矢加部御霊

名無之権兵衛

第1話

 水谷孝徳たかのりは満足げな顔で目の前のディスプレイを眺めていた。ディスプレイには色とりどりのコードが並んでいる。文字列や数列など、役割に応じて色分けされたコードはさながら花畑のように感じた。


 赤線エラーがないことを確認すると、水谷は大きく背伸びした。ネット通販で買った五万円のゲーミングチェアは体重を受け取ってゆっくり傾く。時刻は午前一時。仕事を切り上げるには充分な時間だ。


 今日はもうシャワー浴びて寝るか。と、欠伸を一つしてバスルームのある方を振り返る。リモートワークをしている水谷にとって、ここは仕事部屋であり住まいでもあっ——




 ——そこに顔があった。




 目も鼻も口もない。


 真っ白な楕円形ののっぺらぼうが、

 ————目の前に!




 心拍数がギュンと上がり、一歩後退りした。あまりに勢いよく後退りするものだから、ゲーミングチェアに足をぶつける。ゲーミングチェアの肘掛けが、机上のキーボードに当たり、整頓されたデバイス群を乱す。


 叫び声が胸元まで上がってくる。しかし、喉仏が固結びしたみたいに締まって、声が出ない。心拍数だけが耳元で大声を上げている。


 ところが、ややあって水谷はあることに気付く。のっぺらぼうだと思っていたのは、扉に貼られたステンドグラスに白いLEDによって照らされ、描かれた模様だったのだ。ちょうど真上にある蛍光灯が頭を影にして、楕円形のようにステンドグラスに映されてしまったらしい。


「はぁ……、ったく、驚かせやがって……」


 水谷は耳元でギャンギャン騒ぐ鼓動を鎮めるために胸に手を当てた。まだドクドク言っている。そんな生命の鼓動に微笑を浮かべながら、クローゼットから着替えを取り出した。Tシャツとブリーフを取り出して扉を閉めたとき、頭の中で声がする。


(——矢加部には幽霊がいる)


「ふっ、そんなこと、あるわけないだろう」


 着替えを取り出した水谷は、そのままシャワーを浴び始めた。





 水谷孝徳は旧帝国大学の工学部出身だ。学生時代には一年間、アメリカの有名工科大学にも留学している。大学院へ行き、その後は大手IT企業に入社。IT、AIという単語が大手を振って跋扈する時代。水谷は大きな拍手に包まれて入社した。


 大企業には四年間勤めて退職した。故郷で両親が重病を患ったとか、大切なパートナーができたとか、そんなものではない。きっとインタビュアーがいま目の前にきて「貴方があのとき会社を辞めた理由は?」と尋ねてきたとしても、きっと水谷は軽蔑の視線で一瞥するだけだろう。水谷が入りたくないドブの中に、その答えはあった。


 ただ一つだけはっきりしていることは、大企業あそこ(そこ)は居心地が悪かった。出社すると向けられる視線、トイレから出てくると向けられる視線。まるで毒のない蛇を首に巻かれたような感覚になった。


「くそがっ……。イヤなこと思い出させやがって」


 シャンプーを洗い流しながら水谷はつぶやく。自分は国立大学の修士号をとった人間だ。学部卒やパートの分際で俺をそんな目で見るんじゃねえよ。俺よりも仕事できないくせに俺より強い気になってんじゃねえ。


 大企業を辞めた水谷は大学時代に同じ研究室だった梅津俊彦の紹介でベンチャー企業に入社した。ベンチャー企業は梅津の高校時代の友人が経営しており、オフィスのあるB県内であれば在宅勤務が可能とのことだった。満員電車に辟易していた水谷にとってリモートワークは少し憧れがあった。家でくつろぎながら働ければ、どれほどクリエイティブな発想が生まれることだろう。万が一居心地が悪かったとしたら辞めればいい。自分は引くてあまたの人材なのだから、自分の居場所が見つかるまで転々とすればいいさ。そんな心持ちから入社を決めた。


 在宅勤務をするためにはB県内に引っ越さなければならない。そこで彼はB県矢加部市にある1LDKのマンションを借りた。月々の家賃は十五万円。きっと都心なら二十万はくだらない広さだ。


 内定が決まり、引っ越しなど諸々の手続きが終わった段階で、挨拶がてら梅津と飯を食いに行った。梅津はB県の出身で色々と勝手を教えてくれたが、水谷が矢加部市に住むことを聞いて「あっ」とあからさまに何か思い出したような声を出した。


「どうした?」

「あ、いや。ちょっと思い出したことがあって……」


 そこから少し神妙な顔つきで黙ると、


「実は昔……矢加部には幽霊がいるって聞いたことがあるんだよ」

「幽霊?」


「噂だよ、噂。俺も実際に見たことはないんだけどさ、でも矢加部出身の友達と話していると、たまにそんな話が出てくるんだよ。人を連れ去る幽霊がいるって」

「まさかぁ」


「そのまさかだよ。あるときは小学生、あるときは老人。老若男女問わず一年に必ず三、四人は行方不明になったんだ。しかも矢加部市内で」

「それって、大丈夫か? なんかヤバいやつが住んでるとか」


「最初はそう思ったよ。ペニーワイズがやってきたってね、俺の中学は矢加部じゃなかったからそのぶん他人事のように噂だけが流れてた。で、あるときクラスの情報通が言ったんだ。行方不明になった女子高生がいなくなる数日前、友人に『白い着物を着た女の人にストーカーされてる』って……」


 水谷は何も言わずにナッツを一つ摘んだ。


「なんかそこからだな。急に矢加部に幽霊がいるって噂が広まるようになったのは。なんか事件が起きると『矢加部の幽霊が現れた』とか言ってみんなで大騒ぎしてた。まあ、そんなことは中学までで、高校に入ってからはめっきりなくなったけど」


「それで? 行方不明になった人たちは見つかったのか?」


「あー、どうだったかなぁ。俺もよく覚えてないや。というよりも、誰も事件を追おうとしなかったからなぁ。見つかったかもしれないし、見つかっていないかもしれない。まあでも安心しろ。俺たちが高校に入った頃にはそんな事件もぱったりなくなったから。多分、どっかの異常者がやったんだろうと俺は思ってるよ」


 梅津とはそれ以来、会っていない。思えばもう三年も前の話だ。しかし、三年という月日が流れてもあの言葉が水谷の心にぶら下がっている。


(——矢加部には幽霊がいる)

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