トポロジー

三下のこ

雨降って季節は過ぎる

 自分の大切なものを描いて提出しろ。部活の顧問の先生がそう言ったのが、私たちの関係を大きく変えたのかもしれない。


 授業を終えた私たちは美術室へと向かい、デッサンの準備をしていた。時間は放課後、季節は体育祭が終わって少し肌寒くなってきた頃、老朽化した窓をやっとの思いで開けるとカラッとした気持ちいい風が入り込んでくる。


「なつめー、私はどうすればいいのー?」


 壁に掛かったカラーパレットのポスターを眺めながら美雨が聞いてくる。美雨には部活を手伝ってほしいとしか伝えていなかったため、本人からしたら何をしたらいいかわからなくなるのも当然だろう。


 美雨とは入学時からの付き合い、私の唯一であり無二である友達。


「ちょっと美雨にはモデルを頼もうと思って……、そこの椅子に座って」


 そう言ってキャンバスの前にある、全国の美術室に置いてありそうな木の椅子を指差す。すると美雨は「ふむ」と一言呟いたのちに私が指示した席へと座った。私も準備しなければとカバンの中からデッサン用の筆箱を取り出し、美雨とはキャンバスを挟んで反対側の椅子に座る。


「それにしても、私がデッサンのモデルねぇ。そういうのはなつめがした方が映えると思うけど。お人形さんみたいな見た目で可愛いし」


 席に座りながら、美術室にあるものが珍しいのか周りをキョロキョロしながらそんなことを言ってくる。


 私が可愛い、か。


 正直、私は自分の見た目が嫌いだった。

 ロシア人の父親と日本人の母親の間に生まれた私は、他の人と見た目が少し違かった。燃えかすのように白い髪と冷徹に見える青い瞳、この二つのせいで私は小さい頃から友達がいなかった。周りの子からしたら、みんなと見た目の違う私は怖かっただろう。幼稚園や小学校では誰からも話しかけられることはなかった。そこで私は誰かに話しかけるということをせず、なぁなぁと今まで過ごしてしまったせいで現在友人と呼べる人が美雨しかいない。


「デッサンの課題なのに自画像を提出するのは、流石におかしいと思う」


 そんな建前を言って本音を隠す。実際その通りだと思うし、こんな話をしても美雨を困らせてしまうだけだろうから。


「ふむ、そんなもんかね」


 それに、先生から出された課題は自分の大切なものを描いてくるというものだ。私の中で一番大切なものは私ではない。


 私の言うことに納得したのか美雨はぼーっと窓の外を見つめ始めてしまう。そんな姿に私は安心感と、少しの寂しさを感じる。こう、もっと他に質問とかないのかな。なんで私がモデルなのーとか、どんなポーズすればいいのーとか。


 美雨は時々、電池の切れたおもちゃのように黙ってしまうことがある。話したくなくて黙るというよりかは、何かを考え込んでいるみたいだ。単にぼーっとしているだけなのかもしれないけど。


 美雨がそうなる度に、私は少し不安になる。何か気分を悪くすることを言ってしまったのだろうか、本当は何か言いたいことがあるのではないか。そんな考えばかりが頭の中をめぐり、めぐってはどうすることもできずに心の奥の方へどんどん溜まっていく。こんな気持ちになるのは、小さい頃から人と付き合うことを億劫だと避けてきたせいだろうか。私が真面目に人付き合いをしてくればこんな気持ちにもならなかったのだろうか。


 さて、と。

 私もそろそろ集中しなければ。


 筆箱から適当な鉛筆を出したのち、視線をキャンバスに落として適当に鉛筆を走らせ始める。思えば最初は真っ白な紙に何か書き込むのが苦手だった気がする。そんなことを言っていては美術部員として成り立たないのだけども。

 小さい頃は雪が降った後の道に足跡をつけないためにわざわざ遠回りすることもあったっけ。今となってはなんでそんなことをしていたのか理由も思い出せない。


 キャンバスと美雨、交互に見つめながら描き続ける。その間美雨はというと変わらず窓の外を見つめ続けていた。少なからず、モデルとしては配慮してくれてそうだ。

 そんなことを考えていると美雨が急に話しかけてくる。


「なつめはさ、ドーナツってなんだと思う?」


 依然として窓の外を見つめ続けながら、真面目な顔をしてこちらに問いかけてくる。


 それにしても急なドーナツ。ドーナツ、ドーナツかぁ。


「甘いお菓子、とか?」


 疑問を疑問で返すなとかよく言うけど、今回ぐらいは許してほしい。美雨が求めている返答をできているかわからないし。


 私の返答を聞いて、美雨が続ける。


「昨日変な動画を見てさ、ドーナツとマグカップは実は同じものなんですって言うのを解説してる動画だったんだけど」

「ドーナツとマグカップ?」


 うん、と美雨が相槌を打つ。

 ドーナツとマグカップで連想できること……優雅なティータイムとかだろうか。ドーナツ単体に思うことは無いけど、コーヒーと一緒ならそこそこ好きだったりする。甘さと苦さのバランスが丁度いいのだ。


「なんかドーナツとマグカップはどっちも穴があるから、図形的には同じなんだって」


 うん、うん? うーん。


 何の話かさっぱりわからないまま会話は続く。体勢を変えずに美雨が話し続けるため、私もそれに合わせてデッサンを続ける。

 その後も美雨は昨日見た動画について解説してくれるものの、最後まで何の話かはわからなかった。当の本人は理解しているのか表情ひとつ変えないで話し続けるため正直なんて相槌を打てばいいかわからなかった。でも一つわかるのは、ドーナツやらマグカップやら言われたらお腹が空いてくるということだ。


「……デッサンがひと段落したらドーナツでも食べにいく?」


 今まで頑なに体を動かさなかった美雨が急にこちらを向き、親指をグッと立てる。 


「いいね、私も食べたいと思ってた」

「ふふっ、じゃあ決まり」


 美雨は正直変わってると思う。でも変わってるからこんな私と友達になってくれたのかな。思えば最初に話しかけてくれたのも美雨だったし。


 昔のことを思い出していてふと、自分が上機嫌になっていることに気が付く。おそらく、美雨が何を考えているかわかったからだろう。


 最近、知り合ってから何ヶ月も経っているのに美雨のことをちっともわかってないと感じて心配になることがある。そのせいか、私の心は美雨の顔色をうかがうようになってしまっている。美雨が楽しそうであれば私も楽しい気持ちになり、美雨が不機嫌そうであれば落ち込んだ気持ちになり、美雨が何を考えているかわからないときは、とても不安な気持ちになる。


