女友達

真田宗治

女友達




 やけに湿った夜だった。

 残業をやっつけると、もう終電はなくなっていた。丑三つ時の西新宿は風もなく、うんざりする暑さである。始発まで、まだ三時間もあった。後輩社員のみぃちゃんが食事を奢れというので、俺達は近くの居酒屋で食事をしながら、始発を待つことにした。


「プロジェクト、上手くいくといいですね」


 みぃちゃんがカラリと笑う。ビールを一杯飲んだだけなのに、もう顔を赤くしていた。まあ、明日は二人とも休みだ。多少酒に呑まれても問題はあるまい。


「そうだな」


 疲れきっていて、そう返すのがやっとだった。二十代の頃ならいざしらず、最近は、俺もめっきり体力が落ちた。徹夜が辛い。酒を飲むとすぐに眠くなってしまう。

 やがて、大蒜ニンニクの香りが効いた豚の生姜焼き定食が運ばれてくる。俺は一気に目が覚めて、すぐに食事へと箸を伸ばす。

 腹が膨れると、ふいに、みぃちゃんが切り出した。


「ねえ。何か面白い話をしてくださいよ」


 トロンとした瞳の魔力に抗えなかった。彼女がポニーテールを解くと、薄茶色の髪が溢れ落ちるように広がって、微かに甘い匂いが鼻腔を刺激する。お手上げだ。

 俺は観念して、みぃちゃんのリクエストに応えることにした。


「これはね、俺が小学生五年生の頃の話だよ」


 声をひそめて言うと、みぃちゃんが軽く眉をしかめる。


「やだ。それってもしかして怖い話ですか? 私、怪談とか怖い話が苦手なんですよね」

「大丈夫だよ。怖いというより切ない話っていうのかな」

「本当ですかぁ?」

「ああ。怖くない、怖くないから」


 疑うみぃちゃんをなだめ、俺は再び話し始めた。


 当時、俺は身体が弱くて気も弱い、所謂虐められっ子だった。クラスメイトからは見下されており、いつも距離を置かれていた。当然、女子生徒達からも馬鹿にされていた。

 友達なんていなかった。

 下校する時はいつも一人だった。連れ立って帰るクラスの生徒たちが羨ましくて、いつも、並んで歩くランドセルを遠くから眺めていたものだ。

 ある秋の日、俺の学年は修学旅行で長崎へと行くことになった。

 班決めの時、担任の教師が「好きな子と五人組を作りなさい」とかいうもんだから、俺はどの班にも入れずに、最後まで仲間外れの余り物だった。そりゃそうだ。俺を好きな子が何処にいる? 残った俺を見かねた教師が「〇〇君の班にいれてやりなさい」と言うと、その班の生徒達があからさまに嫌そうな顔をして、渋々、俺を班に加える。胸が張り裂けそうだった。

 俺達は教師に引率されて長崎の原爆資料館を巡り、戦争の記録や映像をたくさん目にした。想像を超える悲惨さに、俺はかなりのショックを受けて、終始、重苦しいものを抱えていた。見学を終えて資料館前の広場で追悼の歌を合唱しても、土産物屋によって珍しい舶来品の数々を目にしても、ずっと気分が晴れなかった。

 そうして、俺達はそのホテルを訪れた。俺達が泊まる部屋には二段ベットが四つあり、それを六人の班員で使うことになった。

 俺は窓際のベットの梯子に手をかけたのだが、ヤンチャな女子生徒に襟を引っ張られ、引きずり下ろされて尻餅を衝く。


「ここは私が使うから。あんたは下で寝なさいよ」


 彼女は二段ベットの二階から高飛車に言う。俺にも自尊心はあるから「ふざけるな」と抗議するのだが、上から蹴りまくられて梯子から蹴り落とされる始末だった。

 やがて消灯時間が訪れて、部屋の電気が消される。初めての外泊に興奮している俺達は、すぐには眠れない。みんな懐中電灯の灯りを点けて、恋話とか、くだらない話で盛り上がる。

 で、修学旅行の恒例行事といえば、やはり怪談だ。何人かの生徒が順番に怪談を披露して、いよいよ班のリーダーの番になる。


「俺、知ってるよ、このホテル、幽霊が出るって有名なんだよ」


 軽薄なリーダーが言い出した。

 みんなを怖がらせる為に、思いつきの出まかせを言っているに違いない──。

 俺はそう直感したのだが、まあ、それを言って空気を悪くする必要もない。そいつが普段、どんなに適当で人を小馬鹿にしているかはさておき、どんな作り話でみんなを怖がらせるつもりなのかには少々興味があった。


「幽霊が出るのはこの部屋なんだ。夜中に窓の外を見ると、血塗れの女がカーテンに包まって、壁にぶら下がるんだって。目が合ったら捕まって、頭からガリガリ齧られて殺されるんだ。本当だぜ」


 と、如何にも真剣な顔で声を顰めて言うのだが、俺は下手な芝居だな、としか思わなかった。だってそうだろう。カーテンに包まった女が蓑虫みたいにぶら下がっているのを想像したら分かる。自分が死んだらわざわざカーテンに包まって蓑虫みたいにぶら下がりたいか? 俺は嫌だ。誰だって嫌だろう。

