利き手を戻せない

及川奈津生

利き手を戻せない

「谷さん、父を殺しました。明日自首します。俺を哀れに思って一晩抱かれてくれませんか」


 一時の憐れみが欲しくて雨の晩にずぶ濡れで上司の家に現れた前川は、確かに刑事ドラマの犯人然としていた。

 天気予報では昨日梅雨入りが発表され、他の季節よりも体に張り付く粘り気のある雨が降っていた。それが自身の罪へのしがらみや重荷のようにも感じられた前川はたまらず想い人の下へ走った。自身の犯罪とセクシャリティを打ち明け、同情を買うなら今だと思ったのだ。前川はゲイだ。

 殺人と恋愛の両方の告白、どちらを先にしたらより情緒的だろうかと考えるくらいの余裕があり、それは谷にも見透かされていた。


「確かなのか」


 刑事ではない一介のサラリーマンの谷でも、前川の自供が証言として信用できるものか疑う。谷は人殺しを相手にしたことはなくとも、目の前にいる前川とは毎日顔を突き合わせて同じオフィスの二つ隣のデスクで働く仲だ。

 人を殺して上司を訪ねて来たにしては、前川の表情はさっぱりしていた。誰かに助けを求める男の顔ではない、と谷は思う。


「……多分」

「多分ってなんだ」


 前川の曖昧な返事を谷はすかさず問い詰める。

 前川が酒の席で取引の契約を決めてきたときと同じトーンだ。そのときは先方が約束した覚えがないと言い、結局契約は成り立たなかった。前川の勘違いと結論付けられた。本当に取引先が覚えていなかったかどうかは分からないが、酒の席の方便はよくあることで、ただの口約束で契約書が無ければどうしようもない。

 そのときのことを覚えている前川は、慌てて自分が父親を殺すに至る過程を説明し始めた。

 九州の片田舎で"先生"と呼ばれる職についていた前川の父は、周りの尊敬を集め、評判にふさわしい者であるようにと厳しい人物だった。自分の子供たちにも完璧を求め、特に長男の前川にはきつく当たった。

 父は、何があっても子供を褒めることなど一度もなかった。全てできて当然だからだ。

 叱ることは多かった。できないことなどあり得ないからだ。

 世間一般から見て立派な職に就いて結婚して子供を作り先祖代々続く墓に入る。それが男子の当然だと前川の父は思っていた。

 その期待に応えるべく、前川はずっと努力をしてきた。今までのその苦労を声を荒げて谷に説明する。


「ゲイは父親に抱かれる夢を見るってか」


 唾液を飲み込む暇もなく話す前川を谷が揶揄すると、前川は早口をそのままに言い返した。


「なんですか、それ。馬鹿にしてんですか。じゃああんたは自分の母親を犯したいと思うんですか」

「悪いな、怒るなよ。冗談だ」


 自分は古い人間だからと谷が肩をすくめて見せるが、前川は「笑えない」と硬い表情を崩さない。真剣な話を最悪な方法で茶化され、不満だった。

 谷は前川を笑い者にするつもりは無かったが、自分が前川の父親代わりに思われていることに気づいていたため、つい口から出てしまったのだ。更にセックスまで強請られたら、悪態もつきたくなる。谷は前川よりも彼の父との方が年齢が近い。だから何となく、幼少期の前川がどのような境遇だったか想像がついた。


「前川。お前が親父さんにゲイを病気扱いされたとか、左利きを無理矢理矯正されたとか、吃音を怒鳴られたとか、そんなものは俺は知らん」


 水滴が玉にならずまとわりつき、前川の肌を滑る。こんな雨の日に父親に呼び出されてちゃんと会いに行く前川は親孝行の息子だ。どことなく父親に似てる谷を慕うのも、父親のことが嫌いではないからだろう。

 前川が話す父のエピソードは現代から見れば全て酷いものだったが、子どもを思えばこそのものだった。特に左利きを右利きへ矯正するかどうかなんて最近でも話題に上る。


「まあ、まずは本当に死んだかどうか見に行こうじゃないか」


 谷は前川の父親や恋人にはなれないが、上司として頼られることはやぶさかではない。

 前川の濡れた肩を一度叩き、車の鍵を取りに谷は部屋の奥に戻った。ついでにタオルを取るとそれを前川に投げ、傘を二つ持って駐車場に向かった。



 

 谷が前川に投げて寄越したタオルは洗い過ぎてペラペラなのに毛羽立っていて肌を滑らせると痛く、だがよく水を吸った。それでもまだ前川は濡れていたが、そのまま助手席に滑り込んでも谷は黙っていた。愛車のシートが濡れても気にしないらしい。

