太陽の花

@miu-5108

第1話

夏によく似合う、太陽より明るいあの笑顔。あれこそが私の憧れだ。

私は、あの日のことをこれから先、一生忘れることはできないだろう。


風を切って走る音だけが、私の耳に響いていた。ペダルを踏み込むたび、心の奥に溜まった重たい感情が、少しずつ剥がれ落ちていく気がした。不安、恐怖、孤独―。すべてを捨てて、ただ前に進みたい―そんな思いで、私は自転車を走らせていた。

高校に入学してから数ヶ月。必死に受験勉強をしてやっとの思いで合格した憧れの高校。

昼休みは机を囲んで恋バナ、放課後は部活に打ち込んで汗を流したり、友達とカラオケに行ったりして、テスト前には一生懸命勉強して―。私の頭の中には、そんな青春が描かれていた。

そして、今―。入学早々形成されたグループ、そして完全に取り残されてここまで来てしまった私。毎朝教室の真ん中で、椅子を寄せ合い楽しそうに話しているクラスメイト達をなるべく見ないよう努めながら、私は隅っこの席でじっと始業を待っている。いつしかチャイムが鳴るギリギリに登校するようになっていた。あんなに頑張っていた勉強にも段々と身が入らなくなってきて、ボロボロになるまで使ってやると誓った参考書も新品のおもかげを残している。教室にいると、まるで私には光が当たってないのではないのかと思ってしまうほどに、私の高校生活は、早くも色を失い始めていた。

頭の中の理想と、目の前の現実との間にできた色彩のコントラストは、信じられないほどにはっきりとしている。

何もかも思うようにならない毎日。心に空いた穴は日に日に大きくなっていく。なんとか一日を乗り切って、ひとり誰もいない家へと歩いた。

お父さんは仕事で忙しくて、いつも家に帰るのは私が寝た後。私の心に燻る暗い気持ちを知っているのは自分だけ、そう思うと、どうしようもない孤独感に襲われる。こんなとき、お母さんがいてくれたら…。三年前に癌で亡くなったお母さんのことを思わなかった日はない。


お母さんに会いたい…。その衝動に駆られるように、無意識にペダルを漕いでいた。

目的地は決まっていた。お母さんがまだ元気だった頃、よく一緒に行ったひまわり畑だ。小さい頃、ここはお母さんと私の秘密の場所なんだとよく言っていた記憶がある。お母さんが死んでから、そこへは一度も行っていない。ひまわり畑を前にしたら、隣にいないお母さんの存在に気付かされると思っていたからだ。でも今日は、今日だけはお母さんに会いたかった。会える気がした。

風が心地よく私の髪をなでる。暑い夏の日差しが肌にじりじり焼き付くけれど、それも気にならないほど無心で漕いでいた。こんなにも日の光が当たっているのを感じたのは久しぶりだった。

気づいたら、一面に広がる黄色い花々が目に飛び込んできた。ひまわり畑だ。着いた瞬間、私は自転車を止め、その場に立ち尽くした。ひまわりの背丈は私よりもずっと高い。私の目に映るひまわり達は、空に向かって手を伸ばしているように見えた。太陽に向かって堂々と立っているひまわり達に囲まれていると、余計に自分が小さく見えてきた。

「…。」涙が溢れ出てくる。

ふと、一輪のひまわりに目が留まった。大きく開いた花弁が、太陽の光を浴びて輝いている。その姿は優しくて力強くて、お母さんにそっくりだった。

「お母さん…」そう言いながらそっと茎に手を触れた。その時だ。視界がぐわんと歪み、一瞬のうちに私の身体は暖かい光に包まれた。まるで身体の輪郭が溶けて、土に染み込んで行くように。

足元から根が伸びるような、そして腕がゆっくりと広がっていくような感覚があった。気がつくと、一本一本の髪の毛は鮮やかな黄色の花びらに、体全体は青々とした茎へと変わっていた。

