はコンセントに向かって手を伸ばす。コンセントはエアコンよりも高い位置にあるため、つま先立ちしなければならない。冷たい風が肌に当たる。あともう少しでくしゃみが出そうなところで、プラグに手が届く。あとは引っこ抜くだけだ。




 引っこ抜くだけの、はずだった。






 ——————————————止まらない。




「えっ?」


 一瞬、自分が信じられなくなった。もしかしたら眠気のせいで、コンセントを引っこ抜いたと思っていただけで、実際はまだ差さっているのではないかと思った。


 だから右手を見た。

 右手には電源コードが握られている。


 まるで歪なフォークのように二つに分かれたプラグが目に映る。

 間違いない。自分は電源コードを抜いたんだ。電力供給は絶たれたんだ。


 なのに上からは冷たい風が吹き付ける。先ほどよりも冷たく感じるのは、これまで直面したことのない状況に陥っているからか。それとも——。




「クハハハハ、クハハハハ」




 くぐもった笑い声が響き渡った。まるでトンネルの中にいるかのような笑い声。もちろん、水谷の声ではない。聞いたことのない低い、無機質な声だった。


 あたりを見渡す。声の発「声」源はすぐに判明した。リビングテーブルの上だ。リビングテーブルの上にある、エアコンのリモコン。先ほどまでうんともすんとも言わなかったエアコンのリモコンから不気味な笑い声が発せられている。もちろん、リモコンにスピーカーなど付いていない。人工知能搭載のエアコンであろうと、リモコンにスピーカーをつける必要性を感じない。少なくとも水谷が開発メンバーだったら断固反対している。


 そのリモコンから笑い声がする。もはや「科学」なんて言葉はアンドロメダ銀河くらい遠い存在になってしまった。いま、目の前で起きている現象は————。


「クハハハハ、クハハハハ」


 声は続く。音程も声質も変わらずに。まるでリピート再生しているみたいだ。水谷はあからさまに大きく息を吸うと、ゆっくりとテーブルに近づいた。蛇口から水滴が落ちる音、車が通り過ぎる音。全ての音に対して体が反応する。いや、反応してしまう。二、三メートル先のリビングテーブルにたどり着く頃には、鼓動は倍以上に膨れ上がっていた。


「クハハハハ、クハハハハ」


 声は相変わらず聞こえる。人は慣れる生き物とはよく言ったもので、先刻ほどの恐怖はない。けれども全身からは冷や汗がとめどなく溢れてくる。状況が異常であることに変わりはなかった。


 一瞬たじろいでからリモコンを手にとる。笑い声と共にリモコンが振動していることがわかる。まるでスピーカーでも入っているかのように。


 水谷は取り上げたリモコンを見た。そして——、


「ひっ!」


 リモコンから手を離した。リモコンは一度リビングテーブルにぶつかると、反動で床に落ちた。カーペットが敷かれた床と衝突してしばらくしてから


 ピシッ


 あからさまにひび割れる音がした。途端に笑い声もピタッと止まる。


 水谷は口で呼吸しながら、先ほど見たリモコンのことを思い浮かべていた。明らかに自分はいま、この世ならざる場所にいる。その想いだけが確かに鎮座していた。


「あれは……いったい」




 先程まで真っ黒だったリモコンの画面には、

 笑った人の顔が映っていたのだ。




   ***




「はい、こちらアパートショップお客様対応です」


 深夜三時半。糸賀昌幸いとがまさゆきは一本の電話をとった。

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