 動き始めた谷の車のワイパーは往復する度にギュッギュッと鳴り、明らかにゴムの買い替え時期だ。しかしもっと手が届く場所にあるシフトレバーに引っ掛けられたゴミ箱代わりのビニール袋さえ、中身が溢れ出しそうにも関わらず取り替えられていない。谷の無頓着さがよく表れ、それを指摘する者が近くにいない独身男らしい車だった。

 父に似ている、と前川は思う。

 前川の父も生活に無沈着な男だ。母が病で亡くなり、妹が結婚して家を出て、前川の実家は日に日に荒れていった。父が仕事の都合で息子の近くの単身用マンションに住むように決めてからは、身の回りのこと一つやってこなかった父のために前川が引っ越しの段階から世話をした。その度に言われたのは、前川がゲイであることの恨み言だった。


「せっかく苦労して育てたのにな」


 裏切られた、と父はよく言った。それを言うのは息子に対してだけだった。

 結婚して家を出て、二度と父に寄り付かない妹には言わない。ただたまに「子供でも産めば顔を見せに来るだろう」と楽観的に言うだけだ。


「ここか?」


 マンションの駐車場へとウインカーを出して、谷が前川に聞く。父のマンションに着いた。前川は黙りこんでいたが、事前に入れたカーナビが勝手に案内してくれた。


「そうです」

「よし、行くか」


 谷の口調は仕事で営業先へ行くときとまるで変わらない。いつも通りの様子に、もしかしたらこの人も人を殺したことがあるんじゃないかと前川は訝しむ。だから冷静なのだと。

 再び足を踏み入れた父の部屋は梅雨らしくじっとりと空気が重く、また横たわる質量のある存在に、部屋の中心自体が下がっているよう感じられた。開け放されたままのリビングの扉の向こうに何があるか、前川は知っている。それを前川は物体として認識していて、人が住む部屋という感覚が失われていたが、谷がきちんと靴を脱いで廊下に上がったのでそれにならった。二人とも視線が床を這い、顔が上向かない。

 前川の父はリビングの床に倒れていた。

 前川がリビングの直前の廊下に立ち尽くすと、後ろにいた谷が前川を追い越した。暗い部屋で照明のスイッチを探し、明るくすると床にしゃがみこんだ。

 深緑のラグが血を吸っている。元々が暗い色だからあまり目立ってはいない。前川が父親の頭に殴りかかったことは、側頭部が赤黒く張り付いていることと、側に落ちたガラス製の灰皿から明らかだ。乾いた血の塊が、飛び散った煙草と灰に混ざっていた。

 死んだにしては体が柔らかく、出血が少ない。谷はそれの呼吸を確かめた。


「おい。親父さん生きてるぞ」


 前川が後ろから谷を押し倒した。


「ぐぅ……ッ、お前!」


 週末にゴルフクラブを振るう腕が、前川の腕を捻り上げようと掴む。しかし前川はぎゅっと谷に抱きついて、お構いなしに首筋に鼻を埋めて大きく息を吸い込んだ。エアコンの入っていない室内で、ねばつく汗のにおいがする。


「谷さん、俺、戻りたくない」


 父親の"死体"のとなりで想い人を犯そうとする。

 これほどまでに前川が全ての願望を叶えようとした瞬間は今までにない。

 谷がしゃがんで"死体"に向かって前かがみになっていたからこそ、前川でも自分より年上の男を押し倒すことができた。しかし、前川も一般男性程度の体格と力はあるが、谷の方が上だ。腹に回された腕をこじ開け、上体をねじり、谷は拳の裏で前川の頰っつらを強打した。前川は横殴りにされて倒れ込み、そのまま谷に足蹴にされる。殴られた瞬間に歯で頰の内側を傷つけ、赤が混ざった唾液が口の端からこぼれた。


「こんっの、馬鹿野郎が!」


 怒鳴りつける谷の声を、前川はやっとの思いで起こした上体で受け止めた。

 だがそれ以上は動く気が起きず、投げ出した自分の足を見つめながら、繰り返す。

 

「谷さん」


 怒り狂った上司の名を、その顔を見上げることなく呼んだ。

 

「俺もう、元には、戻りたくないんです」





  

 前川が父にゲイと認められたのは今日が初めてだ。

 それまではずっと無視されていた。初めてカミングアウトしたのは高校生の頃で、そのときはまだ前川は父に受け入れてもらえると期待していた。自分が母や妹より父に可愛がられ、愛されていると思っていたからだ。厳しく接せられるのも、愛されているがためだった。

 それに塾も習い事も休日の予定も夕飯のメニューも洋服の好みでさえ、前川は誰よりも父に優先されていた。

 直接褒められることはなかったが、他とは違う優越感は満足できるものだった。だからこそ、受け入れられると錯覚していた。


「お前は病気だ」


 怒りっぽい父親は声を荒げることなく、息子の同性愛者だという告白を淡々と否定した。


「一時の気の迷いだろう。名門だからと男子校に入れたが、こういう弊害もあるのか」


 中高一貫の寮制の名門男子校、全国からも秀才が集まるそこに通うことは、父にとっても前川にとっても悲願だった。やっとの思いで入学した学校が前川の性指向を歪ませたと思い、「女慣れせんとな」と無下に父は言った。男ばかりいる環境で勉強漬けは、健全ではないと。

