後編
「お待たせしました。こちらが保険のお見積りです」
提示された見積もりを見ると、やはり金額が高いように感じた。
僕は保険に関してド素人だが、それでも違和感を感じるということは、きっと何かあるのだろう。
「私共と提携している保険でして、もし契約していただけるのでしたら……ローンの金利も少しだけお下げするよう、私の力で頑張らせていただきます」
男は得意げに言う。
あぁ、この人はきっと僕のことを金づるとしか見ていないんだな。
このとき僕はそう思った。
「さぁ、どうします? 何か分からないことがあれば、何でも聞いて下さい。私この道10年のプロなんで」
いや、分からないから困ってるんじゃない。
僕は喉元から出そうになったその言葉を必死に押し込んだ。
「こんないい条件の車、他にはありませんよ? さぁ、どうします?」
男は僕に購入させるべく詰めよってくる。
僕は相場には詳しくないが、60万の車が120万になるなんて普通のことなんだろうか。
どちらにせよ、ここで買うなんてことは有り得ない。
今最も避けなければいけないことは、この場で購入してしまうことだ。
僕は意を決して話し出す。
「あのぉ……すみません。一旦持ち帰って考えさせてもらいたいんですが……」
場の空気がガラリと変わるのを肌で感じる。
その時の雰囲気は、学生時代の先生に怒られる前の前兆のような雰囲気――といえばご理解いただけるだろうか。
とにかく、それくらい嫌な雰囲気だった。
僕は、心臓が締め付けられるような感覚を覚える。
男性社員の方を見ると、冷ややかな目で僕を見ていた。
「何故ですか? これほどいい車はありませんよ? 今日を逃すと、明日には売れてしまうかもしれない。それでもいいんですか?」
僕は黙る。確かに、目の前の男の意見も一理あるのかもしれない。僕が世間知らずなだけで、この値段は相場よりも安い。そんな可能性もある――。
いや、あるわけないだろ。
どう考えてもこの値段はおかしい。オプションは半強制のようだし、ローンも10年組ませようとするなんて聞いたことがない。いくら僕が世間知らずでも、これはない。
「さぁ、どうします?」
男は尚も僕に購入を迫る。僕は覚悟を決めて、男性社員に向き直った。
「もうちょっと考えさせてください。実は僕これから出張で、今から空港に行かないといけないんです。大阪まで。だから早急に実家の方に帰らないといけないんです」
今考えても拙い嘘だと思う。だが、大阪に行くのは事実だったし、実家に戻るのも本当だった。
もっとも、それは今日のことではなくて明日のことだったが。
男性社員は、突然の僕の発言に目を丸くしていた。
「ほう……出張……どちらまで行かれるんです?」
「大阪です。ちょっと研修がありまして」
出張前にこんなところへ来るな、と内心ツッコミを入れる。何故こんなデタラメな嘘をついたかというと、このままでは目の前の男に押し切られると判断したからだ。こう言えば流石に引き止めはしないだろうと僕は踏んでいた。
それにしても、もっといい嘘が他にあったと思う。
「いつ出発なんですか?」
「18時には空港に到着しておきたいです。なので、今から30分後の電車に乗る予定です」
なんという杜撰なスケジュール管理だろう。
これをもし本当に実行するやつがいるなら、とても正気の沙汰ではない。
「そうですか……しかし、どうしましょう。今ここで契約しないと、明日には無くなっていると思いますよ?」
なおも男性社員は食い下がる。しかし、僕の意思は固かった。
「いえ、それなら仕方ないです。もし売れたなら別の車を探します」
「本当にいいんですか?」
「はい、売れたときは縁がなかったということで」
「そうですか……ちょっとお待ちください」
そう言って、男性社員は席を後にし、バックヤードに戻っていった。
しばらくすると、また男性社員は戻ってきて、僕にこう言った。
「お客様は出張からいつ戻られるんですか?」
「日曜の4時くらいですね」
ちなみにこれは本当のことだ。
「じゃあ日曜の夕方5時とかに、もう1回商談しません?」
目の前の男は、話を聞いていたのだろうか?
出張が終わってすぐに誰もこんなところへ商談に来たいと思わないはずだ。
僕の場合は嘘だからいいが、もし本当に出張に行っていたらそんな体力は無いと思う。
「いやぁ……出張終わった後すぐは流石にキツイです」
僕は苦笑いしながら答える。だが、男は尚も引き下がらない。
「では、こうしましょう」
「お客様。私に1万円だけください」
この男は何を言っているのだろうか。
僕の脳内は、大量のハテナマークで溢れる。
もしかして入店料として、僕に1万円を請求するつもりなのか?
僕はそんなあり得ない考察をする。
「私に1万いただければ、私の力でなんとかお取り置きします。いかがですか?」
「……結構です。先程も言った通り、売れてしまったら、それは縁がなかったってことで諦めます」
僕がそう言うと、ようやく男性社員は諦めたようで、僕を出口まで案内した。見送られる際、次はいつ来店するのだとか、どの時間帯に電話すればいいかだとか聞かれた。だが、僕は曖昧にそれを濁した。
なぜなら、この場所に来ることは、もう二度と無いからだ。
僕は店員に見送られ、その店を後にした。
友人たちにこの話を話すと、「それは明らかにボッタクリだ」と皆から言われ、僕は自分の判断が正しかったのだと安心した。
今回の件で学んだのは車を買いに行く際は、1人で行くのではなく、家族や友人、できれば車関係に詳しい者を連れて行くべきだということだ。そうじゃないと、知識の無いものはカモにされてしまう。正直、人間不信になってしまいそうだ。
ちなみに、翌日普通に電話がかかってきたので思わず着信拒否にしてしまった。その時間帯は、僕が出れませんといった時間帯でもあったし、もう金輪際関わりたくなかったからだ。その後、連絡は一切来ていない。
この後にも別件でいくつか騒動があったが、結局、別の店で車は買った。これを読んでいる方が、このようなボッタクリにあわないことを切に願う。
車を買いに行って酷い目にあった話 不労つぴ @huroutsupi666
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