夜風と蚊取り豚

キトリ

夜風と蚊取り豚

リンリンリーン


窓辺の風鈴が軽やかで涼しげな音を鳴らすが、その短冊を揺らす風は生ぬるい。本来涼しさを運ぶはずの風鈴の音はただの雑音になり果てた。今日は夕方以降断続的に風が吹き風鈴が頻繁に鳴るのだが、夜になるとその甲高い音は安眠妨害にしかならない。


リンリン、リン、リンリーン、リリンリン


「あー、うるさい」


床に寝そべっていた男はのそりと上体を起こす。立ち上がろうと後ろに手をつけば己の汗で床がべたついていた。ジトリとした不快な感覚に思わず舌打ちをする。明日フローリングワイパーをかけよう。ドライじゃなくてウェットタイプの除菌できるやつ。そんなことを思いながら男は気だるい気持ちに少し喝を入れて「よっこいしょ」と立ち上がり数歩先の窓際へと向かった。その間も風鈴はリリンリンとこちらを急かすかのようにうるさく鳴っている。

ガラスは割ってしまいそうだからと選んだ金属製の風鈴に触れれば、釣鐘はじんわりと熱を持っている。あまりにも気温が下がらないから昼間の熱が抜けきっていないのだろう。風鈴本体が熱いのでは部屋が涼しくなるわけがない、などズレたことを考えながら男はカーテンレールに括りつけた風鈴を下ろした。細く開けた窓から入ってくる風を直に受けているのに汗一つ引かない日本の夏はどうしたものか、と額から滑り落ちる汗を男はタンクトップの端で拭う。


部屋のエアコンが壊れたのは午前中のことだ。送風口のルーバーが止まりぬるい風しか出てこなくなった、と思ったら風すら吹かなくなりエアコンの電源ごと切れてしまった。部屋のブレーカーを操作してもエアコンは回復せず、エアコン本体を叩いてみたり掃除したり室外機の動作を確認したりと手を尽くしたが、素人なりの作業でわかったことはエアコンが壊れたという最悪の結果だった。電話一本で見に来てくれた町の電気屋のオヤジも男と同じ結論だった。エアコンは壊れた。

「最近暑いしすぐに手配してあげたいんだけど、なんせ西の方で洪水があったものだからエアコンが大量に壊れて品不足でね。室外機も壊れてっから全部取り替えだけど業者さんもいないし……」

電気屋のオヤジは困ったように言って、とりあえず年代物の扇風機を一台置いて帰った。もちろんありがたいのだが、残念ながら扇風機一台で乗り切れるほど最近の夏は易しくない。しかし、田舎ゆえにネットカフェのような気楽に一晩過ごせる場所もない。男は昼間の殺人的な暑さを近場のホームセンターに閉店時間間際まで入り浸ることでどうにかやり過ごし、お詫びとしてエアコンなしで一晩を過ごせるような装備を一式買って帰った。風鈴はその筆頭で、それ以外はスポーツドリンク、接触冷感グッズ数種類、そして忘れてはならない蚊取り線香。


「ねー、豚、めっちゃ暑いんだけど」


風鈴を机の引き出しに仕舞った男は、再びゴロリと床に寝そべってうっすら煙を吐き出す豚に話しかけた。陶器で出来た豚は体内に小さな火を灯したままジッと男を見ている。

男の部屋はアパートの一階にあるから窓を開ければ蚊が必ず入ってくる。蚊の対策は必須だった。はじめは電気で使える蚊取り機にしようかと思ったが、あいにく扇風機に最後のコンセントを使ってしまったことを思い出した。既に部屋の配線はタコ足配線どころかイカ足配線状態であるため、これ以上電化製品を増やすのは火事になりそうでやめた。部屋にスプレーするだけの薬剤タイプもあったが窓を開けっぱなしにすることを考えるとどうにも心許ない。蚊帳という選択肢も考えたが部屋に吊り下げるためのフックをどうしたら良いものか。天井に穴を開ければ大家に文句を言われるのは目に見えている。会うたびにネチネチと絡まれるのは御免だ。