 私の心の中に美雨が住んでいて、ずっと暴れまわってるみたいだった。でもぶっちゃけてしまうとそこまで悪い気はしない。

 この感情になんて名前をつけたらいいんだろう。

 もし美雨が私の前から居なくなってしまったら、きっと私の心にはぽっかり大きな穴が空いてしまうのかな。

 まるで真ん中に大きな穴が空いたドーナツみたいに。


                  ◆


 ドーナツとマグカップは実質同じだよーみたいな考え方がこの世にはあるらしい。昨日の夜、動画サイトで頭の良さそうな人がそれっぽく解説していた。頭のいい人は何を考えてるかわからないけど、なんとなく特別な人なんだなって思う。


 なつめの部活に付き合った後、二人で駅前にあるドーナツ屋へと足を運んでいた。 私はチョコレートコーティングされたシンプルなドーナツと粉砂糖がかかったもちもちのドーナツを、なつめは晩ご飯前だからと中にホイップクリームが入った穴の空いていないドーナツを注文し席で適当に食べ進めていた。


 なつめが一口ドーナツを齧る。ショートボブ程度に切り揃えられた白髪がひらりと揺れ、前髪がなつめの目に少しかかりそうになる。それを邪魔そうに目を細めて「前髪伸びてきたかも」なんて言いながら前髪をかき分ける。一連の仕草を見ていると、まるで目の前で天使が人間世界に降りてきたと錯覚させるようだった。


 対して私は。


 肩の下まで伸ばしている自分の髪を手に取って、軽くため息をつく。

 毎朝鏡の前で目にしている、真っ黒でいかにも大和撫子っていう感じの普通の髪。中学の頃に一回染めようとして、親にこっ酷く怒られたっけ。私も生まれつき違う色だったら、少しは特別になれたのかな。


 一つ目のドーナツを食べている時になつめが話しかけてくる。


「それで、ドーナツを食べて何かわかったことはある?」


 一瞬なんの話をしているかなと考えたが、美術室で私がした話かと思い出す。

 どうしよう、昨日見た動画の影響で頭の良さそうなことを言いたかっただけなんだよなんて口が裂けても言いたくない。


「甘いドーナツには苦いコーヒーがベストってことがわかった」

「コーヒー頼んでないのに?」


 私の手元にあるオレンジジュースを見て、なつめがふふっと笑う。対してなつめはブラックコーヒーを頼んでいた。私はまだ飲めないので、素直にすごいと思う。


「うん、頼んでないのに」

「美雨はやっぱり変わってるね」


 マグカップに入ったコーヒーをなつめが一口飲む。それにつられて私も手元にあるオレンジジュースをストローでちゅうと吸い上げる。


 変わってる、か。


 なつめからそう言われると、少しだけいい気分になれる。本当はショックを受けるべきなのかもしれないけど、私に取ってそれは褒め言葉だった。

 いつの頃からか、変わってる人になりたいと思っていた。


 サラリーマンの父親に週三回程度のパートに通っている母親、そして少し歳の離れた兄。そんな人たちの中に生まれた私は、何もかも普通の人間だった。テストの点数も普通、運動神経も普通。身長も体重も考え方も。何もかもが通常通り。自分の特徴を表す六角形のグラフがあったら円みたいになってしまうような感じ。

 そんな普通の家庭に生まれた私は、普通という言葉に飽き飽きしていた。気がついたら私は特別という言葉に憧れを抱いていて、特別になるために変なことをたくさんするようになっていた。


 中学二年の頃は両利きの人に憧れて一時期ずっと左手でご飯を食べてたし、テレビで超能力の特番を見た次の日は一日中スプーンを握りしめていた。

 思い返すと、恥ずかしいようなこともたくさんしていた気がする。それこそ、世間一般で言う普通の思春期だったのだろう。


 そんな中学時代を経て、低すぎずも高くない偏差値の高校へ入学。

 私は特別にはなれないのかなって思い始めたとき、なつめと出会った。

 入学式で彼女を見つけたとき、身体中に電気が走るような衝撃があった。

 黒や茶色ばかりの景色に差し込まれたキラキラ光る白色、どことなく周りと違う特別な雰囲気を漂わせているなつめから、私は目が離せなくなっていた。その後のことは正直あまり覚えていないけど、同じクラスだったからなのか気がついたら話しかけていて、気がついたら友達になっていた。


「そういえば美雨はさ、大切なものとかってある?」


 ちびちびとマグカップに口をつけているなつめが話しかけてくる。


「急に変な質問してくるね」

「それはお互い様でしょ」


 いやまぁ、確かにそうだけど。

 大切なもの、ねぇ。急に聞かれても……命とかお金とかそんなありきたりな答えしか浮かんでこない。


「逆になつめは何か大切なものある?」


 しばらく考える時間が欲しくてつい聞き返してしまった。そういえば有名な人が質問を質問で返すのは良くないって言ってたっけ。あれ、漫画のキャラが言ってたんだっけな。まぁどっちでもいいや。

 質問を返した途端、ドーナツを小さく齧ってたなつめが大きくむせ始める。大丈夫と聞きながらオレンジジュースを咄嗟に出すもそれを遠慮し自分のマグカップに口をつけるなつめ。変なタイミングで話しかけてしまっただろうか。もう一度大丈夫か聞いてみると少し苦しそうな声で平気と答えてくれる。


「ごめんごめん、変なタイミングで話しかけちゃったね」


 マグカップを口につけたままのなつめがこくりと頷く。そこは否定しないのか。

 少しの間なつめを観察するも、顔を隠すかのようにずっとマグカップを口につけており、私の質問には答える気がなさそうだった。


 さてと、こうなってしまっては私が答えるまで話が進まなさそうだ。既に二個目の半分まで食べたドーナツをお皿に置いて、じっくりと大切なものについて考える。

 何かなつめの意表をつくような答えは思いつかないものだろうか。なんて、考えてしまってる時点で正直負けたような気分になる。何と勝負しているかはよくわからないけど。


 なつめは大切なものを聞かれた時に何を考えたのだろう。


 あの反応を見るに人には言いづらいこと……男とか? いやいやいや、ない、ないよね? 学校とかでも誰かと一緒にいるの見かけないし、でも学校外とかで彼氏を作ってたら? それはそれで報告してくれないのも悲しいし、なつめが彼氏と仲良さそうに歩いてるところを想像すると、なんというか、少しモヤっとする。

 別になつめは私のものだーとか言うつもりはないんだけどね? なんというかこう、ね? 

