「灰被りのセリオ」
僕の人生の中にはあまり多くの出来事が詰まっていない。
覚えてる道は灰塗れで往復する小屋までの道ぐらいなものだし、覚えてる記憶だって教えられた技術だけだ。
当然、どれも僕だけのものじゃない。いや、そういえば……僕にはずっと忘れられない僕だけの記憶があった。
それは僕の生まれた場所、そして母の姿だ。母は僕に似て綺麗な銀髪をした、優しい人だった。
いつも優しい微笑みをたたえながら、僕に「迷ったら正しいと思う事だけをしなさい」と教えてくれた。
そう、その記憶があるから僕は今日も生きていられる。たとえ、その思い出をくれた人が僕を捨てたのだとしても……。
***
「うわぁぁ……!!」
洞窟の様に狭い煙突の中でうつらうつらとしていた僕の耳につんざく様な高い声が届いた。
声の主は今日僕とペアを組んでいるロディだ。まだ8もいかない歳だから声は心なしか高かった。
「どうした?」
僕はびくりとしながら見上げて答えた。そして器用に足を運んで彼の足元まで登った。
そこには涙目になって足首を抑えるロディの姿があった。どうやら煙突の先が細くって引っ掛かってしまったらしい。
あれでは前にも後ろにもいけないだろう。
「あらら……」
思わず顔を曇らせた僕は、すぐさまロディに駆け寄って傷を見た。足首は赤黒く変色しており見るからに痛そうだった。
しかし幸いなことに骨が折れてはいなかったようで、僕はほっと胸を撫で下ろした。
「ちょっと待って。出口の方から棒で押すから」
「お願い、そうして」
僕はロープに身体をくくりつけると、煙突の中づたいに暖炉の上へ出た。そしてそのまま外にある煙突の排出口に向かう。
「あれ、どうしたんだ。セリオ、仕事は終わったのか?」
屋根の上にはいつも僕とペアを組んでいるジュードが排出口の側にいるのが見えた。今日、彼は風邪を理由に救出役をやっているのだ。
「いや、中でロディが詰まったんだ。悪いけど棒で外から押し込んでくれない?」
「オッケー。じゃあ、君はロディの下で張ってキャッチしろよ」
「わかった」
僕はもう一度暖炉口の前まで来ると、大きく深呼吸した。そして身をよじらせながらロディの真下へとよじ登る。
そこからはいつも通りだ。足をしっかりと固定し、ロープをしっかり握る。ただ暗闇の中の作業はやはり恐怖が勝る。
「行くぞー!」
その掛け声と同時に屋根から突き出した煙突の先端に黒い棒が見えた。
同時にジュードのほっそりとした腕が屋根から姿を現し、次の瞬間にはロディの肩をぐしぐしと押していった。
「痛っ!痛っ!」
「我慢しな、そこで窒息するより百倍マシだろ。セリオ!」
ジュードが合図を出す。その声で我に返った僕はすかさず手を出した。時待たずして差し出した手に体重が乗る。
「うわっ!!」
体力には少し自信がある方ではあるが、流石に人間一人は持ち上げられない。
後、1秒でもこのままでいろと言われたら僕はロディと一緒に地面へと真っ逆様に落ちていくに違いないだろう。
「うわぁぁあ!?」
「ロディ、落ち着いて!ロープ、ロープ!!」
慌てた僕とジュードはロディに叫んだ。ロディは慌てて両手で掴んだロープを僕と同じように引っ張った。
しばらくして安定しきったらしく、細い煙突の先から親指を立てたジュードの手が見えた。
「ふぅ……」
間一髪だった。「ごめん、セリオ……足を引っ張ってしまって」
「大丈夫だよ。僕もジュードもいっぱいミスしてきたんだから」
ロディを連れて僕は外に出ると、煤だらけになった顔のままで直ぐ裏手に出た。
あまり長居してしまうと家主に「そんな汚い身体で我が屋敷を歩くのか」と怒られるからだ。
『──このロンドンの発展を支えるのは誰かが作った機械とそれを支える僕ら煙突掃除人。
だけど機械と違って、僕らは感謝もされず、それどころか惨めな思いをするばかりなのだ。誰も助けてなどくれない。』
***
それからも3軒ほど回って、疲れきっていた僕を待ち受けていたのは一切れのパンと水だった。
僕はパンを半分に千切ると、それを水に浸しふやかしてから口へ放り込んだ。この生活が辛いかと聞かれたら、僕は間違いなくイエスと答えるだろう。