結果、男に残った選択肢は蚊取り線香だった。洗濯物から遠ざけて、陶器の豚にでも入れて安置しておけば倒れることもないし、火事にはならないだろう。寝たばこよりかは安心だ、多分、と喫煙者の男は自分を納得させた。喫煙者だからか煙の臭いに抵抗も無いし、そもそも蚊取り線香の臭いは喫煙者になる前から、多分子供の頃から好きだった。



小学生の頃は毎年夏休みにお世話になった、今の男の住処よりさらに田舎の祖父母の家には蚊取り豚が何匹もいた。白いの、黒いの、緑色の、花が描かれたの……バラエティ豊かな蚊取り豚が縁側に、庭に、畑の休憩場所にと様々なところに置かれていた。小さい頃の男にとっては蚊取り線香の臭いは祖父母の家の匂いと同義で、ちょっと裕福な、マンションに住んでいる同級生が蚊取り線香を煙たいと臭がった時には驚いたものだった。


「ねーねー豚さん、暇だよぉ」


祖父母の家に滞在中は、縁側が定位置の青い花模様のある蚊取り豚に毎日話しかけていたように思う。正直、祖父母の家に行くのは楽しみではなかった。自然は豊かで豊かで豊かで豊か過ぎるくらいだったし、祖母の作るご飯は美味しかった。小学生高学年になってからは祖父が釣りに連れて行ってくれるようになり、山に入って川の上流でヤマメを釣ったりして少しは楽しかった。だがそれまでは……。毎朝夏野菜を収穫したり、祖母の山菜採りに付いて行ったりはしたが、それ以外はかなり暇だった。何せ限界集落、子供がいないのだ。近所のお年寄りの孫がやってきたとしてもせいぜい一週間程度のもので、男みたいに夏休みを丸々祖父母の家で過ごす子供はいなかった。

男が小学生の頃はスマホなんてなかったし、機械に疎い祖父母の家だからテレビゲームも置いてない。近所に本屋もないから漫画も買えない。家から持ってきた携帯ゲーム機は「目に悪いから」と決まって午後には取り上げられてしまっていたから、男は仕方なしに縁側に寝そべっていた。そして、今思えばかなり狂気的な気がするが、ずーっと、それこそ寝る前まで蚊取り豚とお喋りしていたのだ。

祖父母の家で男に与えられた部屋は縁側に面していて、毎晩祖父が張ってくれる蚊帳のむこうには蚊取り豚が置かれていた。いつも縁側にいる青い花柄のある豚だけでなく、家じゅうの豚が男の部屋の前に並べられる。そして全ての豚のお腹の中には蚊取り線香が吊り下げられていた。蚊取り線香の無駄遣いにも思えるが、当時はデング熱の日本上陸が盛んに報道されていた頃だったから祖父母の愛情によるものだったのだろう。蚊取り豚は男の守護神のように何匹も縁側に並べられていた。そして夜風が吹く日は、男は一度寝たふりをして祖父母の「早く寝なさい攻撃」を躱し、どの豚が一番長く火を燃やしていられるか観察していた。



三十路に差し掛かった今、男は小学生の頃と同じことをしている。場所はアパートの一室で蚊取り豚は一匹しかいないが、夜風と扇風機の風が吹く部屋の中で一人と一匹は見つめ合っていた。蚊取り豚の中の渦巻きは夜風か、はたまた扇風機の風によってゆらゆらと揺れている。

男は床に転がっていたタバコの箱を手に取る。一本取り出して口に咥えた。少ししけっているが気にしない。蚊取り豚の横に鎮座する蚊取り線香の缶から安ライターを取り出して口元でボタンを押した。男は煙を吸い込むとフゥーと蚊取り豚に吹きかける。中の線香は大きく揺れるが火は消えず、一瞬だけ明るく光ってまた元のぼんやりとした光に戻った。

「フフッ」

なんだか楽しくなって男はもう一度煙を吸い込んで豚に吹きかけた。その風で蚊取り線香の灰が豚の腹の中にポトリ、と落ちた。

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