うな重 —最後の晩餐—

新星エビマヨネーズ

うな重 —最後の晩餐—

 人生の締めくくりに食べたいものは何ですか?

 特別な日にしか食べられない一流店のステーキ?

 それとも、日頃食べ馴染んだお味噌汁?

 私の場合は、実に庶民的です。卵かけご飯にしらすを乗せたもの。とろっとした卵の食感に、ふんわりと漂う潮の風味。あれが大好きなんです。

 一方、妻の場合は、私とは違う高級志向のようでして——


 ・ ・ ・ ・ ・


 この週末は、何ヶ月も前から楽しみにしていました。ようやく一歳になる娘を連れて、一家三人で旅行の予定です。これを機に、小さな車を買いました。幼児の荷物は、ともすると大人よりもかさ張るものです。

 出発の朝、妻はその荷造りに追われながらも、次々と私に指示を出しました。

「オムツ替えが済んだら、ご飯も食べさせちゃって。さっき授乳したばかりだから、ちょっとだけ」

 炊飯器を開けると、夕べから保温されたままのご飯が少しばかり残っています。しゃもじの先でひとすくいして、手近にあった渋い和柄の小鉢に盛り付けました。こうしてみると、いつも使っているパステルカラーのプラスチックの食器とはずいぶんおもむきが異なります。

「見て。なんか仏さんにあげるご飯みたいになっちゃった」

 妻はそれを見て、アハハと笑って言いました。

「そうそう、冷蔵庫にしらすがあるよ。私はいらないから全部片付けちゃって」

 私は喜んで好物の「卵かけしらすご飯」を茶碗によそいました。ああ、これが炊きたてのご飯だったらどんなに美味かったでしょう。一口頬張ると、思わずいつもの一言がこぼれました。

「最後の晩餐にするとしたら、絶対これだよ!」

「もうそれ、何度も聞いた」

 呆れたように妻が笑います。


 楽しみにしていた家族旅行、可愛い娘、買いたての新車、好物のしらす丼……。

 人は幸せの絶頂にこそ、不吉な予感がよぎるものかも知れません。

「……ねえ、この子のご飯がお供えみたいで、僕は最後の晩餐って……。まさかこのあと、事故にあったりしないよね……?」

 もちろん本気で思ったわけではありません。私は妻に、このちょっとした不安な思いつきを、出来の悪いジョークとして笑い飛ばしてほしかった。

 ところが。

「ちょっと、縁起でもないこと言わないでよ!」

 妻は笑うどころか、真に受けて怒りました。

 二人の間には微妙な空気が流れました。言ってはいけないことを言ってしまったような気がして、私は次の言葉が出ませんでした。

 気まずい沈黙のあと、今度は妻の方が冗談めかして言いました。

「言っとくけど、私の最後の晩餐はうな重って決めてるんだから。夕べのコロッケなんかじゃ死にきれないわ」

 その一言と同時に、「ピンポーン」とマンションのチャイムが鳴りました。

 マンション住まいの方はよくご存知かと思いますが、マンションの場合、チャイムは二度鳴ります。一度目はエントランスの解錠時、そして二度目は部屋の前。

 ところが、いまのチャイムは初めから部屋の前でした。ごくたまにこういうことはありますが、今回は何の心当たりもありません。


 私は娘と食卓についたまま、玄関に出た妻の応対に耳を傾けました。

「お待たせしました。うな重一人前です」

 私は思わず玄関へ駆けつけました。そこにはフードデリバリーの制服を着た青年が立っていました。妻はほとんど顔を突っ込むようにして、手渡された白いビニール袋の中を覗き込んだまま固まっています。私はそれを急いで引ったくりました。彼女の手は小さく震えていました。

 袋の中には、ずっしりとした弁当箱がひとつ。透明な蓋のすぐ下に、立派な鰻の蒲焼と、タレの染み込んだ白米が敷き詰められていました。

 まごうことなき、うな重です。


「……じゃ、ありがとうございました」

「待ってください、うちは頼んでいません!」

 爽やかに立ち去ろうとする青年を私は慌てて呼び止めました。

「え……こちら205号室ですよね?」

「ここは305です、ひとつ上です!」

 それを聞いて、青年は可哀想なほど何度も謝りながら、うな重を持って立ち去りました。

 良かった——。単なる間違いとわかると、私はほっと胸を撫で下ろし、おどけて妻を振り返りました。

「最後の晩餐、食べ損ねたね」

「…………」

 妻はさっきの姿勢のまま固まっています。両手は小刻みに震え、深く俯いた顔はだらりと下がった長い髪に隠れて見えません。

 ポタリ、ポタリ……と、何かの滴が足元にこぼれました。

「……大丈夫?」

 その顔をそっと下から覗き込むと——


 ……彼女の口元からは、犬のようなヨダレが垂れていたのです。

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うな重 —最後の晩餐— 新星エビマヨネーズ @shinsei_ebimayo

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