「えっ…。」言葉が出ない。驚きながらも、自分の心が不思議と穏やかになっていくのを感じた。風に揺れるひまわり達に仲間入りして、私もまた太陽に向かって顔を上げる。

この姿で、ずっとここにいたい。ここなら、お母さんと近くにいられる気がするから。

風に揺られて葉と葉が重なり合う音が明瞭に聞こえるほどの静けさの中、私の後ろの方から声がした。

「大丈夫。陽花はひとりじゃない。お母さんがついているから、安心して。」

後ろを振り返ることはできない。でも私は、その声を知っている。温かく包み込まれるような優しい声。それは間違いなくお母さんの声だった。

「前だけ見て進みなさい。お母さん、ついてるから。」

小さい頃、自転車の練習をしていた時によく言われた言葉を思い出した。

「お母さん、私…」お母さんの顔を思い出すほどに止まらない涙。だんだんと視界が霞んでいく。するとその時、

「わあ、きれいだね!」

「そうね、綺麗ね。」

聞き覚えのある声に驚いて、声のした方に視線をやる。するとそこにいたのは、麦わら帽子を被り、お気に入りのお花のサンダルを履いて、右手でしっかりお母さんの左手を握りしめている―私だ。きらきら光るその目には、ひまわりになった私の姿があった。

「みて、おかあさん。このひまわり、げんきなさそう。」と、私が私に向かって指を差す。

「そうね、じゃあ、ひまり、あなたが元気づけてあげたら?」

「うん!」

そう言うと、小さい私は抱っこしてもらって、背の高い私の頭を撫でる。

「おいしいごはん食べて、げんきだしてね。また、あいにくるね。」

小さい頃の私に慰められた。恥ずかしくて情けない気持ちになったけど、少しずつ心の中にあの頃の自分を取り戻していた。

懐かしい、元気なお母さんの姿。この頃に戻れたら―。


最後にここに来たのは四年前。車椅子に乗っているお母さんの背丈は、私よりも小さかった。昼前、まだ昇りきっていない太陽を、まっすぐに見上げるひまわりを眺めながら、

「今年も綺麗に咲いたね。」

「そうね。今年も見に来られて良かったわ。ありがとう。」

弱々しい声でお母さんが言ったから、嫌な予感がして、足が竦む感覚がして、怖くなって、

「来年も絶対に見に来ようね。絶対だよ、絶対。お母さんがいなくなったら、私、生きていけないんだから!…」と、細くなったお母さんの手を強く握りながら必死に訴えかけた。

少し間があった後、お母さんは

「大丈夫よ。こんな甘ったれな子を残して死ねるわけないじゃない。」と笑った。

私を安心させようと言ったのだろうけど、いつもと違う弱々しいお母さんの笑顔と、お母さんの口から発せられた〝死〟という言葉は、あまりにも私の心に重く冷たく突き刺さり、むしろ逆効果だった。


一瞬にして私の頭の中で作られた最悪のシナリオ。これが現実になるのは、それほど遠い未来ではなかった。

お母さんは、次の夏を待つことはできなかった。


畑からの帰り道、ひまわり達も段々と俯きだしてきた頃。

「覚えてる?まだ私が小さい頃、この道でお母さんに背中を押してもらいながら自転車の練習をしたこと。今は私がお母さんのことを押してるけどね。」といたずらに言うと、

お母さんは「全く…そんなこと言うようになったのね。」と嬉しそうに笑ったのだった。

「お母さんが後ろについてるからね。」

車椅子を押す私に言ったその声は、消え入りそうなほど小さかったけれど、力強く私の心に残った。


時が経っても、このひまわり畑は私にとって、お母さんと二人の特別な場所だった。


次第に夕暮れが近づいてきた。太陽が西の空へ沈み始め、空はオレンジ色に染まった。私も、自然と西を向いた。

目が覚めると、あたりはもう暗かった。ひまわり畑の真ん中に座り込んでいた私は、元の人間の姿に戻っていた。視界に広がるひまわり達は、みんな俯いていて、溌剌とした面影はもうそこにはなかった。

あの不思議な時間の終わりを悟って、私は大きく深呼吸をした。

あたりは真っ暗。私は自転車に乗って走り出す。蘇ってきたお母さんとの思い出の分だけ、そして心の中の覚悟の分だけ、ペダルは重くなっていた。ひんやりと冷たい夜の風が私の背中を押してくれる。

お母さんが後ろにいてくれる。だから、前を向いて強くまっすぐ生きていこう。私の心には、強い覚悟が根を張っていた。


夏によく似合う、太陽より明るいあの笑顔。あれこそが私の憧れだ。

私は、今日という日をこれから先、一生忘れることは出来ないだろう。

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