 どろどろしたよくないものが喉の奥に溜まっているような感覚がする。とりあえず手元にあるオレンジジュースをちゅうちゅうと多めに吸い込んで流し込むことにした。


 今の私にとって大切なものってなんだろう。現状お金には困ってないし、スマホとかだって無ければ無いで他のことをする。

 頭の中に思いつくものは大抵、強いていえば大切だよねーって思うようなものしかなくて、本当の意味でなくなって困るものといえば、自分の命くらいしかないような気がする。


 でもここで命と答えてしまうのは平凡すぎて悔しい。考えながらちょくちょく食べていたドーナツが最後の一口になってしまった。私もこいつと同じでお手上げって感じだ。

 普通じゃなくて特別がいいのに。そう思うと同時に、なつめの姿が視界に入る。私から見てなつめは特別そのものだ。綺麗で、可愛くて、みんなの目を惹いて。

 そのとき、パッと頭の中に一つの答えが思い浮かんだ。

 この答えならきっとなつめの意表をつくことができそうだ。


「なーつめ」

「ん、どうかした?」

「さっきの質問の答えだけど」


 机に乗り出してなつめの耳元に口を寄せる。近づいた瞬間、ふわっと甘い香りが漂う。見た目はクールな印象なのにちゃんと女の子らしい匂いがして、ちょっとドキッとする。


「私の大切なものは、なつめだよ」


 耳元でひそひそと、長い時間をかけてまで考えた割にはあまり捻りの無い答えだけど、私はこれくらいが限界だ。

 なつめの耳元でそう囁くと、普段は色白で雪のように白い顔が、耳のあたりからわーっと赤くなっていく。なるほど、なつめは恥ずかしいとき耳から紅くなるのか。なんて、冷静に分析している私の顔も、実を言うと真っ赤になっているのだった。


「なっ、なっ、なっ! いや、えーっと、その……ありがと」


 何故かオーバーリアクションで慌てふためくなつめ、これは予想以上に意表をつけたらしい。


「いやー、あはは、なんか恥ずかしいこと言っちゃったかも」


 照れ隠しでとりあえず笑ってみせる。相変わらずなつめは赤いままで、こちらと目を合わせてくれない。普段のなつめなら、何言ってんのーとか言うかなって思ったんだけど。

 なんて考えていたらなつめと目が合う。そしてそのまま口を開いたと思ったら。


「……私も、美雨のこと大切だよ」


 俯きがち、上目遣い、赤面しながら、なつめがそんなことを言う。

 あーはい。はいはいなるほど。そうきましたか。

 まさか真正面から返してくるとは。

 意表をつかれたのは私の方だったかもしれない。

 気を紛らわすためオレンジジュースに口をつけるも、カップからずずっと空気を吸う音が聞こえるだけで、一向に喉は潤わなかった。


                  ◆

 

 もともと寝つきがいい方の私は、夜に眠れないって言っている人たちの気持ちが全然わからなかった。だって布団に潜ってしまえば、いつの間にか眠っていて、次の瞬間朝になっているから。私にとっては夜眠れないことよりも朝起きれない方が問題だった。もともと低血糖気味のため毎朝起きるのが辛くて仕方ない。

 でも今日初めて、夜に寝れない人の気持ちがわかった。

 時刻は……多分三時くらい。一時くらいから時計を見るのをやめてしまったため正確な時間はよくわからない。

 真っ暗な部屋の中、布団の中であーだーこーだと考えたり、色々思い出しては悶えたりしてるうちに眠れなくなってしまった。


 美雨とドーナツ屋さんで別れた後の記憶がとても曖昧だった。まっすぐ家に帰ってきた気もするし、近所の公園を三ヶ所くらい寄ってから帰ったような気もする。要するに、それぐらい私の中で衝撃的な出来事だったということだ。


「美雨の大切なものは、私」


 改めて口にすると耳の辺りが熱くなるのを感じる。

 急に顔を近づけてきたと思ったら耳元で囁いてくるし、声可愛いしなんか女の子特有のいい匂いがするし。あの瞬間、私の脳は軽いパニック状態に陥っていた。


 元はと言えば私があんな質問をしてしまったせいなんだけども。まさか自分と答えられるなんて思いもしなかった。

 今回のデッサンのテーマでもある大切なもの。私はそのテーマに対して美雨を選んだ。理由は簡単。私にとって美雨はずっと離れないでほしい人だから。もちろん初めてできた友達だからっていうのもあるけど、一番の理由は、美雨といると私は普通でいられるからだ。


 見た目のせいで周りから浮いていた私を美雨が普通にしていくれる。普通の女子高生としての居場所をくれる。私がずっと憧れていたものを美雨はくれたのだ。

 だから、私は美雨のそばに居れるだけで満足……だと思ってたんだけどな。

 最近になって徐々に自分が欲深くなっていくのを実感する。できればずっと一緒に居たいとか、あわよくばずっと私のことを考えてほしいとか。そんなことを考えてしまう。

 美雨が私以外の子と一緒にいる姿を見ると微妙な気持ちになることがあるし、何より心が張り裂けそうな気持ちになる。


 こういうのを独占欲って言うんだろうな。


 一度意識してしまったら、どくどくと感情が溢れ出してくる。私って友達に独占欲が湧くくらい欲深かったのか。いっそのこと友達以上の関係になれば美雨は私しか見なくなるんじゃ……なんて。いやいや、私は何を考えているんだ。


 夜っていうのは良くない。考える時間がたくさんあるからすぐに思考が暴走気味になってしまう。頭がぐるぐる回って、考え方が極端になってしまっている気がする。

 はぁ。美雨、今頃何しているのかな。流石にこの時間だとすでに寝ているだろうか。


 毎日会ってるはずなのに、また美雨に会いたいと思ってる自分がいる。

 せめて、声だけでも聞けたらな、なんて。

 ずっと起きているせいか少し喉が渇いてしまった。水でも飲みに行こうと部屋の電気をつけると、いっぱいの光が目の中に飛び込んできてダメージを受ける。

 うがーっと言いながらベッドの上で悶えていると、机の上に置いてあるスマホの鳴る音が聞こえてくる。こんな時間に珍しい気がするけど、たぶん適当なアプリの通知か何かだろう。


