第7話

 今日も少年は仕事へと向かうウァプラを見送り、自身の部屋から上着を持って外に出かけた。

 洋館を取り囲む森は想像以上に広く、毎日探索をしても毎回新しい発見がある。また森自体がウァプラの所有物であるようで他の悪魔を見かけることはなく、まだ他の悪魔に泣かされることの多い少年にとってむやみやたらに警戒せずとも遊べる貴重な場所であった。

 少年は周りを見渡しながら森を歩く。

 少し洋館から離れれば、紫色した川が流れていた。

 水を手で掬うと川全体が紫色から一変して虹色にキラキラと輝き、思わず唾を飲み込む。しかし少年は飲んだことで丸二日間動けなくなったことを思い出してすぐに手の皿を崩した。少年が反キリストから聞いた話では体質に合わない悪魔は動けなくなったのち全身が溶けて輝く川の一部になるらしく、心底誘惑に負けたことを後悔したのは記憶に新しい。

 もう少し進むと木の根元に大量の純金の粒を付けた花が咲いていた。少年はウァプラと外に出たとき、これに手を伸ばした瞬間腕一本食べられてしまったモノを間近で見たことがある。

 天界では物々交換で成り立っていることが多いが、金と聞くと思わず手に取ってしまう悪魔もいるらしい。そういうモノを餌にしている花なのだと、ウァプラがいまだ襲われている悪魔をバカにして笑っていたことを思い出す。

 そんな風に観察しながら歩いていると、突然の暴風とともに少年の目の前には怪鳥と呼べるほど大きい鳥が現れた。

 少年の倍以上ある体格に、カラスのような真っ黒な姿で鶏に似たトサカが生えた頭をカクカクと三六〇度忙しなく動かしている。

 その鳥は地面に降り立つと首の回転をキュッと止め、全身にある目を一斉に開けて少年を凝視した。

 しかし少年は慣れた手つきでポケットから袋を取り出し、木の実を潰したものをその鳥に向かってばら撒く。すると鳥は待ってましたとばかりに頭を裂き、落ちてくる餌をその大きな口で受け止めた。

 この鳥は警戒心こそ高いが、慣れてしまえば温厚でとても懐きやすい。始めは少年もその鳥の姿に怯え、餌を投げては遠くから見守る日々が続いたが、互いが互いに敵意がないことがわかると一気に距離は縮まり、今では鳥の背に乗って森を散歩するぐらいの仲になった。

 この森にいる動物はそんなモノばかりで、こちらが何もしなければどの動物も温厚な性格をしていた。

 ウァプラがわざわざそういったモノを集めたのかは不明だが、少年はそんな動物たちと戯れるのが最近の日課となっている。

 いつものように鳥の背に乗ったまま森を散策し、出会ったモノに餌を与えていれば突然地面が一定のリズムを刻みながら大きな音を立てて揺れ始めた。

 少年は蝙蝠の羽を持った狐を地面に下ろし、鳥の背から下りる。そして動物たちに別れを告げ洋館へと足を向けた。先ほどまで少年の周りを駆け回っていた動物たちも同じようにどこかへ帰っていく。

 この地鳴りは、この森一体を仕切っている主の足音らしい。

 姿こそ見たことないが、確かに聞こえる足音と地鳴りがその存在を肯定していた。

 この足音が響きだしたら洋館に戻ること。それがこの森で自由に過ごすためのウァプラとの約束であった。

 木々の隙間から洋館の外壁が見える。早く中に入ろうと鉄格子に近づこうとして、少年は動きを止めた。

 見慣れない訪問者が鉄格子の先、洋館の扉の前に立っていた。

 客人であれば扉はひとりでに開く。以前ウァプラがそう言っていたことを思い出す。つまりその扉が開いていないのであれば、招かれざる客人であるということだ。

 嫌な予感がした。少年は静かに鉄格子から離れようと一歩ずつ客人の背を見つめながら後退する。一歩、二歩、と下がっていくと背中に何か当たった。

 「こんにちは」

 背後から聞こえた声に少年は肩を跳び上がらせた。視線の先にいたはずの訪問者は瞬きの間にいなくなっている。身体が硬直したように後ろを振り向けなかった。両肩に置かれた手からはやたらと重量を感じる。

