蛍雪

夢月七海

蛍雪


 ……僕の初恋は、高校一年生の時だった。

 母親が熱心に勧めるので、元々ピアノを習っていた僕は、もっと腕のいい先生のいる教室へ通うことになった。場所は自宅の隣町で、平日のレッスンは大体夜の七時に終わった。


 早く帰りたいので、僕は近道として、ある公園の中を突っ切っていた。そこは、大きな公園で、真ん中には直径一キロ以上の池があった。僕は、いつもそのすぐそばを通り過ぎていた。

 夜の七時の公園は、開いているけれど、人は殆どいなかった。池の周りをジョギングしたり、散歩したりする人がたまにいるくらいだ。だけど、七月の初めの頃に、ちょっとした変化が現れた。


 僕が帰るときに、真っ先に目に入るベンチは、一つだけ、池の方ではなく、通路の方を向いていた。そのすぐ隣には街灯が立っている。まだ日が沈み切っていないのに、すでに点いている街灯の真下に、一人の少女が座っていた。

 着ているブレザーは、隣町の教育熱心なことで有名な公立高校のものだった。大人びた横顔に、後れ毛の出ているポニーテール。熱心に読んでいるのは、日本史の教科書だった。


 それが余計に目を引いた。彼女は、目を輝かせて、口元に微笑みをたたえながら、教科書をめくっている。まるで、学ぶことが楽しくて楽しくて仕方がないといった様子だ。

 僕には、それが信じられなくて、また、羨ましかった。勉強はおろか、ピアノ自体も、周りが褒めてくれるから続けているだけで、情熱なんてない僕にとって、彼女はあまりに眩しすぎた。


 時々、胸ポケットからペンを取り出し、教科書に何か書き込んでいる彼女を、失礼だと分かっていながら、チラチラ見ていた。目の前の僕なんて構わずに、彼女は夢中で教科書を読んでいる。きっと、気付いてもいないだろう。

 その後も、平日の夜七時、彼女はそこに座っているのを見た。読んでいる教科書はいつも変わり、制服も衣替えしていたが、彼女は必ず街灯の下に座っていた。どうしてこんなところで勉強しているのか? とは思ったが、僕は彼女を見られるのが嬉しくて、深くは考えなかった。


 そう。彼女は一年中そこにいた。祝日や夏休みなどは、僕のピアノの時間もお昼に変わるのだが、その時間帯に彼女の姿を見ることはなかった。だが夜の七時には、夏の盛りも、冬の真っただ中も、彼女は静かに教科書を読んでいた。

 可愛らしくて、自分にはない情熱を秘めた彼女を、いつの間にか好きになっていた。しかし、声を掛けたくてもどうすればいいのか分からずに、僕は結局黙って彼女の前を通り過ぎるだけだった。

 年度が替われば、彼女が高校を卒業して、このベンチからいなくなるかもしれない。そんな不安もあったが、四月以降も、彼女の姿は変わらなかった。僕はほっとしたけれど、やっぱり、何も言わなかった。


 もうすぐ彼女が現れてから一年だと思っていた七月のある日、彼女の隣に一人の少年が座っていた。金髪に耳のピアス、青いカラーコンタクトと黒を基調とした上着にジーンズと、白いブラウスの彼女とは何もかも真逆だった。

 驚いて、思わず立ち止まった僕を、少年はしっかりと見た。彼女にされたことのない反応に、僕はうつむいて、歩き出す。その間も、少年は僕の方を見ている気がした。


 いつも僕に見られていることを知っていた彼女が、兄をボディガードとして呼んだのかもしれない。真っ先にそう思った。少年が彼女の恋人だと思わなかったのは、多分、願望交じりの憶測だからだろう。

 ずっとうつむいていたけれど、ちょっと気になって、僕は二人の真ん前で少し顔を挙げた。少年は、彼女の持つ教科書の方を指さして、何かを教えているみたいだった。彼女が花のように笑ったのが一瞬だけ見えて、かっと頭の中まで熱くなった。


 やっぱり、彼氏だったのかも。勝手に恋をして、勝手に失恋した僕は、うなだれながら帰っていった。

 次の夜。自分だけの気まずさを抱えていた僕は、それでもその公園に行ってみた。失恋をしたとしても、彼女の姿は見ていたかった。


 だが、彼女はそのベンチにはいなかった。一年ぶりに空っぽになったベンチを、僕は不思議な気持ちで通り過ぎた。

 それから、なぜかふと気になり、立ち止まって、初めてベンチの方を振り返った。街灯の、池の方に面した足元には、水の入ったガラス瓶に一輪のスズランが入っていた。
















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蛍雪 夢月七海 @yumetuki-773

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