011・012 核心を見る

11

核心なきものを核心と見、核心を核心なきものと見れば、誤った思考にはまり込む。


12

核心を核心と見、核心なきものを核心なきものと見れば、核心にも届きうる。



Asāre sāramatino, sāre cāsāradassino,

te sāraṁ nādhigacchanti, micchāsaṅkappagocarā.


Sārañca sārato ñatvā, asārañca asārato;

te sāraṁ adhigacchanti, sammāsaṅkappagocarā.


パーリ読経

https://www.youtube.com/watch?v=raQFzuKsHVQ



They who imagine truth in untruth, and see untruth in truth, never arrive at truth, but follow vain desires.


They who know truth in truth, and untruth in untruth, arrive at truth, and follow true desires.



非真思真實,真實見非真,

邪思惟境界,彼不達真實。


真實思真實,非真知非真,

正思惟境界,彼能達真實。




「知らねぇよクソが!」とまず叫んだ。


 なにが核心あるもので、なにが核心なきものなのかなどわからない。これは自分の思考ベースが「そもそも人間に世の核心などわからない」にあるからである。道の道とすべきは常の道にあらず、である。そこを考えることに意味はない、では「自分にとって」核心と言えるのはなんなのか。死にゆくこの身体をどのように満たしうるか、そのための贅肉をいかに省けるか、なのだろう。外的な意味での核心を求めることに意味はない。「わからない」ので。


 として考えると、まぁ般若心経か。五蘊を否定し、十八界を否定し、十二因縁を否定し、四諦を否定する。こうした物事は飽くまで内観を進めるための小道具であり、本質そのものではない。「その先」に飛び出るには、また違ったものが必要である。それが般若。こうした「自分の考え方」は実に自分の考え方にピタリとハマってくるので、原則としてそこに従いたくは、ある。とは言え本当にここでいいのか、とは疑問を差し挟む必要もあるのだろう。


 sāratoとは何か。無論考えるだけ無駄なものである。無駄であると知りつつsāratoの外側にへばりつく無駄な思考の贅肉はそぎ落としていきたい。いや、思考の贅肉という考え方そのものが贅肉的か。ぐるぐる回しましょう、迷妄に陥る自分もまた良きもの。全てが「良い」のだ。仮に、今の思考が誤っているという視座も、結局は他ならない今の自分の立ち位置である。


 それにしても、この日記では同じ話題をループさせることを躊躇してはならなさそうである。散々同じような話を、飽きることなく繰り返す。それはもしかして菜根譚にて、同じような箴言が何度も飛び出してきたことにも通じるのかもしれない。同じような言葉が、しかし違う外見を帯びるのだ。同じことを、何か違う角度で見た、と言えるのだろう。


 群盲象に触れる、を思い出す。わかろうがわかるまいが、とにかく触れるしかない。

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波間的ダンマパダ日記 ヘツポツ斎 @s8ooo

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