練習問題10 むごい仕打ちでもやらねばならぬ

 豚だ。醜悪な豚のような男だ。

 1秒前までの俺は目の前の男を畏怖し、確かな忠誠を誓っていた。しかし前世の記憶が俺の脳を雷のように切り裂いた今、まっさらな目で眺めた彼は、ただの豚に似た初老の男に過ぎない。

 なにしろここではない世界で働きづめの挙句に死んだ男の残滓が脳裏で囁くのだ。

『仕事に人生を捧げても無意味だぞ』

 俺は亡霊の声に耳を傾け、程々に無視し、片膝をついた姿勢を維持する。

『来世の上司があんなインテリアセンスが最悪の手合いとは』

 言ってやるなよ。確かに壁紙の柄が食虫植物というのは……尖った趣味ではあろうが。

 どうにか気分をなだめると視線上げてズビシェク・ヴォジェニ公爵のご尊顔を拝した。

「亡きお前の父と同様、いや、より一層の働きをお前には期待して――」

 やはり彼こそが我がボロフカ家の支配者であり、今や亡霊じみて俺の脳内でぶつぶつとぼやくばかりの『前世の俺』が、死の寸前までプレイしていたゲームに登場していた黒幕でもあった。

 こんな場に引きずりだされているのは、現生の父親が過労死し、家督を継がざるを得なくなったから。面白くもない、ありふれた理由だ。

「――婚約者は世話してやっているが、身を固める為にも箔が要るだろう?」

『ああ、例のキャラか』(そう、パメラだ)

 彼女の存在に言及された途端、その姿がフラッシュバックする。腹の底まで見透かしてくるような、藍色の瞳が残像を描いた。

「そこで頼みがある。なあクレメント?」

 ヴォジェニ公が振る手は魔力防衛の指輪だらけだ。俺は即座に立ち上がる。


 命じられたのは、公爵にとってみれはさもない使い走り仕事だ。だが、その裏に潜んだえげつなさを俺だけが知っていた。ねばついた声で下される指令を聞き終えた頃には、背中は脂汗でぐっしょりと濡れそぼっていた。


『で、どうするんだ?』

 何がだよ。

 俺は鏡に向かって言い返す。

『騎士でロベルトと来たら……のこと……』

 おい、なんだか声が遠くなっていないか? どうやら『前世の俺と』今世の俺の記憶が馴染んで分かちがたく混じり合いつつある。今や俺と俺を隔てる境は失われ、そのうち頭の中に声が響くこともなくなった。

 ひとまず、この世界がゲームに過ぎないという点への考察は棚上げだ。今は『現代日本』という神の座す世界がある、程度の認識に留めておく。

 今の俺に哲学的な思索にふける余裕はないのだ。つい先ほどくだされたヴォジェニ公爵の指令はこうだ。

『――何者の差し金か、ロベルトとかいう古参騎士が私の近辺を嗅ぎまわっていてな。実に困ったことじゃあないか! ……クレメントよ、は、解るね?』

 要は『後ろ暗い何かが明るみになる前に、捜査担当者を始末しろ』との仰せだ。ヴォジェニ公とくれば贈収賄から政敵である大物貴族の暗殺まで黒い噂の総合商社だ。彼の暗部に深入りすることは、死を意味した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

文体の舵をとってみた 納戸丁字 @pincta

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る