 どうせ寝れないしと机の前まで移動しスマホの画面を確認してみると。


「なななな、なんで」


 寝ぼけているのかと思い、目を擦ってもう一度画面を見るも、そこに表示されている名前が変わることは無かった。


「みっ、美雨」


 スマホの画面には美雨の名前と共に『おきてる?』と言うメッセージが表示されていた。

 予想もしていなかった出来事に頭が混乱する。

 こんな深夜に、どういう用事で。知りたいことはたくさんあった。でも今はそれよりも、美雨がまだ起きているというのがわかって、ちょっとだけ嬉しかった。

 何はともあれ急いで返信しないと寝てると思われてしまう。

 スマホのロックを解除するのに手間取りながらもメッセージアプリを開いて何とか美雨に返信する。急いで返したせいか、送ったメッセージをよくみると『おきねる』とよくわからない誤字をしていた。起きてるのか寝てるのかどっちなんだ。

 少し時間が経ってから美雨の返信が帰ってくる。


『電話していい?』


 びっくりしすぎてスマホを床に落としてしまった。

 明らかに異常事態だった。普段からメッセージでのやり取りはしても電話なんて滅多にしない。それがこんな深夜となると、当然初めてのことだった。

 美雨が何を考えているのか全くわからない。でも電話をしてくると言うことは大抵何か用事があるわけで……。


 さっきとは比べ物にならないくらい頭がぐるぐる回る。

 私はどうすればいいのか。いや、どうするもこうするも電話はするんだけども。このまま素直に電話していいのかな、なんかこう着替えたりとか。でも別に見られるわけじゃないし……。


 そんな感じで、頭が回ると言ってもだいぶ空回り気味だった。しばらく部屋の中をぐるぐると回りながら、どうしようと考える。そもそも自分でもどうしたいかわからないから結論なんて出るわけないんだけども。

 とりあえず、ここまできたら出たとこ勝負だ。別に何かと争ってるわけじゃないけども。

 床に落ちたスマホを拾い上げ一言『うん』とだけ返す。するとすぐさま美雨から電話がかかってくる。

 平常心、平常心で行こう。

 覚悟を決めて、私は電話に出た。


                  ◆

 

 なつめとドーナツ屋で別れ、一人で帰り道を歩いていた。

 入学時から何度も通ってる見慣れた帰り道、そのはずなのにどこか知らない街を歩いているみたいに落ち着かない。

 理由は明白、私自身が全然落ち着いていないのだ。ドーナツ屋での一件以降、私の心臓はずっとドキドキしたままだった。


 至近距離でなつめの顔を見て、匂いを嗅いで、それからというものどうにも落ち着かない。別に今まで似たようなシチュエーションはたくさんあったはず、なのにどうして今回はこんなにドキドキしているのだろう。

 歩きながら考えてみるも答えが全然思い浮かばない。そうしているうちにいつの間にか家の目の前までたどり着いていた。頭が働いてなくても体が覚えていてくれたらしい。帰巣本能とかいうやつだろうか、なんとも頼もしい。


「ただいまー」


 いつも通り、家にいるであろう家族に帰宅を告げる。そしていつも通り真っ先にリビングへ向かう。するとそこにはいつも通りじゃない光景が目の前にあった。


「にいちゃん、何してんのそんなところで」


 リビングの真ん中にあるダイニングテーブル、そこには突っ伏したまま動かなくなっている兄の姿があった。

 別にそれだけなら特に気にしなかったかもしれない。でも明らかに様子がおかしい。突っ伏しているから寝ているのかと思えば先ほどから小声で何か呟いてるし、その兄の横にはコンビニで安く売ってそうなストロングの酒がたくさん置いてある。


「あぁ、美雨か。俺のことは気にしないでくれ。へへっ、もういいんだ……」


 なんだろう、事情は知らないけどとてつもなく面倒な予感がする。というか本人からめんどくさそうなオーラが滲み出ている。


「彼女に振られたんだってー」


 奥のキッチンで料理中のお母さんが関心の無さそうな声で話しかけてくる。まぁ、そんなところだろうと思ったけど。


「ははっ、どこで間違ったんだろうな、俺は」


 話しかけてくれオーラを全開にしている兄を無視するほど、妹の私は非情になれないらしい。あまり興味は無いけど、一応理由を聞いてみることにした。


「はぁ、別れた理由は?」

「すれ違いで疲れたって」


 別れたばかりのカップルを百人集めたら八十人が同じ理由を答えそうだった。


「それはそれは御愁傷様で」


 これ以上話しても疲れそうなので自室に戻ろうとしたところで兄が一言かけてくる。


「お前も気をつけろよ、言葉で言わなきゃ伝わらないこともあるから」


 気をつけるも何も、私に恋人は居ないんだけど。

 無視して冷蔵庫からジュースを取り出している時も、兄はぶつぶつとあの時きちんと伝えればーとか言いながら酒をあおっていた。あの人お酒弱いはずなんだけどなぁ。


                 ☆


「美雨」


 はっきりとしない意識の中で、何故かなつめの呼ぶ声が聞こえてくる。

 気が付くと目の前に顔を赤らめたなつめが立っていた。


「ん、どうしたのなつめ」

「いや、その、美雨にお願いがあって」


 そういうと徐々に顔を近づけてくる。あまりにも突然のことで、驚いて後ろに転んでしまう。


「な、なつめ? どうしたの」


 問いかけるも何も返してくれないなつめ。呼吸を感じる距離まで近づいてきて、透き通った青色の瞳や長いまつ毛で視界がいっぱいになり頭がクラクラする。まさかなつめの方から求めてくるなんて。女の子同士でそういうことするのってどうなんだろう。でもなつめとならナシじゃないかも……。


 目の前でなつめが目をつむる。徐々に近づいてくる顔をまじまじと見つめながら唇が触れ合う瞬間を待っている私がいる。距離が近くなるほどドーナツのような甘い香りまでしてきて……ってドーナツ?


 違和感に気がついてから意識が覚醒するまで一瞬だった。目の前の景色は電気を消したかのように真っ暗になり、気がついたら目の前にはいつもの天井が見える。

 ぼーっとする意識の中でとりあえずスマホを探す。眩しく光る画面を目を細めてなんとか覗き込むと、そこには二時半と表示されていた。

 元あった位置にスマホを放り投げ天を仰ぐ。


 ですよねーーーー!


