009・010 信ずるに足るもの

9

心の汚濁捨てきれぬまま振る舞うもの。彼の行いと言葉など、信じるに足るだろうか。


10

心の汚濁を捨て去り、心身を戒めるもの。彼の行いと言葉こそが信じるに足る。



Anikkasāvo kāsāvaṁ, yo vatthaṁ paridahissati;

apeto damasaccena, na so kāsāvam arahati.


Yo ca vanta kasāv' assa, sīlesu susamāhito;

upeto damasaccena, sa ve kāsāvam arahati.


パーリ読経

https://www.youtube.com/watch?v=0E0kBIAfsac



He who wishes to put on the yellow dress without having cleansed himself from sin, who disregards temperance and truth, is unworthy of the yellow dress.


But he who has cleansed himself from sin, is well grounded in all virtues, and regards also temperance and truth, he is indeed worthy of the yellow dress.



若人穿袈裟,不離諸垢穢,

無誠實克己,不應著袈裟。


若人離諸垢,能善持戒律,

克己與誠實,彼應著袈裟。




 自身が接する言葉として、仏教色は可能な限り抜いておきたい。ここでも「黄色い袈裟を身にまとうにふさわしいかどうか」が語られているのだが、ひととして信ずるに値するかどうか、という言葉に置き換えた。いや仏教色を残してもいいんですが、仏徒としての修行はしない以上マイルドにしておかないとである。テキストに対する敬意と、それを実践する自分とは結局違うものなので。


 心の汚濁。さらっと語られているこれを、どのように解釈すべきだろうか。ここには下手に内容を決め打ちせず、ふんわりとさせたままのほうが良いのかもしれない。おそらく「これが心の汚濁である」とはっきりとした内容で語れるようなものではないのだろう。ほんの小さな汚濁を小さく洗い流すも、別のタイミングでは新たにへばりつかせたりもする。延々とこれを繰り返していくしかない、気がする。


 さて、「信じるに値する」と書いた。信じるに値する他人、とするべきだろうか。そうすると過去の読みとの齟齬が出る。ここは信じるに値する「自己」とすべきなのだろう。己など信じすぎる必要もないが、さりとて欺瞞は少しでも削り去っていきたい。良くも悪くも自らの欲望に対し素直となる。このとき適切に汚濁を洗い流すことができれば、そのぶん欲望もよりシンプルなものになるのではないか。


 漢経が対句表現としての接続を強化しているのがやや気になるところである。パーリ語経文を読んでみた感じでは割と前半の対句化を放棄しているようにも思えるのだ。この辺り、ダンマパダのパーリ読経も交えて確認できるのが良いのかもしれない。クマーラジーヴァも言っている、経典の漢経化における韻律の放棄は、経典の重要なメンタリティを奪いもした、と。それがどういうことなのかをまだ理解はしきれていないが、とりあえず音で聞くだけ聞き、音に慣れる、はやっておいたほうが良さそうである。

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