 「悪いモノではない。どうか、心を落ち着かせて」

 スッと耳を通る声だった。

 反キリストとはまた違う、語尾も声質も強いにもかかわらずどこか慈愛を混ぜたような声。

 どこかで聞いたことがある気がした。

 「…落ち着いたようだね。顔を、見せてくれるかい?」

 少年はその言葉に眉を寄せながらも小さく頷いた。

 そのモノはその肯定を見て、肩から手を下ろす。

 少年はゆっくりと足を反転させて向き合うように振り返った。

 最初に少年の視界を埋めたのは、目に余るほどの白であった。

 白い衣、白い翼、白い肌、そしてひとつにゆるく編んだ光を反射する金の長髪に、碧い瞳。

 そして頭上に浮かぶ、光輝く輪。

 まるで人間の想像する天使をそのまま持ってきたような風貌で、少年は一目で天使だと思った。むしろ疑わしく思うぐらいだが、それはいつかの繁華街で見かけたモノでもあった。

 「ああ…やっと見つけた」

 「…誰?」

 天使は安堵するように美しく整った顔を緩め、少年の問いかけに優しく微笑んだ。

 「これは失礼。私は天使階級第六に位置する、カマエルという」

 「カマエル…」

 「…カマエル様と呼びなさい。目上のモノに敬称をつけなければ、痛い目に合うのは君だ」

 少年は悪魔たちとは一風変わったカマエルの雰囲気に面を打たれていたが、その発せられる声に首を傾げた。

 やはり言葉を交わしたことも会ったこともないはずだが、たしかに聞き覚えのある声であった。そしてカマエルの「見つけた」という言葉にも違和感を覚える。

 なにか、なにか忘れている気がする。

 少年がボーっとカマエルを見上げていると、カマエルはその身を屈め少年と目線を合わせた。

 そして顔の横に垂れる髪を耳にかけ、潤しい唇を動かす。

 「ところで君は…本当にここが自分の居場所だと思うかい?」

 「………え?」

 少年はカマエルの一連の動作に気を取られ、その言葉をすぐに理解できなかった。

 「もっとわかりやすく言おう。君は…リパと言ったね。リパにはもっと相応しい場所がある…これがどういうことか、わからないほど愚鈍ではないだろう」

 少年の心臓が跳ねる。

 嫌な汗をかく。冷たい感覚が久しく背中を通った。

 ああ、とうとうバレたのだ。

 少年はこのカマエルという天使が自分を裁きに来たのだと、神の元へ連れていくのだと思った。ここに何年いたかは定かではない。しかしそれでも同じ日は一度もなく、毎日が少年にとって刺激的でずっとここにいるものだと思っていた。今もそう思い、願っていた。

 しかしそれも今日で終わるのだ。

 ギュッと固く締める拳に真っ黒な爪が突き刺さる。

 一方カマエルは屈めていた身をさらに屈めて膝を折ると、少年の拳を両手で優しく包んだ。

 少年はつい振り払おうとするが、その手は解けた拳に縋るよう、さらに強く絡みついた。

 カマエルの碧い瞳が少年の真紅を刺す。

 「安心なさい。私が君を救おう。あるべき運命に…共に戻ろう」

 「……どういうこ」

 「と?」

 部屋に声が響く。

 気がつけば少年は自室にいた。

 瞬きをパチパチと繰り返し、放心したように辺りを見渡す。

 ふと手に視線を落とせば、手の平には爪の痕がくっきりと残っていた。

 静まり返った部屋に対して、窓の外からなにやら喋り声が聞こえる。

 少年はハッと窓の外へと視線を移し、窓を大きく開けて身を乗り出す勢いで玄関を見た。

 その目線の先にはカマエルとウァプラが向き合い、なにやら言葉を交わしていた。

 仕事から帰ってきたウァプラがカマエルと話しているのを見かけ、少年を部屋に飛ばしたのだろう。

 少年は耳を澄ませるが、断片的な音が聞こえるだけで会話は聞き取れそうにない。しかし双方の声色を聞く限り談笑ではなさそうだった。しばらくすると話し合いが終わったのか、カマエルが少年のほうへと振り向き微笑んだかと思えば、光の粒となって姿を消した。

 はらりと、一枚の真っ白な羽根が少年の目の前に舞い落ちる。

 鼻先を撫でた羽根に、少年はただ瞬きを繰り返すだけだった。

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凄惨たるは天の色欲 椚田暖炉 @danro_kunugida

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