 うー、いやね、別に欲求不満とかそういうわけじゃないと思うんですよ。えぇ。

 でも見てしまったものはどうしようもできない。それに、よりにもよって相手がなつめだった。


 別に、なつめが嫌とかじゃない。そりゃ大切な友達だし、なんとも思ってないかと言われると嘘になるけど。でもあくまでもなつめは友達なのだ。恋人としてのなつめなんて考えたこともない。それなのに、告白とかの過程を全部飛ばしてキスからなんて……。

 思い出すだけで顔が赤くなっていくのがわかる。もう秋なのに体が暑くて仕方ない。


 とりあえず部屋の換気をしようと電気をつけて窓を開ける。すると外から少しひんやりとした空気が一気に部屋の中に入り込んできてとても気持ちが良かった。

 窓の外にある大きな月を見上げながら、少しばかり考え事をする。

 私はなつめのことをどう思ってるんだろう。頭に思ったことはあってもしっかりと考えたことがなかった気がする。


 私にとってなつめは、特別な人だ。それは間違いない。


 一緒にいるだけで特別になれたような気がするし。それに楽しいし安心する。友達としては間違いなく好きだった。

 でもだからと言って恋愛的な意味でも好きかと言われると、正直わからなくてモヤモヤする。


 なつめからあの質問をされてから、明らかに調子がおかしくなっていた。

 でもなつめはなんであんな質問したんだろう。普通に生きてて大切なものを急に聞いてくることってあるのか?

 一度考えてしまうと気になって仕方ない。

 うーん、なつめ自身に何か変わったことがあったとか? それなら急に変な質問するのも一応納得できる。

 最近何か変わった様子でもあったかなと思い出してみる。五分程度考えてみるが正直何も思い浮かばない。強いていうなら、いつもより元気がなかったような気がする。


 いや、待てよ。冷静に考えたらあの質問って恋バナだったのでは?

 確かに恋人がいたら一番大切なものは彼氏って答えてもおかしくない、いや答えるだろう。もしかしたらなつめは今恋をしてて、そのことについて相談しようとしたというのはどうだろうか。それにしては質問の内容が遠回しすぎる気もするけど、でも現状それぐらいしか答えが思いつかない。


「なつめの好きな人」


 そう呟いた瞬間、心が締め付けられるような感覚がする。

 その反応に自分でもびっくりしたような、最初からわかってたような。

 とりあえず今わかるのは、私がそのまだ見ぬ男に対して嫉妬してるってことだった。

 今どき友達に嫉妬なんて重いかな。でも感じてしまったのだから仕方ない。


 心の狭い自分に失望し、ため息をつきながら夜の街を見つめていると一台の車が家の前に止まるのが見える。

 するとすぐに玄関のドアが開く音がし、家の中から出てきた兄が車に乗り込んでいくのが見えた。

 きっとあの車は兄の大学の友人のものだろう。なんとなく見たことある気がするし。それにしてもこんな夜遅くからお出かけとは、大学生は暇なのだろうか。

 どうせ、振られた兄を慰めるために夜遊びしに行くとかそんなところだろう。私が寝る前になってもリビングで泣いてたし。


 そこでふと、帰った時に兄が言っていたことを思い出す。

 言葉で言わないと伝わらないこともある、か。

 確かに一理あるとは思う。今までなつめとそういう話も聞いたことなければ私の話もしたことない。

 ならいっそのこと、こっちから聞いてみようかな。なつめの好きな人の話。

 目が覚めてしまってもう寝れないだろうし、よしそうしよう。決してなつめに好きな人がいるのかどうか気になって寝れないわけじゃないからね?


 早速スマホを手に取り、連絡しようとしたところで少しだけ我に返る。そういえば今何時だ。

 時間を確認するとすでに三時半を回っており、普通の人なら間違いなく寝てるであろう時間帯だった。

 私の中の常識がこんな時間に連絡するのは失礼じゃないかと話しかけてきたが、好奇心には勝てなかったため退場してもらうことにした。というか私は約一時間も悩み続けていたのか、体感で言うと五分くらいしか経ってないように感じてしまう自分が怖い。

 ともあれ、流石にこの時間にいきなり電話するのはまずい気がする。少しは常識くんの意見も尊重し、とりあえず『おきてる?』とメッセージを送ることにした。ひとまずはこれでいいだろう。

 少しだけ緊張しながらも送信ボタンを押した。すると三十秒もしないうちに通知が鳴ってびっくりする。

 見ると、なつめから『おきねる』という起きているのか寝ているのかよくわからない返事が返ってくる。返事が返ってきている時点で起きていることはわかるんだけどね。


 それにしても、まさかなつめが起きているとは思わなかった。どうせ返事が返ってこなくてモヤモヤしたままベッドで朝を迎えるんだろうなとか思っていた。むしろどうやってなつめの好きな人を聞こうか何も考えていなかったため、今になって焦り始める。

 次のメッセージを送る前に急いで考えなければ、そう思ってカバンから紙とペンを取り出す。


 まずは本題のなつめの好きな人について。あとは……。

 深夜にこんな話題を急に振るのもおかしい気がして、何か他の質問を考えるも好きな人が気になりすぎて他のが出てこない。

 何か考えなければと頭を悩ませるも時間だけが残酷に過ぎていく。気がついたら紙の端っこになつめの似顔絵を描いてるし。……まぁ全然似てないけどね。


 悠長にお絵描きなんてしている場合じゃない、これ以上待たせたらなつめが痺れを切らして寝てしまうかもしれない。

 ええい、ここまできたら出たとこ勝負だ。


 なつめに『電話していい?』とメッセージを送るとすぐさま既読がつく。私の返事を待っていてくれていたと思って少し嬉しくなるも、そりゃあんなメッセージ送れば気になるよなと冷静になる。

 なつめから『うん』と返事が来たのを確認して全身に緊張が走る。通話開始ボタンを目の前にして手汗が止まらなくなっていた。


「がんばれ、私。ファイト、私」


 どうかちょっとでもモヤモヤが晴れますようにと、覚悟を決めて通話開始ボタンを押した。


                  ◆


「もしもし?」

「あー、もしもしなつめ? 急にごめんね」

「大丈夫、たまたま起きてたから」

「そっか、それはラッキー? やったー、なんてね、はは……」


 初手からどこかぎこちなさを感じる美雨の声が聞こえる。

 時計は既に四時前を指していて、健全な女子高生が通話するにはかなりおかしい時間帯だった。


「ラッキー、かもね」

「そっ、そうだよねー。なつめもやっぱそう思うよね!」

「うん、そうだねー」


 なんだろうこの中身のない会話は、と言うか美雨はなんの用事があって電話をかけてきたんだろう。私は私で美雨のことを考えていたせいで少し緊張しているし、普段ならたくさん話題を振ってくれる美雨も、今回ばかりは黙り込んでいる。


