詩的で散文的な石油起源説話

小此木センウ

「地質学ってのはね、散文的なのよ」

 彼女はよくそう言ったものだ。

 僕は思い出す。窓から斜めに差す朝日で輝く研究室の埃、ランチの時間を外したカフェテリアの静かな空気、皆が帰路を急ぐ石畳の雑踏のかしましさ、少しほこりの匂いがするベッドでの寝物語。まるで昨日のことのように明瞭で、そうであればこそ、まるで昨日のことのようにはかなくもある。

「だけどね、その昔テチス海で太陽を浴びていた藻類がさあ、生まれては死んで積もって、その海底の堆積が石油になったんだよ。これって詩的じゃない?」

「圧縮された有機物から炭化水素が抜けて砂岩に溜まっただけじゃん」

 僕は詩的で、彼女は散文的だった。二人がうまくいった理由は、この真逆の性格が補完し合ったことが大きいだろう。


 僕と彼女は同じ大学に所属し、地質の研究をしていた。先のやり取りからは、僕より彼女の方が実務上で有能だったと思われるかもしれない。理論家としての能力ならその通りだが、意外にも僕には実務、というより実利的な面での成果があった。


 世界を塗り分けた戦争が終わって、既に何年かが経つ。ようやく世間も落ち着きを取り戻し、軍需ではなく産業用途での石油消費が増加の一途である。油田は開発ラッシュとなり、僕は毎月のようにどこかの開発地に駆り出され、その多くで商売になる結果を挙げていたのだ。

 しかし、そのことは研究者としての僕には必ずしもプラスではなかった。


 別に僕は自分が山師だとは思わない。学問とはお金のかかるものだ。彼女や大学の同僚たちにお金を使わせるため、だから僕はお金になることに専念しただけである。だが当然の成り行きとして、よく言えばスポンサー、悪く言えばお金の匂いに釣られた人々が僕の周りにはよく集まって、その故に、お金の絡まないような研究者、つまり普通の一般的な研究者からは、僕はなんとも怪しい人物に見えたらしい。

 だから婚約にあたっても、彼女は一部からかなり強く反対されたそうだ。幸いにも彼女はこれと決めたら譲らない信念の持ち主だったから、僕たちは無事、式を挙げることができた。


 まあ籍を入れた、式を挙げたといっても、もっと前から同棲していたわけだから、それ以前と特に大きく変わることはなかった。強いて言えば、それぞれの研究について話し合う時間がさらに増えたということくらいか。

 どちらの話す量が多かったかといえば、大体同じくらいだが僅かに僕かもしれない。彼女は一つの大きな問題にかかずらわって頭を悩ませていたから、気分転換を誘う意味もあった。だがどんな話題であっても、結局は彼女の問題に帰り着くのが常だった。


 問題とはつまり、石油の埋蔵量が計算より多すぎること。


 石油には、生物由来で作られるという有機起源論と、地球内部で岩石から勝手に生成されているという無機起源論とがあり、論争が続いていた。以前から優勢なのは有機起源論である。彼女も有機起源論派にあり、無機起源論を否定し論争に決着をつけるべく、他の研究者と共同で複数の論文を発表した。これらは多角的な視点から無機起源論を論駁し、引導を渡したといっても良い内容で、僕などはここまで徹底するかと空恐ろしくなったものである。

 しかしただ一つだけ、有機起源論で説明しきれない重要な事実があった。

 それこそが先に記した、石油の埋蔵量が多すぎることだ。

 近年の採掘技術の発達に伴い、石油の予想埋蔵量はとてつもないペースで増え続けている。石油が生物起源だとすると、この量は明らかに過大なのだ。この一点をもって、無機起源論者たちは頑強な論陣を張っていた。


「何か、あるはずなのよ」

 その日もいつもと同じように、彼女は疑問を口にするなり考え込んだ。

「微生物による生成とかは?」

 僕は聞いてみた。

「可能性はあるけど、全然足りない」

「じゃあ、生物死骸の堆積量が想定より多かったのかな」

「考えられるのはそれなんだけど。中生代のテチス海の大部分が無酸素で、海に沈んだ有機物の分解がほとんどなかった、くらいじゃないと足りないわ」

「うーん、困ったな」

 他の答えを探して僕が腕を組むと、彼女は微笑んだ。

「キミが悩まなくていいよ。でも」

 言葉がそこで止まる。

「でも、何?」

 彼女は、今度は声に出して笑った。

「もしかすると、もっと詩的な答えがあるかもしれないね。私よりキミに似つかわしい感じの」


 そんな会話のあった翌日から、僕は地方で調査の予定があった。そこは国内でも大規模な油田地帯の一つで、新たな鉱床が発見され、試掘を開始しようというのだった。

 なんというか、かなり最悪に近い出張だった。北の方で寒かったせいか現地で体調を崩してしまい、朝はなんとかがんばって現場に出たり地元の関係者と打ち合わせたりし、昼過ぎに開発事務所に借りたスペースでその日の調査状況をまとめる。それが大抵は夜までかかり、ふらふらになってホテルに戻り温かいスープでも飲むと、後はベッドに倒れ込む。何日もそんな生活を繰り返し、朦朧として日付もよくわからなくなってきた頃に、大学から電話があった。

