第2話
シャワーを浴び、髭を剃って、化粧水と乳液をつけた水谷は、熱った体を冷ますためにリビング兼仕事部屋に戻ってきた。
部屋に入った瞬間に違和感を感じる。違和感、と言っても気になる異性の髪型が変わったとか、そんなあからさまな齟齬ではない。誤差数ミリといった「違和感」という言葉が想起されるには程遠い「気づき」だった。
(心なしか……エアコンが、強い)
確かにシャワーを浴びる前、エアコンをつけたのは覚えている。だが、そのとき水谷は風量を「微弱」に設定していた。別に何が嫌と明文化することはできないが、冷たい風に当たると脳が収縮してしまったかのように思考が固まってしまうからだ。だから風量を「微弱」に設定した。しかし、今は「中」ほどの強さになっている。もちろん体感だ。確証はない。
確証がないから水谷は「機械の都合」と考えた。マンションに備え付けられたエアコンは流行りの人工知能を搭載したエアコンである。きっと人がいなくなったことを検知し、「冷ますなら今のうち」という論理が働いたのだろう。それで風量が一時的に強くなった。そう解釈すれば辻褄があう。
(——早く元に戻ってくれよ)
そう思うだけで水谷はパジャマに着替えた。
ふと、仕事机の上にあるディスプレイに目がいく。先ほどまでミスのない花畑のような美しいコードに奇怪な文字列が書かれていた。
「pngia:r」
文字列はもちろんコード上ではなんの意味もなさない。故に、嘲笑するがの如く文字列の下には赤波線が引かれていた。
「……ちょっ」
水谷は急いでデスクの前まで行くと、奇怪な文字列を削除した。PCは何も言わずに赤線を消す。そこに労いも慈しみもない。別に水谷もそれを望んでいるわけではなかった。
再度コード全体を見直す。役割ごとに色分けされたコード。花弁に血痕を認めることはできない。どうやらエラーは全部なくせたみたいだ。なぜ、先ほどまで完璧だったコードにあんな意味不明な文字が書かれたのだろう。水谷の脳裏にあの言葉が蘇ろうとする。
(——矢加部には幽霊が…………
「あっ、そうか」
言葉が再生しきる直前で水谷は原因を思いついた。
「のっぺらぼうだ」
そのまま声に出す。彼以外誰もいない部屋で声は空虚に響いた。けれども自分を安心させるためには最良の手段だった。
シャワーを浴びる直前に見たのっぺらぼう。正確には、のっぺらぼうに錯覚したステンドグラスを見たときに、彼は後退りした。後退りしてゲーミングチェアにぶつかり、ゲーミングチェアは机にぶつかった。ぶつかった拍子に肘掛けの部分がキーボードに当たり、あのような文字列が入力されてしまったのだ。大したことはない。人為的なものだった。
ここでふと、今の自分がおかしくなった。誰もいないのに声を上げている。しかも、「のっぺらぼうだ」だなんて意味不明なことを。他人と意思疎通するために声があるのなら、今の水谷は二つの意味で「不必要なこと」をしている。プログラマーとして効率化を求めている自分が非効率的なことをしている、というなんとも皮肉な状況に水谷は鼻で笑ってしまった。
そのとき、
冷房の風速も一瞬上がった。ブオッと、冷たい風の塊を吐き出すと、音を上げてうねり出した。
眉を顰めてエアコンを見る。吹き出し口から見えるローターは先ほどよりもあからさまに回転速度が上がってる。しかも顔に当たる風が先ほどよりも——冷たい。二十八度で設定したはずなのに、二十四度かと思うような寒さだった。
「あれ?」
水谷はリビングテーブルにあるリモコンを手に取った。確かにシャワーを浴びる前に二十八度に設定したはずだ。いくらAI搭載とはいえ、ここまで寒くなるなんてことは……
「あれ?」
リモコンを手に取って再び眉を顰める。画面一色真っ黒になっており、文字も記号も表示されなくなっていた。故障か、と電池蓋を外し、中の電池を回してみる。それでも何も表示されない。仕方なしに電池を交換してみるが、それでもリモコンはピクリともしない。
(いよいよ故障したか?)
水谷はあからさまにため息をついた。引っ越した時からこのリモコンは調子が良くなかった。ボタンを押しても反応しないことがしばしばあったのだ。これまで電池を回したり、交換したりすることで応急処置をしてきたが、とうとう天寿を全うしたらしい。仕方ない。明日にでも新しいリモコンを買ってくるか。
再びエアコンの風が強く、寒くなる。温度は二十度くらいか。このままで睡眠どころではなくなる。仕方ない。今日のところは窓を開けて寝るとしよう。まずは主電源を落とさなくては。
そう思って水谷はエアコン本体の方に向かった。本体の右側にあるボタンが主電源だ。そこを押せば止まる。
止まる——はずだった。
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