 正直言って、とてつもなく気まずかった。

 会話に関して、いつも美雨に任せっきりにしていた弊害が出ている。何かないだろうかと必死に考え頭から捻り出す。


「えっと、元気、だった?」


 出す話題を完全に間違えたような気がする。というか昨日会ったばかりだし。


「げ、元気だよ。ほら、こんな感じ」


こんな感じと言われても通話だからよくわからないけど。

 そして再び沈黙が訪れる。

 今まで私って美雨とどうやって話していたのだろう。改めて考えると全く思い出せない。

 次の話題をどうしたものかと考えていると、美雨の方から話題を投げかけてくる。


「なつめって今好きな人とかいる?」

「いや、え、え?! いっ、いないけど!」


 突然喋ったと思えば質問が意味不明だった。友達すら居ない私にそんなものいるわけがない。それに今は美雨のことを考えるので手一杯なのだから。

 勢いで返答してしまってから、美雨の反応は特に何も無い。かといって私から何か言おうにも依然として何も思いつかないため大人しく美雨が話し始めるのを待つことにする。

 それから少し経ったあと、美雨が恐る恐るといった様子で喋り始める。


「はぁ、あー、よし! 実は私、ちょっとだけ考えてたことがあって」

「考えてたこと?」


 今まで元気のなさそうだった美雨が急に元気を取り戻す。二人で会話しているはずなのに何故か置いていかれてるような気分になる。


「そう、私の大切なものについて」


 急にそんなことを言うからドキッとする。そして美雨の言っていたことを思い出す。


「それは……大切なものが私って話?」


 自分で言っていてとても恥ずかしい。しかもそれに対して美雨は迷いなく「うん」と答える。ドーナツ屋の件から私は何回ドキドキしなければならないのだろうか。

 あの時のことを思い出して、美雨はすごいなと思う。だって私が欲しかった言葉をかけてくれるんだから。

 そんなんじゃ、いくらなんでも勘違いしそうになってしまう。

 そんな私など気にしないかのように美雨は話し続ける。


「あれからさ、ちょっとだけ考えてみたんだよ。私にとって美雨ってなんなんだろーって」

「……それで?」


 美雨の言葉が怖い、私はこれからなんて言われるのだろう。なつめとはいい友達だよとか? そう言われるのが嫌ってわけじゃ無いけど、嬉しくもない。逆に、また私が欲しい言葉をくれないかななんて、そんな期待も少しばかりあった。

 電話口で美雨の言葉を待つ私に緊張が走る、実際には数秒しか経ってないのに、体感では何十分も待たされているかのような感覚だった。

 そんな状態の中、美雨の言葉にしっかりと耳を傾ける。


「なんというか、うまく言葉にできないんだけど。私はなつめのこと特別だと思ってる。だから一緒にいて私も特別になれるし、今まではそれだけで嬉しかった。でもなんか、それだけじゃ満足できないって思う自分もいて、なつめにとっての特別になりたいなぁなんて、思ってる。あー、なんかごめんね、正直重たいよね。友達にこんなこと言うの」

「そんなことない!」


 反射的に大きな声が出てしまう。こんな夜中に近所迷惑かな、でも今はそんなことどうでもよかった。


「私も、私もね、美雨の特別になりたいって思ってる。ずっと一緒にいてほしいし。なんなら他の人に美雨を取られたくない。だから私の方が重たい、気がする」


 勢いで全部言ってしまった。まるで自分が自分でないかのように言葉が体の奥から出てくる。でもそのおかげで心の中にあったモヤモヤは少しだけ無くなったような気がする。全部話してしまったことに対して後悔していないといえば嘘になるけど。

 美雨の反応を聞きたくない。なんて言われてしまうのかわからなくて怖い。


「なつめ」


 美雨から名前を呼ばれる。


「私気づいちゃった。私もなつめも同じだったんだね」


 どことなく優しい声で語りかけてくる美雨。


「同じって?」

「私もなつめもお互いが特別で、お互いが特別な人になりたいってこと。つまり大切な人ってこと」

「……うん、そうかも」


 今まで曇っていた心が嘘のように晴れやかで、なんだかとても軽かった。知り合って初めて美雨の気持ちを知ることができたような気がする。

 そのあとはしばらくお互い無言だった。冷静になったら恥ずかしくなってきて、結局何を言えばいいかわからなくなって最初の状態に後戻りする。けれど、そんな無言の空気が不思議と心地よかった。

 温かい空気から先に一歩抜け出したのは、またしても美雨だった。


「スッキリしたから、電話切るね。じゃあ、おやすみ」

「ちょ、ちょっと待って!」


 電話を切ろうとした美雨を引き止める。最後くらいは、私も少し積極的になりたい。


「また、学校で。放課後よろしくね」


 美雨からの「うん!」と言う元気な挨拶を最後に電話を切った。

 結局何でこんな深夜に電話をかけてきたのかはわからなかったけど、今はそんなことどうでもいいくらい心が弾んでいた。

 自分の嫌なところが肯定されたような気分で、美雨のおかげで自分のことが少しだけ好きになれた。

 でもそれと同時に、いつも美雨にもらってばかりだなと感じる。なら今度は、せめて私から何かお返ししたい。

 明日の放課後、もう少しだけ頑張ってみよう。



 その日の授業中は眠気との戦いだった。前日の夜更かしがたたって、先生の言葉も右耳から左耳へ通り抜けるだけで、全く頭の中に入ってこない。

 一緒に夜更かししていた美雨はというと、思いっきり船を漕いでいた。頭がカクンと大きく揺れており、教卓の目の前の席ということもあって悪目立ちしていた。

 当然先生に何度も注意されており、むしろそのおかげで私はあまり注目されなかった。


 そして放課後、教室で美雨と合流し美術室へと向かった。道中何か話すわけでもなく、ただ無言でお互い横に並んで歩いていた。

 今までだったらこの時間も不安の種でしかなかったけど、その種は昨日美雨が取り払ってくれたから、今はそんなに嫌じゃない。それでもあんまり得意じゃないのは変わらないけど。