 だが、前川はそれが気の迷いではないことを自覚していた。

 自分はゲイだ。

 カミングアウトをしたあと父に激昂されるパターンも、前川は想定していた。無視をされるくらいなら、その方がまだマシだった。食い下がって病気ではないと言ったが、父は聞く耳を持たなかった。それは昨日まで続いた。

 彼女はできたか、そろそろ見合いしたらどうだ、いや今は婚活と言うのか、妹に先を越されてどうする、まあ女の方が早いもんか、しかし未だに浮いた話一つ無いとは――

 父の恨み言は全て前川が異性愛者であることを前提に進められた。前川は父の望み通りに名門進学校を卒業し、国内大手に就職したにも関わらず、結婚しないことと恋人がいないことを、父に恨まれていた。それだけが前川の父の思う通りにいかなかった。

 前川が最も父を喜ばせたのは大学で男女の合コンに付き合いで行った話をしたときで、最も悲しませたのは今日だ。


「もしやお前、オカマか」


 前川は父のために散らかった部屋を片付けていた。せっかくだから一緒に食べようと食事を作る予定だった。

 しかしそれは、父にとって女の仕事だ。


「男のくせに、女の腐ったようなやつだな」


 煙草の煙と一緒に吐き捨てた。

 自分が男であることに、前川は優越感を感じていた。妹や母と自分は違う。

 そして、父が女を見下していたことも、知っていた。

 ――だからこそ、その言葉は。


「お前が言うのか……っ!」


 父にとって女よりもさらに下の腐敗物に成り下がったとき、前川は父を殴った。


「お前のためにッ、俺がッ、どれだけのことをやったかッ」


 前川が家事をしている間、ずっと煙草を吸っていた父の灰皿で、ガツンガツンと叩きつけた。怒りで涙ぐんで朦朧としていた。でもこれだけ殴ったならきっと死んだだろうと、気が済んだときには呆然と思った。

 殺してしまった。

 灰皿を床に落とし、脱力する。張り詰めたものが途端に切れた。それには解放感が伴った。

 もう父のために何もしなくていい。我慢することも縛られることもない。明日自分が捕まるなら、今日は、今日だけは、何もかもが自由だ。だとしたら何をする。

 ――死ぬ前に一度でいいからセックスがしてみたい。

 そう思い至り、事情を話して拝み倒せば一度くらい尻を貸してくれそうな情の深い上司の元へ走ったのだ。


「馬鹿野郎」


 自分を犯そうとした部下を睨みつけ、谷は膝を折る。谷に殴られたまま床に身を投げ出す前川と、視線を合わせた。


「誰かを殺す前に戻れるなら、それが一番じゃねぇか」


 戻りたくないと泣く前川を諭す。


「戻りたくないなら親父や俺を頼るんじゃなく、てめぇがそうなるよう変われ」


 変わりたいと思ったから殺してヤろうと思ったんじゃないか。前川は両手で顔を覆った。

 父が死んでない。谷ともやれなかった。支えがなくなった前川は立ち上がれない。

 それでも谷は自分の部下を人殺しにすることはできず、スマホを取り出して救急車を呼んだ。


 




 前川の父は一命をとりとめた。意識が戻り、言葉もきちんと話せる。だが体の機能には障害が残るかもしれないと医師に説明され、前川も父も揃ってそれを聞いたが、特に何も思わなかった。それでいいと受け止めた。

 前川の父は被害届も出さなかった。軽い事情聴取めいたものを病院で受けたが、自分で勝手に転んで灰皿とテーブルにぶつかったと説明し、谷もそれに乗った。錯乱した部下に助けを求められて手伝っただけだと。谷のそれは本当だった。前川は何も言えない。

 何もかもが、元通りになった。

 戻りたくないと前川が懇願した場所に戻り、父は息子に何も言わない。無視をされていた。ゲイをカミングアウトしたときと同じだ。前川自身も何も無かったのだと思い込もうとしたが、灰皿を振るった手がじんじんと痛むからできない。

 妹には父が入院したと連絡した。しかし全く病院に寄り付かない。仕方なく今日も前川が病室へ足を運ぶと、ハッと父が鼻で笑った。


「馬鹿だな、お前は。左でやってれば殺せたんだ」


 ガラス製の灰皿は重く、しっかり掴み支えないと手から滑り落ちる。それを何度も繰り返せば、だんだんと標準が合わなくなる。

 利き手でやった方が安定するだろう。

 前川は傷んでよく力の入らない右手の代わりに、左手で拳を握った。

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