だけど僕にはどうすることも出来ないし、ジュードは文句を言わない。だから僕も文句は言わない。だけど、嫌になる時もある。
例えば──「ロディ!!貴様、貴様がグズグズしているとこの私の信用に関わるのだぞ!!よりによって貴族様の家で粗相をするなど!!」
屋敷の中。主人の罵声が屋敷内に響き渡る。叱られているロディは今にも泣きそうな目でこちらを見てくる。
僕はこの小屋に来てから一度だってこの光景に慣れた事はないが、隣のジュードは澄ました顔で目を伏せていた。
ジュードは大人なんだと思う。僕と歳は変わらないのに、いつも余裕があって落ち着ていて……。
(だけど、僕はジュードと違って子供なんだ)
僕は立ち上がると拳を振り上げる主人とロディとの間に立ち塞がる。
「あ、馬鹿!」
ジュードや他の子供達がギョッとした目で此方を見る。でも、構うものか。僕は後輩を庇いたいから庇うのだ。
僕は精一杯の勇気を振り絞り、主人を睨み付ける。そして声を振り絞った。
「ロディはまだ煙突掃除人になって半年も経ってません!!だから、僕らが助けていかないといけないんです!」
さらに僕はロディを庇い続ける。主人を真っ直ぐに見据えて……。
***
「君って、ホント馬鹿だよな」
暗い夜空の下、ジュードが僕に語りかける。僕はむすっとした顔ですっかり腫れた頬を抑えた。
あれから主人には散々な目に遭わされた。確かに刃向かったのは悪いと思うが、あんなに殴らなくても……と思うくらいに酷い扱いだった。
僕はうーっと唸りながら涙を堪える。夜のロンドンを街灯が照らし出し、眩しい光がゆらゆらと揺れているのが見えた。
まるで泣いている様なその光を、僕らはただ黙って見ていた。すると突然ジュードが僕の頭をくしゃっと撫でた。
そして優しく微笑むと何かを取り出した。
「ほれ。チェスだぜ、チェス。前やりたいって言ってただろ?」
以前、主人の部屋を隙間見た時。机に乗せてあったチェスボードを見たときに確かに僕はそう言ったがまさか覚えているとは思わなかった。
僕はその言葉にパァっと顔を輝かせると、その場に立ち上がった。そして彼が差し出したそれを受け取ろうと手を伸ばす。
「どうやって手に入れたの?」
僕がそう聞くとジュードは恥ずかしそうに頭を掻く。これをする時、決まってジュードは嘘をついているのだ。
「近所の雑貨屋の煙突掃除した時、あったろ?あの時の主人にお礼って事で貸してもらったんだ。だから明日の朝までに返さないと」
きっと、その雑貨屋を掃除した時に店先に並んだチェスボードを見て僕の為に盗んでしまったのだろう。
僕らには給料なんて出ていないし、ましてや誰かに感謝される事もない。盗まずに自分のものなんて持てないのだ。
「そっか。じゃあ急いでやらないとね」
「そうだな。そうしてくれると助かる」
今はきっと深夜なのだろう。僕は時間なんて教えられたことがないから確かな事は分からない。
ジュードもきっとそうだと思う。だから僕らにはこの夜が、まるで永遠に続くかの様に長く感じられた。
裕福な子供は太陽に照らされる部屋でチェスをするのだろうが、僕らは月明かりの下で草原に潜んでチェスをする。
でも、どっちだって友達とやるのならきっと同じぐらい幸福な筈だ。
***
世間一般では僕等は子供とかって特別な存在じゃなくて大人として扱われている。
だから、基準も高けりゃ罰も厳しいのだが、ただ唯一別の基準が設けられている物がある。それは給料だ。僕等の給料はすこぶる低い。
「おい、お前達。今週の給料の時間だ」
その日の仕事を終えた僕達に主人が低い声でそう告げた。
僕等は思わずゴクリと唾を飲み込んだ。その額次第では、僕の欲しいものが買えないかもしれないからだ。
「まず……セリオ。お前から」
主人のその言葉に僕の心臓はバクバクと高鳴るのを感じた。一体幾ら貰えるのか、不安な気持ちで主人の前に出た。
「お前の給料だ」
そう言って主人は小さな紙切れを手渡す。そこには『1シリング』と書かれているだけだった。
(え……?)