 彼女が倒れた、という報せだった。

 電話では病状についてどうにも要領を得ず、ただとにかく大学関連の病院に入院しているということだけはわかって、僕は予定を全てキャンセルして引き返した。しかしこっちの体調も一向に回復せず、列車の中で僕は自身の体が液体になってこぼれ落ちる悪夢にうなされ続けた。


 病室の扉を開けた時に最初に感じたのは、そこが明るすぎるということだった。採光が良いのが駄目だとは言わないが、こんなにまぶしくてはかえって患者に悪影響だ。

「カーテンを閉めるよ」

 言った後で、窓からはたいして光が差し込んでいないことに気づいた。天井を見上げたが、照明も消えている。

「どうしてかな。みんな最初にまぶしいって言うの」

 声がした方を見た僕はその場に固まった。

 ベッドで上半身を起こした彼女の肌の色は、真っ白に変わっていた。生き物の肌というより、樹脂か何かの作り物のようだった。触れると、手にごく細かい、すべすべしたものがついた。

「角質が脂質化して剥離してるのね」

 ほらこれ、と言って彼女は視線を下に向けた。僕は彼女の手首を覆う毛布をゆっくりどけた。

 左右両方とも、指先が無くなっていた。

「大丈夫。痛いわけじゃないから」

 大丈夫なわけがないと僕は叫びそうになり、院内であることを意識して辛うじてとどまった。

「退院した後、実験がやりづらくなっちゃうね」

 彼女は静かに微笑んだ。その仕草で、自分の言葉とは裏腹に、彼女が既に運命を受け入れているのだとわかった。だからなおさら僕には、その不条理を糾弾する権利はなかった。


 彼女の病について、医者から得られた情報はほとんどなかった。近年見られるようになった奇病で、原因は全くわからず、名前すら付いていないらしい。ただ、同様の症状で入院する患者が急増しており、特に患者の多いある地方の病院が治療を試みているという。

 藁にもすがる思いでその病院の所在地を尋ねた僕だったが、そこで薄気味悪いような、おかしな気分に陥ることになった。

 病院は、直前まで僕が調査に赴いていたまさにその地方にあったのだ。


 転院した当初から、彼女は外出したがった。空はいつもどんより曇って、近くに製油施設があるせいで空気もきれいとは言いがたいのに、おかしなことではあった。

 脚の方も次第に動かなくなってきており、外出となると僕は車椅子を押す係になった。幸いにも、先だっての調査のおかげで僕はこの近隣で「偉い学者先生」ということになっており、彼女の奇病を薄気味悪く見る視線はちらほら感じたものの、それ以上の不快な目に遭うことはなかった。

 転院してから彼女の体調は良さそうで、精神的にも安定して見えたが、それと相反するように病状は進行していった。

 そろそろ外出もやめた方がいい、と医師に告げられたその夜である。

 病室を出て宿に戻ろうとした僕を、彼女は呼び止めた。

「明日さ、遠くに行きたい」

「それは――」

 難しい、と答えようと振り向いた僕は、彼女の瞳の輝きを見て言葉を失った。

 戻れない、いや、戻らないことを覚悟したのだ。

「どこに行きたいの?」

 彼女の答えは、再び僕を沈黙させた。何故って彼女の希望する行き先は、大学でも、家でも、彼女の故郷でもなく、僕が調査していた油田の開発地だったからだ。

「最後にキミの仕事を見ておきたいとか、そういう詩的な理由じゃないよ」

 僕が尋ねる前に、彼女は笑って首を振った。

「むしろ散文的。あそこ、私の研究に関係がありそう。そんな気がする」


 新しい鉱床はまだ試掘段階で、道路も整備されていない。僕の運転する自動車は、岩と草地が交互する原野を、サスペンションがおかしくなるほど揺れながら走った。大きく揺れるたびに彼女の身体から鱗粉のように白い粉が舞い上がり、その幻惑されるような非現実的な美しさに、僕は時々自分がどこにいて何をしているのかわからなくなった。