 その後すぐに美術室に到着しデッサンの準備を始める。前回と同じ位置に美雨を座らせ、私も筆箱から鉛筆を取り出す。そしてキャンバスに向かい、描き始める。

 正直に言ってしまうと、前回の時点でほぼほぼ絵は描き終わっていた。今日やることといえば仕上げくらいしかない。

 だからこそ、美雨との会話に集中できる。


「昨日……というか今朝のことなんだけどさ」


 前回と同じように、ぼーっと外を見つめていた美雨がぴくりと少しだけ反応する。特に返事が無いものの、そのまま話し続ける。


「私と美雨が同じ気持ちだってことが知れて嬉しかった」

「私も、なつめと同じだなんて思ってもみなかった」


 目線を窓の外に向けながら話す美雨。目の前にあるキャンバスの中にいる美雨と見比べると何故か別人のように感じてしまう。


「昨日は美雨が正直に話してくれたから、今日は私の番かな」


 そこでふと良いアイディアを思いつき、筆箱から消しゴムを取り出す。


「実はこのデッサンの題材、大切なものなんだ」


 そう言うと、美雨は足をもじもじさせ恥ずかしそうにする。


「な、なるほど。そういうことですか」

「そう、そういうこと」


 いつの間にか耳まで真っ赤になり口元を腕で隠している美雨。こんなに恥ずかしがってる美雨を見るのは初めてかも知れない。


「自分の大切なものについて考えたとき、一番初めに浮かんだのが美雨の顔だった。美雨は友達がいなかった私に話しかけてくれたし、こうやって今も仲良くしてくれてる。見た目のせいで浮いていた私を美雨が普通の女子高生にしてくれたんだよ」


 話しながら鉛筆を持つ手を動かす。心なしかデッサンを描く手がとても軽い気がした。


「昨日美雨は私といると特別になれるって言ったけど。私にとっては逆なの、美雨といれば普通になれる。私の求めていた普通の生活が手に入った。でも最近はそれだけじゃ満足できなくなっている自分もいた。美雨のことを誰にも取られたくなくて、私のことだけを考えてほしくて。よく考えれば何様だよって感じだよね、だから自分のことがさらに嫌いになってた。でも昨日美雨が同じこと考えてるって知った時は本当に嬉しくて、こんな自分でもいいのかなって思っちゃった」


 先ほどから美雨は相槌を打つばかりだった。私がずっと話してるせいもあるだろうけど、しっかりと私の話を受け止めてくれているようで嬉しい。


「前にドーナツの話をしたのって覚えてる?」

「覚えてる、私が聞いたやつだ」

「そう、ドーナツとマグカップのやつ。私ね、正直ドーナツはそんなに好きじゃない、でもドーナツと一緒に飲むコーヒーは大好き。ドーナツの甘さが際立つし、コーヒーの苦さがよりわかるようになる。それが好きな味のドーナツで、お気に入りのマグカップに入ったコーヒーだったらとっても嬉しいなって思う」

「それは……確かにそうかも。頭の良さそうな人が考えたやつよりも全然わかりやすいや」


 美雨が初めてこちらを向く。そしてニコッといつもの笑顔を見せてくれる。


「だからさ、私の大切なものは美雨って言ったけど前言撤回」


 自分でも気づかないうちに描き終わっていたキャンバスを美雨の方に向ける。


「私の一番大切なものは、美雨と一緒にいる時間だよ」


 照れくさいのを誤魔化すようにへへっと笑ってみせる。その絵を見た美雨はというと、私と同じく照れくさそうに笑っていた。


                   ◆


 先生いわく、「いい表情が描けている」だそうだ。

 それ以外は特に触れられず、そのままその日の部活は解散となった。


「なーんだ、結局それだけなんだ」

「そんなもんだと思うよ? 別に絵が上手ってわけじゃないし」

 学校からの帰り道、今日もいつものように美雨と二人で帰っていた。

「ふーん、私はいいと思ったんだけどな」

「美雨がそう言ってくれるだけで私は嬉しいよ」

「そう? ふふっ、ありがと」


 美術室での一件以来、私たちの距離は少しだけ近くなったと思う。お互い心の余裕が生まれたというか、目に見えない繋がりみたいなものを感じる。


「私も絵、描いてみようかな」


 美雨が突拍子もなくそんなことを言い始める。


「絵なんて描けるの?」

「それは……いっぱい練習する!」


 その繋がりのおかげか、お互い以前よりも積極的になれたような気がする。例えば。


「そういえば、さ、なつめさん」


 美雨が改まってこちらを向いてくる。


「学校も離れたことですし、ね?」


 もじもじとしている美雨を見て何がしたいのかおおよそ察する。でも素直に応えるのは正直つまらない。こういう時の美雨はからかい甲斐があるのだ。


「んー、なんのことかなー。言葉で言ってくれないとわかんないなー」

「絶対わかってるじゃん! またそうやって意地悪ばっかする!」

「早く早く、何がしたいの?」


 こちらを睨みつけながら耳まで真っ赤にしている美雨。この表情を見るのが最近のマイブームになっていた。


「もう。だっ、だから、その、て、つなぎませんか?」

「もう、しょうがないなぁ」


 そう言いながら私の方からぎゅっと美雨の柔らかな手を握る。こうやって手を繋ぐと美雨の温もりが伝わってきて、心が充電されているような感覚がする。

 こんな風に、心だけじゃなくて物理的に繋がることも増えた。

 これから私たちはどうなっていくんだろう。そんなことを考えるときがある。これから受験があったり就職があったり、それぞれ決めなければいけない道がたくさんある。その道中で私たちが離れてしまうことはあるのだろうか。なんて考えてしまう。


「ねぇなつめ」

「うん?」


 でもそんなことは今考えることじゃない。未来のつまらないことを考えて今この瞬間まで退屈にしてしまうのは勿体無い。それに、離れてしまわないように二人で話し合えばいい。たとえ離れてしまっても、お互いが納得できればそれはそれでいいんだろうなと思う。

 手を繋いで二人で歩いている時、急に美雨がこんなことを言い始める。


「高校卒業したらさ、一緒に住まない?」


 やっぱり訂正、離ればなれは耐えられそうにないや。


「いいね、私も同じこと考えてた」


 いつまでも一緒にいられたら、とても素敵だと思う。


                  ◆


 私は普段からとても寝つきが良い方である。でもその代わり、寝起きは絶望的に悪かった。とにかく朝起きれない、そのせいでいつも会社に遅刻ギリギリで向かうことになってしまう。