「どうした?給料だぞ、早く受け取れ」
「は、はい。ありがとうございます……」
僕はそのまま部屋に戻った。そして思わず涙が溢れてきた。
自己責任ではあるが、僕は正しいと思う事をしたはずだ。その対価がこれでは誰もこんなリスクを犯さない。
『迷ったら正しいと思うことだけをしなさい。』
母の言葉が頭をよぎる。だが、僕にとって誠実さは本当に価値があるのだろうか。
ふと、居間の方に目をやる。そこには沈んだ表情で少年達が給料を受け取っているのが見えた。
僕と違って本物の『1シリング』だ。僕に庇われていたロディまで貰っている。
僕はその現実から目をそらすと、そのまま麻袋に潜り込んだ。そして声を殺して泣いた。
今度は居間の方から下卑た主人の嘲り声が聞こえてきた。
(どうして……こんな世界に生まれてしまったんだろう)
***
「セリオ、今日は綺麗な格好してるのね?」
午後、主人の出張を理由に街へ繰り出していた僕を迎える様に、一人の女性が話しかけてきた。
僕は照れながら「うん」とだけ答えると彼女の間を抜けていった。彼女の名は、アニー。この街で唯一の本屋で働く女性だ。
彼女はこのロンドンでも一二を争う美人さんであり、その美貌に魅了される者は少なくない。
しかし、不思議なことに彼女は僕に構ってくれる。それどころか弟だからと偽って書店に入れてくれた事もあるのだ。
もしかしたら淡い恋心めいたものがあったのかもしれない。とにかく、僕はアニーが好きだった。
「そう。今日は本見てかなくていいの?」
「僕が入っても迷惑でしょ。服は川で洗ったけど匂いは取れなかった」
僕は苦笑いを浮かべながら自分の着ている服を弄った。本当言うと、傷心中な所を見られたくなかっただけなのだが。
僕の心情を読みとったのかアニーは小さく笑う。彼女は綺麗だからそんな風に笑うと妙な色っぽさがあった。
そしてクスクスと笑いながらカウンターの向こうへと歩いていくと、そこにあった本を幾つか抱えて持ってきたのだ。
それは恋愛を扱った小説らしく、どれも可愛らしい少女と美男子が描かれていて、タイトルの周りには美しい蔦の装飾があった。
「宮廷の貴族達はね?今、自由恋愛に夢中なの。親の言いつけで付き合った相手じゃなくて強くて、カッコいい。そういう王子様を求めてるの」
そう言って僕にウインクすると、彼女は小悪魔っぽく微笑む。そして頭を撫で付けた。柔らかな手だった。
「セリオは可愛い顔をしてるから、逞しくなったら宮殿の女の子は皆んな夢中になるでしょうね」
アニーはクスクスと笑うと、カウンターの奥へと戻っていった。僕はその後ろ姿に見惚れていた。
「だから、賢くなって……偉くなるべきよ。きっと力になるから」
アニーがそう言った時、僕はハッとした。もしかしてアニーは僕にやる気を出させようとしたのかもしれない。
幸せを掴む為のやる気を。彼女は僕が賢くなって、強くなりさえすれば偉くなれると信じているのだろうか?ただの煙突掃除人であるこの僕が。
***
本の束を持って僕は、猫も来ない様な裏道のさらに先にある橋の下でうずくまった。
ここは僕のお気に入りの場所で、此処なら本を隠しても大丈夫だろうと考えて僕は来たのだ。
「“灰色騎士物語”ねぇ……」
僕はその本を読みながら、アニーの言っていた言葉を思い出す。
確かに、今よりもっと力があれば……煙突掃除人でなく、別の仕事が出来るかもしれない……。
そうすればこの生活も少しはマシな物に変わってくれるかもしれない。だが、それは夢物語に過ぎないのだ。
結局、そんな未来は訪れないのだろう。アニーは希望を持つ様にと言っている様だが、僕には持てない。
なんせ、僕にはお金も無ければ兆しも無いのだ。パンと水だけではとてもじゃないが肉体労働など出来ない。
「煙突掃除には細い方が良いと主人は言っていたけど……」