「ごめん、疲れない? 痛いところとかないかな」

 地面から突き出した大岩の日陰に車を停め、彼女の肌についた砂ぼこりを拭いながら僕は聞いた。

「大丈夫。触覚と痛覚が機能喪失してるみたい」

 彼女は僕に薄い笑顔を向けた。

「悲しまないで。悪いことばかりじゃないよ。肌の感覚がなくなったから、どこまでが私なのか境界が曖昧な感じ。剥離した鱗片もまだ私の一部で、自分がうっすら空間に広がっていくみたい」

「ずいぶん詩的なんだね」

「そうかな?」

 彼女は首を傾げ、それから腕を持ち上げようとした。白い、蝋のようなものがぽろぽろこぼれ、僕は慌てて腕を支える。

「駄目だよ、急に動かしちゃ」

「あそこ」

 彼女は僕に答えず、大岩の方に視線を向けた。

 大岩の根元に、人間でも楽に入れそうな大きな穴が空いている。

「何だろう? 陥没かな」

「連れてって」

「う、うん」

 僕は自動車の荷台から車椅子を下ろし、次に彼女を抱えて慎重に車椅子に乗せた。思った以上にその身体は軽く、僕は内心で動揺した。

「早く」

 彼女は車椅子から身を乗り出すようにして、僕を急かした。

 地面には石くれや枯れ草が転がり、僕はかなり苦労しながら車椅子を押した。

 近寄るにつれて、穴の中が見え始めた。横穴に近い空洞で、奥に行くに従って広がっているようだ。そして――

「奥が明るいみたい。内部に光源があるのかしら」

「そんなはずは……。ガスが燃えている感じでもないし」

 穴は人間の立った背丈より頭一つ分高く、横幅はさらに広い。奥の方で曲がっていて、光はその曲がり角の向こうからやってくるようだった。

 僕たちは、どちらからともなくうなずき合った。

 内部の足元は思ったより平坦だが、車椅子を押して進めるほどではない。僕は彼女を抱き上げ、穴に入った。

「あら、結婚式以来じゃない」

「今回は特別だよ」

「ありがと。猛獣でもいたらその辺に捨てて逃げて」

 僕は笑って首を横に振る。

 この行為が極めて軽率なのはわかっている。猛獣はないにしても、穴の奥に二酸化炭素でも溜まっていたら、二人同時に意識を失って一巻の終わりだろう。

 だが、そうはならないという確信が、僕と、おそらく彼女にもあった。その核心の根拠は、曲がり角の先にある。


 僕は歩を進めた。角の向こうから柔らかな光が差す。

「屍蝋ね」

 胸で彼女が言った。

 そこは、大きな部屋のような空間だった。床はすり鉢状で、窪んだ中央部には黒い水が泉のように溜まっている。泉の縁に、彼女の言う屍蝋が四、五体ほど、半ば水に浸って横たわっている。光っているのはその、屍蝋だった。

「降ろして。ここに来たかったの」

 僕は彼女に言われるがままにした。彼女は泉に向かって数歩進み、そこで転んだ。

 僕は慌てて駆け寄り、泉の方に滑る体を掴んで引き寄せた。

「ありがとう。これ、水じゃないね」

「うん。――石油だ」

 彼女はうふふ、とくぐもった笑い声を上げた。

「詩的な解決、ってわけ?」

「そのようだね」

「計算、したかったな……。どれだけの生物が……」

「やっぱり君は散文的だ」

 彼女は答えなかった。他の屍蝋と同じく、石油の泉に身を溶かし、無限に広がりながら眠りについたのだ。

 僕も、彼女を胸に抱いて仰向けになった。身体が少し滑り、両足が石油に浸かった。獣の血のように、どろりとして生温かい。

 いや、のよう、ではない。血そのものだ。


 奇病の正体は、動物の身体が石油に変容することだったのだ。ここにある屍蝋も、恐らく彼女と同じ病を得て、そしてここにたどり着いた。体から流れ出る石油と共に、病の原因となる何かを浸透させ、遥か地下に横たわる油田へと伝えるため。

 彼女の求めた答えもここにあった。中世代の一時期、この病が拡大したことがあったのだろう。そのせいで、これまでの推論では説明しきれない大量の石油が生成された。

 そして、近い将来に起こる再流行は前回の比ではない。病の原因と交わった原油はやがて採掘、精製され、燃焼して煤塵となり、世界中に降り注ぐのだから。


 果たしてこの結末は詩的なのか、散文的なのか。僕にはわからない。

 ただ、こうやって彼女と混じり合い、溶け合って地球の一部に戻るのは心地が良い。かつて僕たちだった肉体が消えた後も、意識だけは薄く緩慢に大地に広がるだろう。

 そうしてこの星は、再びの石油産出期を迎える。

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