 でも、班のみんなは真に受けて、怖いだの気持ち悪いだのと盛り上がっている。

 そして、リーダーが窓の外へと指を射す。


「誰かその窓の外、見てみろよ」


 すると何故か、班の連中の視線が俺へと集まった。俺なら死んでも構わない。とでも思っているのか? なんて薄ら寂しくもあったのだが、それにも慣れている。俺はやれやれと立ち上がり、窓へと向かった。


「心配するな。見ててやるからな。みんなも逃げるなよ」


 リーダーの野郎が此方へと懐中電灯を向け、薄っぺらい気休めを言う。まあ、そいつの話なんて最初から信じていないし、幽霊なんている筈もないのだが。

 だが、俺はわざと真剣な表情を浮かべながら、ゆっくりと窓へと手をやった。窓は閉まっており、正面に見えるのは真っ暗な山の林ぐらいである。リーダーの話では、幽霊ってやつは壁にぶら下がっているらしいから、窓を開けて確認してやる必要がありそうだ。

 で、俺はジワリと窓をあけ、恐る恐るといった芝居をしながら、窓から身を乗りだした。そして左右に眼をやって、壁に何かがぶら下がってないかを確認する。


「どうだ? 何か見えるか?」


 リーダーが声を顰めて言う。班の連中も息を止め、真剣な面持ちで見守っている。その緊張が伝わって、俺も少しだけ怖くなってきた。

 ここで俺は思いついた。

 もし、ここで『いる』と言ったら、こいつらはどうするのだろう?

 一応、リーダーは『見ててやるからな。みんなも逃げるなよ』とか言っていた。口先だけの奴だから信用はならないが、仮にそいつが逃げ出したとしても、一人ぐらいはまともな奴がいて残ってくれるんじゃないだろうか? 否、残っていてほしい──。

 小学生の思いつきだ。悪戯心を抑えられる筈もなかった。


「いた!」


 俺は隣の部屋の窓の方へと眼をやって、鬼気迫る声で言ってみた。

 次の瞬間、班の奴らは「わー!」と声を上げ、俺を置いて部屋から飛び出してしまった。ゆっくり振り向くと、部屋には誰も残っていなかった。俺はポツンと棒立ちのまま、項垂れて深い溜息を吐く。

 スタンド・バイ・ミーなんて幻想だ。現実なんてこんなもんだ。いざ危機が迫った時、傍にいてくれる奴なんて一人もいない。どいつもこいつもクズばかり。それがこの世の真実さ。それを、小学五年生で思い知らされたんだ。


「あれは子供心に寂しかったね──」


 自嘲混じりで言うと、みぃちゃんがぷっと吹き出した。笑ってくれて寧ろ救われた気がする。


「なんだよ。そんなに笑うなよ」

「だって、先輩可哀想」

「まあ、あんな薄情な奴らしか知らなかったから、そりゃ人間不審にもなるよ」

「あはは。でも良かった。途中まで本当に怖い話っぽいノリだったから、ちょっと心配したんですよ。でもそんな仕打ちをされたら……後々、恋愛とか苦労したんじゃないですか?」

「まあね。だけど今は普通だよ。やきもち妬きの女友達もいるしな」

「へえ。女友達ねえ。付き合ってないんですか?」

「事情があって、その人とは友達以上にはなれなくてね。とにかく、本当に怖くなかっただろ?」

「はい。先輩も苦労したんですね。よしよし」


 と、みぃちゃんが俺の頭をぽんぽん撫でて微笑する。

 その時、彼女の端末のアラームが鳴った。


「始発が動き出したみたいなので帰ります」

「そっか。送らなくて平気か?」

「平気でーす。じゃあ、また月曜日に」


 ひらりと手を振って、みぃちゃんが店を後にする。その後ろ姿を見送って、俺は仄かに暖かな気持ちになった。

 ただ──。

 一つだけ、彼女に話していない事がある。あの時、俺は本当にのだ。

 ズルりと、傍で音がする。それは椅子から染み出すように盛り上がり、べちゃりと、床に転がった。

 ぁあぁぁぁぉあぁ……ぁぅぁあああぁぉあぁああぁぁぉ……。

 怨嗟を孕む声が頬を震わせる。

 この世の物ではない。酷く穢れた白いカーテンに包まった、下半身が血塗れの女だった。縮れた黒髪に隠れた顔はどす黒い闇に覆われており、表情は伺えない。裂けた口元からは黄ばんだ歯が剥き出され、そこから漏れた腐臭が鼻を衝く。


「あの娘が気に入らないのかい?」


 問いかけは返って来ない。それは床に爪を立て、歯をカチカチ鳴らしながら、這いずってみぃちゃんの後を追いかけていった。

 きっと、みぃちゃんにはもう会えないだろう。でも仕方ない。下らない連中は、みんなとっくに食べてしまったもんね。みぃちゃんは連中とは違って良い娘だから、せめて怖くないように、目玉から食べてやっておくれ。

 やれやれ、困った女友達だ。






              おしまい。




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女友達 真田宗治 @bokusatukun

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