『煙突の中は細く入り組んでいるので身体が小さい方が良い』という意味なんだろうが、僕には逃げる気力を奪う為の口実の様に思えた。
そんなことを考えていると、突然背後から男の声がした。僕は驚いて後ろを振り返る。そこにはジュードが立っていた。
「おい、早く帰るんだ。そろそろ不味そうだぜ。主人の馬車が戻るのが見えたそうだ」
「わ、わかった!すぐ戻ろう!」
そう言って僕は慌てて立ち上がるとジュードと共に駆けだした。
***
夜の街を歩くのは好きだ。昼間とは違う、活気ある笑い声や熱気が伝わってくるのが何とも面白いのだ。
右を向けば、楽しいそうな笑い声を上げる綺麗な格好をした男と女。
左を向けば、綺麗な音色を奏でる楽器を担いだ男や綺麗な布を頭に乗せた女など様々だ。
僕はこの風景を見るのが好きだった。なんだかこっちまで楽しげな気分になってくるからだ。
僕は綺麗な皆んなと違って煤だらけ。お陰で、街灯のない場所じゃ、真っ黒な僕等に誰も気付かない。
だから僕とジュードは宴会の日になると、いつも麻袋を飛び出して壁に隠れて見ていた。
大人達が酒や料理に舌鼓をうっている最中、僕らは街の反対側で盗み見ていた。国のニュースはこの時にしか聴けないからだ。
『隣のフランスとの戦争はいつ終わるのだろうね?』
「フランスってなに?」僕はジュードに聞く。ジュードは肩を竦めると、「海の向こうにある国の事だよ」と答えた。
『しかし、近頃の発展は早い。飛行船がもっと早く動ける様になれば、戦争は大きく変わるな』
「飛行船ってなに?」もう一度僕はジュードに聞く。今度は彼も「知らない」と答えた。
そして、ジュードは街から人が居なくなると僕らの手を引いて広場へと移動した。広場では貴族達が野外で演奏会をしていたからだ。
僕らは人のいない場所で耳を澄ましてその音色を聴いた後、またいそいそと麻袋へと戻っていった。
***
「セリオ、飛行船の話覚えてるか?」
ある日、仕事の帰り道でジュードが突然言い出した。「飛行船?」僕は彼の言葉に思わず聞き返した。
「そっ、飛行船。あれさ、新型が出来るらしいんだよ。新聞で見たんだ。それを記念したパーティーだってやるんだってさ」
ジュードはそう言って遠くを見た。空には雲が浮かんでいる。僕も倣って見上げてみた。
「あら、そう?でも二人には関係ないでしょ?」
突然、前を歩いていたドナが振り返ってそう言った。僕はビクッと肩を揺らして慌てて彼女の方を見る。
ドナもまた煙突掃除人なのだが、僕は彼女が苦手だった。いつも高圧的で、何か気に触る事をするとすぐ声を張り上げて怒るからだ。
だから彼女が口にする言葉は、僕の心臓を鷲掴みする様な恐怖感を与えてくるのだ。
「そうかい?俺はそう思わないぜ。遠目に見る分じゃお咎めなんてないだろ?」
ジュードは笑いながらそう言うと、すぐに僕の方を向いて言った。
「お前さ、飛行船見るか?夜だから、きっと主人は寝てる。チャンスさ」ジュードが僕の耳元に口を寄せて囁いてきた。
僕は思わずドキリとした。確かにチャンスかもしれない。でも……
「だ、ダメだよ。だって警備の人だっているかも……」
「おいおい、セリオ。お前、そんなに近付くつもりなのか?」ジュードはそう言うと僕の肩を叩いてきた。
「それにさ、飛行船が見れるのなんて今だけだろ?こんなチャンス二度とないぜ?」そう言ってまたニヤリと笑うのだ。
そんな彼の笑顔を見て、僕は何も言えなくなってしまった。
(実際、退屈な日々に比べりゃ百倍楽しそうだし……)
***
夜も更け、主人が寝息が聞こえてくると、僕はむくりと麻袋から起き上がった。
なるべく音を立てない様に袋畑となっている藁の上から地面へと降り立つ。そして、念の為に麻袋の中に藁をつめておいた。」
「ふぅ……これで一安心」
僕はそう呟くと、そのまま音を立てない様にして小屋を出る。小屋の前のあぜ道は真っ暗で、まるで廃墟の様な静寂が広がっていた。