 ジリリリ、ジリリリと遅刻対策用でわざわざ買ったアナログの目覚まし時計が部屋で鳴り響いている。その音に気がついているものの、なかなか体を起き上がらせることができなかった。


「あぁ、うぅ、辛い……」


 なんとかベッドから腕を伸ばし目覚まし時計をオフにする。こんなことをほぼ毎日やらないといけないなんて、社会人は辛すぎる。

 このままベッドでダラダラしていると二度寝してしまいそうなので、とりあえず上体だけ起こす。ぼーっとする意識の中、枕元にあったスマホを取って時間を確認すると画面にはいつも通り六時半と表示されており、寝坊せず起きれたことを証明していた。

 ゆっくりと伸びをし、ベッドから降りる。まだ頭に血液が回っておらず、少しフラフラとしてしまう。

 ゾンビみたいに歩きながらリビングに向かっていると、途中でコーヒーのいい匂いがすることに気がつく。きっとまた作ってくれたのだろう。何だかんだ言いながらも作ってくれるからとても有難い。

 リビングの扉を開けると、窓際でキャンバスに向かっている美雨がいた。


「おはよ、今日も寝癖だらけだね」


 楽しそうに微笑みながら美雨が声をかけてくる。


「あー、おはよ。そういう美雨はいつもと違って出かける準備万端って感じだけどどうしたの」


 うろうろしながらコーヒーを探していると、美雨が「テーブルに置いてあるよ」とダイニングテーブルの方を指差す。ありがたや、ありがたや。


「言ってなかったっけ、今日は兄の結婚式があるから」

「あれ、結婚式って明日じゃなかったっけ」

「明日は日曜日だよ、通りで朝早いと思ったら平日と勘違いしてやんの」


 そこまで聞いてスマホを再度確認する。すると確かにそこには土曜日と表示されていた。そうとわかった瞬間、身体中から力が抜ける。テーブルにぐでっと座りながら美雨が入れてくれたコーヒーを一口飲む。うん、いつも通り美味しい。


「あーまじか。起きて損した」

「まぁまぁ、せっかくだし一緒に結婚式でも行く?」

「んー、いい、遠慮しとく」

「そっか」


 私の返答に対して、特にリアクションもせず作業に戻る美雨。余談だが、美雨はそこそこ有名なアーティストらしい。この前なんて個展を開くと聞いて正直びっくりした。対して私は普通の会社の普通の事務員、完全週休二日で普通の社会人をしている。


「お兄さん、四つ上だっけ。お相手の人も?」

「うん、昔付き合ってて、大学の時に一回別れたんだけど復縁したんだってー。いわゆる元サヤってやつ?」


 美雨はさほど興味なさそうな様子で兄のことを答える。ちょっとそっけない気もするが兄妹というのはそういうものなのだろうか。一人っ子だからよくわからない。


「何はともあれ、結婚してるならいいんじゃない?」

「まぁそうだねー」


 絵を描きながら会話しているせいか、どこか返事に中身が無かった。今に始まったことじゃないから特に気にしてないけど。でもこういう時は意識してちょっかいを出そうと決めている。


「えい」


 椅子から立ち上がり、美雨のほっぺを後ろから両手で挟む。挟まれた美雨はタコのような顔になっていた。


「うー、ええい何をする」


 ぶるぶると顔を振り私の両手を振り払う。なんか犬みたいで可愛いかも。


「毎度恒例のかまちょたーいむ」

「なんだそれ」

「いいからいいから、何描いてるの?」


 キャンバスを覗いてみると、そこには鐘のついた大きな建物とその前で微笑む二人の夫婦の姿があった。ただ何を描いているか判別はできるものの、中身は抽象画に近いものとなっていた。


「結婚式?」

「そうそう、お兄ちゃんにあげようと思ってね。いつもよりもわかりやすく描いてる」

「なるほど、どうりで」


 美雨の描く絵は抽象画よりの写実画といえばいいのか、簡単にいうと写真を極限までぼかしたような絵だった。


「それにしても、高校までろくに絵なんて描いてなかったのに。まさか二年で美大に合格するほどになるなんて」

「私の才能が溢れ出てしまったのかな、ガハハ」


 いつものように調子に乗る美雨。もちろん才能もあったんだろうけど、毎日のようにデッサンを繰り返して熱心に絵に打ち込む美雨の姿を私は知っていた。でも何がそこまで美雨を動かしたのかは正直今でもわからない。

 美雨の座っている椅子を半分奪い、一緒に座る。美雨は狭いなぁなんて言うけど無視してやった。


「それにしても結婚かぁ、どんな気持ちなんだろう」


 正直今は美雨と一緒にいるだけで満たされてるし、どうしても結婚したいという気持ちは無い。でも結婚したらしたで何か心構えみたいなものが変わるのだろうか。


「……じゃあさ、私たちも結婚してみる?」


 頬をかきながら美雨がそんなことを言う。


「まだ付き合ってすらないのに?」

「いやまぁ、それはそうだけどさ」


 実は私も美雨も、まだお互いに告白していない。だから形式上はただの友達同士であり、カップルでは無かった。やってることはほとんどカップル同然なんだけどね。実際同棲しちゃってるし。


「それなら、告白とプロポーズ同時にやろう」


 確かに、改めて気持ちを伝えるもの悪くないだろう。ただし。


「告白はいいよ、でもプロポーズはダメ」


 そう言うと美雨は「なんで?」と言いながら頭にはてなマークを浮かべていた。


「プロポーズは私からしたいから」


 いい加減、私からも行動するべきだろう。だからプロポーズぐらいは譲って欲しい。


「ふふっ、なんだかめんどくさいね」

「あなたが選んだ人でしょ」

「そうだった」


 私が立ち上がって一歩後ろに引くと、美雨もそれに合わせて椅子から立ち上がる。そしてお互い正面を向き合って顔をあわせる。


「それじゃあ、改めて、私の特別になってください!」


 あの時を思い出させるような、いかにも美雨らしい告白だと思う。

 あの日から私たちの関係は少しずつ変わっていった。お互いに同じところもあれば違うところもあって、それぞれを理解するのにたくさん時間がかかった。

 でもゆっくりとお互い歩み寄ったからこそ今があるのだろう。

 甘ったるいドーナツとマグカップに入った苦いコーヒーは、一緒にいるからこそお互いを引き立て合うのだ。


「よろこんで、これからもよろしくね」


 できれば、永遠に。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

トポロジー 三下のこ @sansita_noko

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