盆暮れ
孵化
第1話
逢瀬を待ち侘びる。傍には額縁に囲まれて笑う人がいて、机には白いシーツがかけられる。乗せられた夏の果物や瑞々しく、朝露のように水道水を垂らす。白檀の香りをした煙が部屋に立ち込めている。
お盆だった。祖母の作った精霊馬が仏間に飾られ、部屋を隔てていたはずの襖が外されている。親戚が長机に並び、出前を取った50巻の寿司が4皿、丁寧に並べられている。そこらに置かれた日本酒の瓶と、水音を忙しなく垂れ流す台所。遠くの空は青黒くて、微妙に効いていないエアコンが少し忌々しい。親戚の子供、甲子園の中継が映る30インチの液晶テレビ、遠くでなっている夏祭りのお囃子。全部が煩わしくて、私は、それから逃げるみたいに外に出た。
首筋に冷たい汗が伝う。父に怒られるだろうか。あれ程たくさんの人がいれば、私一人欠けたところで気付かれないと思うけれど。
けど、時間の問題だと思った。湿気た晩夏の空気が、晒した肌に纏わり付く。帰省するのだから女の子らしい服をと言われて、無理やり選ばされた短めのスカートと白いシャツが風に揺れる。
毎年の如く、おじさんたちが「何歳になったんだ」と聞いてくる。その度に、一つだけ増えた年齢を伝えれば、おじさんたちは決まって「大きくなったなぁ」と昔話をはじめる。
覚えてなんかいないのに、その話に同調して、まるで覚えているみたいに過去を虚飾していく。それがいつしか本当になって、過去が侵食されていくような気がした。
庭の池を覗いてみる。死んだ祖父とよく遊んだ。池に映る自分の顔を見て、あの頃とは違うのだと実感する。祖父は死んだし、私はもう居ない。昔のことを口にする度に、本当の意味で昔が死んでいく。長机で昔話をしながら食事をとる。過去を喰らう。
池に石を投げ込んだ。映る顔が醜く歪んで、どこか現実に戻れたような気がした。
お盆が嫌いだった。親戚には会いたくないし、近所の人にも会いたくない。会う度に老けていく祖母を見たくない。
この家の空気を吸うと、祖父が死んだ時を思い出して呼吸が苦しくなる。痛いほど香る白檀も、昔は好きだったのを思い出す。
宴の喧騒が外にまで響く。16の夏がまとわりつく。そろそろ戻ろうかなと思っていたら、ちょうど、煙草を吸いに出てきた従兄と目が合った。
「あれ、何してるの?」という問いに、すぐには答えられなかった。なにもしていないというのが正しい。逃げたなんて言えなかった。
「線香の匂いで頭が痛くなったから」
適当な理由で誤魔化した。従兄が薄い笑みを浮かべて、つけたばかりの煙草の火を消し、灰皿へ丁寧に差し込んだ。
「年に一回しか会わないのに、よくあれだけ騒げるよな。って言うと、俺もそんなに変わらないように見えるのかも分からないけど」
私の方に近付くと、彼は煙草の匂いを纏わせながらそういった。
8つ上の彼には、昔よく遊んでもらった。その記憶が強く残るから、この空間の中で彼だけは、少しだけ信頼出来た。
「騒ぐのだって案外疲れるもんなんだよ。分からないかもしれないけどさ、昔の子供だった頃を残しながら年長者を立てつつ騒ぐのって、実は結構疲れんだ。だからこうして煙草を吸いに外に出る」
「それは。……ごめん、邪魔した」
彼が先程、2回ほど吸って捨てた煙草を思い出す。
「いや、そういうことを言ってるんじゃなくて。煙草吸ってくるって言えばその場を離れられる俺らはいいけど、離れる理由もないお前らは辛いよなって、そう言いたかったんだ」
頬を掻きながら笑う。彼の、照れている時の癖だった。
「俺らは何かあれば酒のせいにできるけど、お前らは違う。俺らと同じような態度や会話が求められるのに、俺らと違って逃げ道がない。それって、辛いことだよな」
「大人の方が大変だと思うけど、だって、やれることが多いってことはそれだけ、気を使うことも多いって事じゃないの?」
「って思ってた時もあったけど、自分がこの歳になると、あんま変わんねぇなって思うんだよ」
遠くを見る目が少しだけ綺麗に見えた。午後7時はまだ明るくて空に星灯はない。田舎の静謐さえ暴力的な喧騒だと錯覚してしまう。
「まぁいいか。それで、いつになったら戻るんだ?」
「……今戻ったら父さんたちに怒られそうだから、祭りでも見てみんなが酔い潰れた頃に戻ろうかなって思ってた」
「そっか。じゃあそれ、俺も着いて行ってもいい?」
「え、なんで?」
反射的にそう返していた。
彼は一瞬だけ怪訝そうな顔をしたけれど、すぐに「俺が一緒ならもし帰ってきても怒られないだろ」と言った。
それもそうだと思った。
祭りなんてもう何年も行っていないけれど、その道中はいつになっても胸騒ぎがする。
お囃子の音も、なり始めた花火も、徐々に近づく喧騒も、盆提灯の薄明かりも、何もかもが懐かしい。記憶にあるものと変わらない旋律で、同じ音色をしていた。
「爺さんが死んでから、お前と会うといつも暗い顔しててさ」
雨が降りだしたことを少し遅れてから気づくみたいに、彼の声が自然と耳に入る。
「少し心配だったんだ。無理してないかなって」
「親戚の集まりはずっと苦手だったし、今更だと思うけど」
「ならいいんだけどさ。……何年ぶりだろうな、一緒に祭り行くの」
森の中に作られた舗装された細い階段を降りていくと、眼下に朱色の影が落ちる。祭り屋台に人が群がり、中央に停められた山車では酒瓶を片手に踊り狂う面を被った男がいた。
私は、それから目が離せなかった。
記憶にあるあの風景と何一つ変わらない、夏祭りの様相だった。いや、本当は少し変わっているのだろうけれど。けどそれは、見ただけでは分からない程に些細な、ちょっとした時間の摩耗だった。
「……何年ぶりでも変わらないよ」
だから、思わずそんなことを言っていた。
人は歳を喰うし、時間は何をしていても過ぎていく。けれど、その集まりは、どれだけ時間が経とうと大して変わらないのだと思った。
祖母が面倒だと言いながらも親戚を家に呼び、毎年変わらず宴会を開くのは、そこに祖父の面影を感じるからだと、そう思った。
「あ、財布持ってないや。りんご飴買ってよ、兄ちゃん」
だから昔と同じように彼をそう呼んだ。彼の驚いたような、懐かしむような、色々な感情を綯交ぜにしたみたいな表情がどこか面白い。
ああ、そうか。この田舎にいる時だけは、気負わず普通にしてていい。彼らはきっと、私という人間ではなく、私という記号を見ている。過去を懐かしむための飾りとして、私という名のついた記号を見ている。酒が入れば語り出す昔話も、たぶん、そういう意味があるのだと思った。私が多くを考える必要は無い。いつも通り、自然な自分でいればいい。実際それがあっているかなんて、正直どうでもよかった。私は、祖父と過ごす好きだったお盆を嫌いになりたくない。祭囃子の中で、何故か、そんな事を思った。
盆暮れ 孵化 @huranis
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