その中を僕はコソコソと移動していく。『おい、セリオ』突然、そんな声が背後から聞こえて来たので僕は慌てて振り返った。
勿論、そこにはジュードが居た。でも、それだけじゃなくてドナまで一緒だった。
「ど、どうしてドナも来てるの?」
僕が震える声でそう聞くとドナは微笑んで答えた。
「そんなの、決まってるでしょっ!アンタら二人が逃げようとしてるって主人に伝えてお礼を貰う為よ!」
そう言って彼女は高笑いする。僕は思わず恐怖で身体を震わせた。だけど、ジュードは動じてなかった。
「ドナ、悪いけどそうはなんないよ。むしろ、夜中に主人を起こしたりなんかしたらお前が拳をお礼されちゃうぜ」
ジュードはそう言うとケラケラと笑う。どうも、ドナが青ざめていくのが楽しいらしい。
「で、でもっ!だったら、朝に伝えりゃ良いんだわ!」
「朝になったら、俺らは帰ってるんだから証拠がないだろ」
「そ、それはそうだけど!でも!」
ドナはむがむがと何か言いたげだったが、ジュードが僕を連れて逃げたのを見て諦めた様に顔を伏せてついて来ることにしたようだ。
「どうしてついて来るの?」僕がそう小さな声で言うと、ドナは「黙ってて」とだけ答えた。
僕らは街の外れへと向かっていく。時々、巡回している守衛さんに出会いかけたりしたけれどなんとかやり過ごしていた。
「し、しんどいわね。で、でももうそろそろ」
ドナはぜえぜえと肩で息をしながらそう言った。彼女は元から体力がないのですでに疲れ果てていたようだ。
そんな彼女を横目で見ながら僕とジュードはどんどん進んでいく。そしてなんとか街の外れにある発着場までやって来た。
僕らは静かに辺りを見回すと誰も居ない事を確認して、発着場へと侵入した。
しばらくすると黒い夜空に星々が輝き始めた。ジュードはそれを見ながら呟いた。
『あぁ……あれだ。あの大きいのが飛行船だ』そう言って彼は大きく手を振った。
すると、そこには星々が輝く夜空に堂々と浮かぶ巨大な白い楕円形の浮遊体があるのが見えた。
僕は思わず見惚れて声が出そうになると口を塞いで慌てて二人の方を見た。二人も同じように魅入られていた。
「僕、来てよかったよ……」
思わず、そんな言葉が口から漏れてしまう。きっともう二度と見れないその光景を目に焼き付ける様に。
やがて、飛行船は着陸する事もなく静かに上空へと飛び去って行ってしまった。どうやら、離陸直前だったようだ。
僕らは名残惜しみながら、その船影が見えなくなるまで空を見上げ続けた。
***
「凄かったな……」
僕は先陣を切って帰り道を降りている間も、先程の光景に思いを馳せていた。
あんな凄い物が存在しているなんて信じられない。きっと、この広い世界を探せばもっと色々なものがあるんだろう。そう思うと心が躍った。
一方、ジュードはそんな僕とは対照的になんだか気落ちした様な様子だ。
どうしたんだろう? そう思って声をかけようとした時、前方から一台の馬車がこちらに走って来るのが見えた。
それは黒塗りで、まるで闇夜を溶かした様な黒い車体に金色の装飾が施された豪華なものだった。その馬も立派なもので、毛並みの良い白馬だった。
「なに、あれ?」
ドナがそう言いかけた時、ジュードは彼女の口を手で抑えて茂みへと走った。
『セリオ、こっちだ!』ジュードが腕を上げて僕を呼ぶ。僕は慌ててそちらへと走った。
すると、馬車の馬が激しく鳴きながら僕の真後ろで止まったのだ。そして、御者席から一人の男が降りてきた。
彼は装飾が施されたプレートアーマーを纏っていたが、僕は恐怖以外に感想などない。
男のヘルムは凄まじい力で千切られたかのように割れていて、そこからは血塗れの男の顔が覗いていたのだ。
「あ……あぁ……」
男はゆっくりと僕の方へと歩み寄ってくる。僕は恐怖で身体が動かないまま、ただじっとしている事しかできなかった。
