内見

高黄森哉

内見


 新しいことを始めなければならない。しかし、自分の心は過去へ向かっている。過去の栄光と後悔が、自分をある地点へ引き留める碇となり、その鎖はずるずると海底を這っているのである。

 車窓から見える景色は、自分の知っている景色から少しずれている。今日は、内見の日だ。そろそろ、新しいことを始めなければならない。そんな焦燥を抱えつつも、自分は過去に思いをはせていた。


 自分は岐阜の片田舎で生まれ育った。まるで、周囲を山で囲まれたような盆地の地形。森が家のすぐ背中まで来ていたし、道路を挟んだところに川が流れ、夜には蛍が飛んでいた。

 六人の幼馴染がいた。三人の男子と、三人の女子である。転勤族である自分には、この実感がとても希薄であるが、にもかかわらず、暖かな幻想に思えるのである。しかし、自分には帰る場所があり、六人が迎えてくれるというのは、ともすれば、妄想かもしれない。もう十年も会っていない。


 もうそろそろ、過去への逃避行は、もうやめなければならなかった。どれだけ嘆こうが、今の自分に避難所などないのは事実なのだから。信用できる人間がいないように、安心できる土地などない。

 だいいち、そろそろ目的地に着くころ合いだ。電車は緩やかに停止、携帯の画面には十二時と表示されていた。約束の時間が一時なので、物件までの道程を鑑みると、妥当な時間だろう。携帯をポケットにしまった。

 駅から開けた通りを右へ、コンビニ、そこからの道を折れる。その道のりに屋内プールとその駐車場を囲う柵を見つけた。へそほどの高さの白塗りの柵。


 自分の田舎には、大きな秋祭りがある。胸ほどある柵の前で親友と待ち合わせて、そのまま祭りの通りまで歩いたのを覚えている。夜だった気がする。しかし、二人はまだ子供だったので、実際は昼間だろう。


 ふと、五平餅の香りがした。クルミと味噌の焼ける匂いだ。店は視界になかった。ただ、匂いだけが漂っていた。

 そして、文化センターの駐車場を横断する。そして、小学校の敷地を通り抜け、川にかかる橋を渡る。透明な川には鮎の稚魚が泳いでいる。ある病院にあったジオラマの川も、こんな透明さだ。自分は気管支が弱く、よく小児科に罹っていたのである。

 僕は、せき込んだ。仕事の先輩に連れてかれた店にいってから喉が痛い。病院でもらった抗生物質を自販機の水で呑み込んだ。四つの粒は、飲み込みがたい現状の喉ごしで、胃へと滑り落ちていった。生きているだけで必ずしも、いい方向へ進むわけではない。花だって、どんどん萎れていくのだから。


 それから、また、しばらく歩く。ある地点で、僕は遠回りだが、わざと道路から逸れて、弓なりの道を進んだ。ハイビスカスか何かが咲いていて、その真下の側溝には、ごく浅い水流がある。浅いにも関わらず、水の清らかさがわかる。

 一方、例の道路では、車が駆け抜けていた。あちらの道は、少しでも外れれば大惨事だろう。路肩も細い。例えば、子供に歩かせたくない。


 さて、そんな風に寄り道しながら、三十分ほど歩いて、緑の屋根の家に到着したわけである。久しぶりにポケットをまさぐり携帯を見ると、十二時四十分。なるほど、三十分ほど、というわけだ。

 不動産の男は、すでに先に到着していた。こんな物件を選ぼうとしている人間は珍しいのだろう。なんだか、彼の表情は嘲弄を含んでいた。


「裏に回ってください。入り口は裏なものでして」


 擁壁と家の間はジメジメしていた。光が届くのは太陽が頂点にあるこの時間だけだという。ゲジゲジやカマドウマが出そうだと思った。

 玄関は狭く、正面の壁には扉があり、その上に配電盤がある。その配電盤は、一階の小さな店と繋がっているのである。


「風呂を見せてほしい」


 自分は扉を指さした。


「いえ、あちらはすでに埋め立てられてまして、別のところになります」


 と彼は、物件の資料を眺めていた。その資料には、風呂場の位置はきちんと記載されている。つまり、埋め立てられた風呂場には、物置という言葉が与えられていた。

 おもむろに、二階の階段から、老婆が下りてくる。不動産屋の彼は驚いた様子で、この突然の闖入者に、ものも言えぬようだ。


「もう、こちらの家は改装しちゃってね。何から何まで違います」

「そうですか」


 受け入れるのに時間はいらなかった。


「行きましょう。もういいです、内見は」

「いやしかし」

「もう、この家はいいんです。僕はもうここには来ない。もう十分に見ました」


 この家にだって、この土地にだって。


 僕は新しいことを始めなければならない。新しい家に住み、新しい土地へ行かなければならない。しかし、そこへ居続けることはない。そこに居続けない、ということが、己にとっての故郷なのかもしれなかった。

 窓から見える景色は僕の故郷と少しずれている。この村を離れて、もう十年になる。この家も、村も、僕のいた場所からずいぶんずれている。それはともすると、ここがよく似た別の土地だからかもしれない。

 だから、僕は、新しい土地の新居を偵察しにきたのかもしれないし、あるいは、過去の家を内見しているのかもしれない。でも、そんなことはどうでもいいことだ。


 帰らなければならない。過去と未来から逃避行するために、人は現在に居続けなければならない。どちらも僕たちに、そう都合のいいものではないのだから。

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内見 高黄森哉 @kamikawa2001

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