表出

@jtqge_56

明け方、霧雨に包まれた日。

いつものように私は郵便物の配達をしていた。

「君、それでは風邪をひいてしまうよ。」

役場の近くで、私の管轄の一番端。

大きな日本家屋に、藍色の浴衣の影が見えた。

その日、私は家主に呼び止められ、縁側に招き入れてもらった。

雨が止むまで二言三言。私はその人と話をした。


花の話。天気の話。昨夜読んだ書物の話。


朝早くからの、単調な業務ばかりだった私にとって、それは幸せだった。

あの人と話しているときは、日頃の疲れも良いものだと思え、ささやかな安らぎの時間を過ごせた。


それから私たちは、配達のたびに顔を合わせるようになった。コロコロと笑いながら話すやわらかな雰囲気が私を癒した。



朝、配達の時に知り合った郵便局員は、家の中で退屈していた私にとって、とても面白い存在だった。

あの子は自分が何も知らない、割れ物のような雰囲気を放っていた。日の光のような、やわらかな眼差しの人だった。「もっと教えて欲しい。」と求められるたびに、私はとても嬉しい気持ちになった。永遠に君と話していられたらいいのに、とそう思うことさえあった。



しかし、君を引き止め続けてしまえば、君を危険な目にさらす、と頭の中で理解していた。あの存在が、私がより親しくなろうとすることを踏みとどまらせた。でも、私は自分の欲を優先し、その子の心を、縁側に引き止め続けた。



いつからだったか。毎日、ある時間になると、あいつは私の家にやってきた。酒だの、和菓子だの、親戚からもらった肉だの。理由をつけて、私に会いに来た。そしてそれらに、好意とも言い難い異常な執着が含まれていることを、私は理解していた。今まで私と関わりを持った人間は、私から離れていった。あいつが私から剥がしていった。



私は毎朝、なるべくあの子が長い間、私と話してくれるように仕向けた。久しぶりに話してくれる人がいて、きっと嬉しかったのだろう。私は自分の心を優先して、毎朝毎朝話していた。しばらくして、午後の配達もあの子に頼んだ。そうすればあいつが私の家に来ないから。それから、あの子と話すことが日々の幸せになっていた。



その日、いつものように私は配達のため家を訪れた。隣の庭からの視線が、背中を刺す。振り返ると、こちらを見つめる人影が見えた。

隣人は私に「あなた、何の人?」と声をかけてきた。


「私はただの郵便局員です。いつもこの周辺の配達に。」


「そう。あなたはその家の人と、とても懇意なんだね。」


「何を言ってるんですか。単に配達先の方ですよ。どうも何も。」


「そうかい。ならいいんだ。私はあの人と、長い付き合いだから。」


隣人は、妖しげな表情で私の方を見つめていた。

「あの人はね、いや、あの人には私がいるの。私はあの人と共に在る。」

私は異様な空気を感じ、すぐにその場を離れた。


その日から、家主と顔を合わせる前。暁紅。視線を感じるようになった。まるで、思考を舐め取られているようで、気味が悪かった。それは日に日に増えていった。


路地の裏。戸の隙間。

ふとした時の背後。

思考が恐怖で満たされてゆく。



夕暮れ時、あの子は近頃視線を感じるのだ、と相談してきた。顔は蒼白で、不安に溢れており、今にも吐き出しそうだった。私は帽子をそっと取り、その子の頭を撫でた。きっと気のせいだと言い聞かせ続けた。

あの子は私の希望だから。


「君は何も気にしなくていいんだよ。だからただ私と話をしていておくれ。」

そう語りかけた。体中を覆うような、鋭い視線が、私を苦しめた。


あれが現れてから、私はあの方とお話しする機会が減ってしまった。近頃は会うことさえも拒絶され、あれに危害を加えるなら私にしろ、と忠告された。

私の方があの人を理解している。あの人のことを想っている。なのに、なぜあいつは私の邪魔をするんだ。私の方が。考えれば考えるほど、体が煮えくり返るほどに苛立ちが募っていく。私だけのものにする。

そう考えるたびに、体から鱗が剥がれ落ちた。髪が抜け落ち、真っ白なってゆく私の全身が鏡に映った。


そうだ。

あの人は私だけのものなのに。


ある晩、私は息苦しさに目を覚ました。かすかな物音がしたと思うと、ぐっと何か細長い紐のようなものが、私の首に巻きついてきた。手を首にたぐり寄せ、それを見る。


真っ白な、まるで骨のような細い細い蛇が、私の首を締め付けていた。


それは次第に、全身を這うように、私を締めつけた。声を出そうにも、もがこうにも、体中が固く、打ち付けられたように何もできない。みるみるうちに私の意識を遠のいていく。


その日は嫌な予感がした。いつもの隣人が私のことを見つめていなかったから、私は焦って玄関先で声をかけた。

「いらっしゃいますか。手紙を届けに参りました。」

返答は無い。私は焦って自転車をかなぐり捨て、中に入った。そこでは全身を蛇に締め付けられている家主の姿があった。

私は気が狂ったように、私が私でないように、体からそれを剥がし、持っていたペーパーナイフで、それを叩き続けた。人間の様な叫びがした。

私はそれを耳に入れることなく、ただ歯を食いしばりながらそれを叩き続けた。



目を覚ますと、私は病室にいた。後から詳しく聞いてみれば、早朝やってきた局員が私が泡を吹いて倒れているのを発見し、救い出してくれた、らしい。後日私は会いに行くために、局へ立ち寄った。花を持って。しかしそこにあの子はいなかった。私は後悔の念を抱きながら、ずっと生き続けた。



分かっていた。あの人のことばかりを考えていること、所詮、世間話の相手というだけなのに、親しくなりたいと思ってしまっていることも。

この感情は内に秘めなければいけない。

中に中に閉じ込めなければいけない。きっとあの蛇は、隣人だったのだろう。だとすれば、私は一時的な嫉妬の感情に体を乗っ取られ、1人の人間を殺めてしまったことになる。そんな状態で、あの人に顔向けはできない。


内に。内に。

感情を閉じ込めようとすればするほど、自分の体が固く、殻のようになっていくのを感じた。より内側に。

周りに漏れ出ないように。

綺麗な姿であの人と会えるように。

私は郵便局で1人こもっていた。


人一人入るような大きな蛹が郵便局の隅に有る。いつからかは分からないが、ひっそりと。


晩年、私は病床に伏した。病室には、やわらかな日の光が差していた。あの出来事があってから、数年、私は自由に人と関わるようになった。しかし私の心はあの子に、持っていかれたままだった。


身寄りもなく、1人で町の病院に入院し、時々看護師の人と過ごしながら、様々な花を活けてもらう。


優しく照らされた藤の花が風にゆれていた。


一匹の蝶が止まる。


「もう、わたしは一人なんだ。そばにいてくれ。」


蝶はそれに答えるように、花の上から私の方へひらひらととんできて、指の上で羽を広げた。


私はずっとここにいる。

そうあの子が伝えてくれた気がした。

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