そんな時、ジュードは突然僕の手を引くと走り出したのだ。そして、そのままドナの手も引いて三人で走り始める。
しかし、男の足は鎧を着ているはずなのにとても早く、すぐに追いつかれるだろうと思われた。
「ジュード、無理だよ!」
「無理だったらなんだよ!」
ジュードはそう叫ぶと、突然僕の手を引っ張って自分の前へと出した。そしてそのままドナを僕の方へと押しやる。
僕は突然の事に驚いて尻餅をつく。そんな僕に構わず、ジュードは男の方に目をやる。
すると男はニヤリと笑った後、剣を地面に投げ捨てた。そして両手を広げてゆっくりと近づいてくる。
その行動を見てジュードは驚いた様に目を大きく見開いたが、すぐに険しい顔になると叫んだ。
「侵入したのは悪かったよ!でも、こんな脅かすことないじゃないか!」
しかし、男はそんなジュードの姿を見ても全く動じていない様子だった。
彼はただ何も言わずにジュードへと歩み寄ると、そのまま彼の前に立ち尽くした。その行動に僕もドナも絶句して見守るしかなかった。
「す、すまんが……食い物をくれ。戦争帰りなんだ」
よく見れば、男の身体は鎧にそぐわない程にほっそりとしている。
「く、食い物……」
ジュードが呆然としていると、ハッとしたドナが急いで袋の中を漁り始める。そしてその中からパンと干し肉を取り出して男に手渡した。
「は、はい、これっ!……本当は3人で食べようとずっと隠してたやつだけど」
男は無言でそれを受け取ると口に含む。すると彼の身体にみるみる力が漲っていくのが分かった。
しばらくすると、彼は再び立ち上がって僕らに礼を言った後、馬車へ向き直った。
「俺はポール。人呼んで、割れ仮面のポールさ。お前らは?」
「僕はセリオ。で、あっちがジュード……とドナ。僕等は煙突掃除人だよ」
そう言うとポールの眼帯がギラリと光った気がした。だけど、直ぐにまた感情の読めない瞳に戻った。
「そうかい、そりゃ辛い仕事だな。君らは良い子だから死んでほしくないものだね」
僕だって死にたくない。と心の中でポールの言葉に頷いてみた。
「さて、貴重な干し肉まで貰ったんで、礼をしない訳にはいかないな。何して欲しい?」
「俺たちを見逃してくれ。アンタここの護衛の人なんだろ?」
ジュードがそう言った。確かに、僕達には今それが一番必要なのかも。
「ふぅーん……まぁ、良いぜ。だけど、もうちょい夢見たってバチは当たらんぞ」
「夢か……あ、だったら僕に何か教えてよ!」
僕は思わず叫んでいた。だって、アニーが言うように賢くありたかったから。
「はは、こっちの方は欲深いな」
僕の言葉にポールは目を丸くしていたがすぐに微笑むと頷いた。
結局、その日はドナの頼みでポールの馬車に乗せてもらって帰ることになった。
窓辺に映る石畳の中心を横切っていく度、僕は不思議な高揚感に包まれた。
あの僕がここを渡っているのだ。ジュードもドナも、みんな幸せそうな顔をしている。
(そう言えば、ジュードはどうして気落ちしていたのだろう?)
ふと、僕は彼の行動を思い出していた。いつもならずっと喜んでいそうなものなのだが、珍しいこともあるものだ。
やはり飛行船という非日常が離れていくからなのだろうか?それとも何か別の要因が?
そんなことを考えている内に、馬車はあぜ道まで辿り着いたようでゆっくりと停車した。ポールに礼を言って僕らは馬車を降りた。
僕は礼をすると、ドナとジュードの手を握り、口裏合わせたみたいに3人でひそひそと小屋へ向かった。
没理由
・私自身中世に疎い部分があるから。
・ラブストーリーか騎士物語かあんまりはっきり決めてなかったから。
でも、没の中では凶子と同じくらい好きです。
だから、機械があれば続きを書いてあげたい……そうなれば、無駄を幾らか省くだろうけど。でも、チェスの下りは遺すかな?
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